第3話列車の旅、不意の来客
『ハバルキリア美術館までは、一時間半といったところだ』
煤で汚れた窓ガラスに映る不鮮明な姿が、流暢に語る。
学園長の伝達魔術だ。現実でないものを操るのが、最強の魔術師の得意技だった。
魔術の臨時教室ただいま開講、というわけでは勿論ない。
特に事情を説明されることも、ろくな準備をする暇もなく魔石機関車【アルビレオ】の一等客室に押し込められたシアンたちに対する、ようやくの説明時間だった。
シアンは、自分の着るモスグリーンのパンツスーツを洗濯したくて堪らなかった。
膝の上にどうにか用意した革のトランクには、着替えが入れてある。糊の利いたブラウスの出番が待ち遠しい。
半日愛煙家たちの前で講演した服をこれ以上着ていると、自分の魂にまであの煙が染み込みそうだった。
学園長は、そうした女性の機微には疎いようだった。
『二日前、そこの展示品が盗まれた。犯人は不明だが、現場には魔術の痕跡があった。だから、君たち【対抗魔術師】にご足労願うわけだ。
ハバルキリア美術館について、説明は必要かね?』
「名前だけは聞いてますよ」
座席の固いクッションに顔をしかめながら、リックは頷いた。シアンもそうだが、講演会に出席したときのダークブルーのスーツ姿のままだ。「かの大国唯一の国営美術館でしょう?」
『訪れたことはあるかね?』
「いいえ、残念ながら。あの辺りはゲートもありませんし、休暇で訪れるのは危ないでしょう?」
「そうなの?」
「猪のお気に入りの泥場くらいには、危険だろうさ」
「それでも行きたかったわけ?」
シアンの呆れたような視線に、リックは肩を竦めた。「世界一の芸術の宝庫さ、あそこは。
【色】による魔術を専門とする同僚の夢見るような目付きに、シアンは眉を寄せる。自分のことを棚に上げるようだが、しかし全く、専門家の話はそうでない者には退屈に過ぎる。
学園長の映っていない窓に視線を移す。
レンガ造りの家、川沿いの土手をのんびり進む幌馬車、教会の屋根、麦畑。ぼんやりと眺める内に流れていく景色は、世界とは次元を隔てる【マレフィセント】にいる限り目にする機会の無いものだ。
こうした暮らし振りに憧れはしないが、しかし果たしてどういうものなのか、興味がないと言えば嘘になる。
魔術師は魔力を操る才能によって、そうでない者から弾き出された存在だ。
自由を求めて在野に下る魔術師もいるが、その結果は、【マレフィセント】の追跡を恐れながらの逃亡生活を余儀なくされるだけ。穏やかな暮らしなど、望むべくもない。
望むような人格の魔術師は、いないかもしれないが。
自らの業にため息を吐きつつ、シアンは窓から視線を外し、向かいに座るリックに向き直った。
聖都から馬車で駅に向かい、そこから魔石機関車で一時間半。ハバルキリア美術館のあるサンムラシュの町までは、ちょっとした旅行くらいの距離があった。
「まさか、仕事でハバルキリア美術館に行けるとはな」
シアンの視線に気付いて、リックは片目を軽く瞑ってみせた。「短時間なら館内を見て回れるだろ。シアン、お薦めを教えてやるぜ」
「呆れた。仕事だって、自分で言わなかった?」
「良いかシアン。残りの人生、俺もお前も二四年生きてきたから大体解ると思うが、仕事は幾らでも湧いてくる。けどな、ハバルキリア美術館を見て回る機会なんて、魔術師やってる限り一生に一度しか無いんだぜ? どっちを優先するか、決まってるだろ?」
『上司の前でする話かなそれ?』
「仕事にも関係ありますよ、学園長。何があるかを見れば、何が無いかも解ります」
まあ、確かにとシアンは心の中で頷いた。表には出さない。調子に乗るだけだからだ。
リックの主張に存在する一理は、学園長の説明が【魔術師による展示品盗難事件】である、という点にある。
魔術師の価値観は驚くほど個体差があり、逆に言えば、何を盗んだかを調べれば犯人がある程度目星がつくのである。
歴史ある書物か、謂れある聖遺物か。絵画か彫像か、その題材によっても、犯人が志す魔術の形は輪郭くらいは知ることが出来る。
敵を知ることから勝利は始まる。
古い格言は、シアンたち【対抗魔術師】には大いに当てはまるのだ。
ガラスの中で、学園長の虚像が肩を竦めた。上司であるからこそ、敵を知ったシアンたちが無敵であることは良く理解しているのである。
『ほどほどに頼むよ、リック』
「お任せください、私もついてます」
『頼むよシアン。警備会社とは話をつけたが、なるべく目立たないようにしてくれ』
「警備会社?」
シアンは眉を寄せた。「国営美術館の警備を、民間が担当しているのですか?」
あからさまに、しまった、というような沈黙のあとで、学園長はため息を吐いた。「……あそこの館長は、少々独特な経歴の持ち主でね。基本的に他人を信用していないが、中でも【異端審問官】を信用していない」
世界最大の信者数を誇る秩序神教会に所属する聖職者にして、魔術師の不倶戴天の敵であった存在だ。
奇跡は神のものであると頑なに信じ、神秘を自在に扱う魔術師を悪魔の手先と信じる者。世界大戦以前は彼らは魔術師を狩る猟犬であり、
魔術師が【マレフィセント】に引っ込み、魔術を民間の生活に流用する魔学者が現れ、魔石用品が生活に欠かせなくなって漸く、彼らは魔術師を目の敵にするのを控えた。
最新の法王は魔学製品を愛用しているというし、無法な対立は前時代的なものになりつつある。
代わりに彼らは、各国から捜査権、逮捕権、裁判権を与えられるようになった。神に反する者を追っていた彼らは、法に反する者を処罰する組織に変革を遂げている。
「それで俺たちを呼んだわけですか」
リックは腕を組み、右手の人差し指で左肘を叩き始めた。考え事をするときの、彼の癖だ。
そう、考える必要がある。犯罪の捜査を担当する筈の異端審問官を嫌う館長が、シアンたち魔術師に声をかけたということは、詰まりどういうことか。
「最悪の場合」
シアンは直ぐに結論付けた。「異端審問官に絡まれる恐れがある、ということですね」
「どうも、少し違うようだ、シアン」
リックが鼻をひくつかせて、ため息を吐いた。「もう絡まれてる」
疑問を口にするより早く。
「……失礼します」
客室のドアが、勢い良く開かれた。
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