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「え……何これ……」

 学校から徒歩で十五分程度の距離にあるマンション。その三〇一号室が、依恋の部屋だ。

 何時も通りに周囲の景色を見ながら歩いて下校し、エレベーターに乗って、自室前の通路に出た。

 そこで、依恋はそれを見た。

 うつ伏せになって、倒れている人間の姿を。

 とりあえず、近所に住んでいる人間では無さそうだ……と依恋には見えた。

 背格好から見ると、倒れている人間は男性で、依恋と然程年齢は変わらない……少年で有るようだ。

 服装も学生服のようだし……同じ学校の生徒? と依恋は一度考えて、即座に打ち消す。それは行き倒れの髪が、真っ白だったからだ。

 まるで、雪原のように――雪原なんて、本物は見たこと無いんだけれども――綺麗な白髪を、依恋は学校で見たことがない。

 ――それがなんで、こんな所で行き倒れに?

 まったくもって、意味がわからない。とは言え、放って置くわけにはいかないだろう。

「あのー、大丈夫ですかー?」

 依恋はしゃがみ込んで、倒れた少年の近くに寄って言う。

「う、うう……」

「その、どうかしましたかー、救急車とか呼んだほうが……」

「エネルギー……不足……」

「……は?」

 少年の口から出てきた言葉の意味が分からなさすぎて、依恋は思わずそんな声を出してしまった。

 エネルギー不足って何?

「エネルギー……不足……活動の継続は困難……社会的に正しい、エネルギー充填方法を……教えて欲しい……」

「……えーっと……」

 正直、なんでこんな意味の分からないことを言っているんだ、という気持ちはある。大いにある。

 有るけれども、それ以上に、この少年は放っておいたらヤバいという気持ちのほうが強い。

 エネルギー不足、それは要するに――

「お腹減ってるの?」

「……そう、推定される」

「あー……」

 なんでこんな所で、というのは分からないけれども、どうやらこの少年は、お腹が空きすぎて、空腹のあまりぶっ倒れてしまっているようだ。

「仕方ないか」

 見捨てるのは寝覚めが悪いにも程がある。善行の一つや二つ、たまには積んでいこうじゃないか。そう思いながら、依恋は立ち上がった。

「ちょっと待ってて、何か食べるもの取ってくるから」

 言うと、依恋は自室の鍵を開けて、中に入る。鞄を玄関に置いて、ダイニングキッチンの冷蔵庫へ。

 確か、その中には、昨日の夜――そして今日の朝――の、残りが確か……

「あったあった」

 冷蔵庫の中にあったそれを手にとって、依恋は行き倒れの少年の元へと戻ってきた。そして、その顔の前にしゃがみ込む。

「はい」

「ん……」

 依恋がそれを差し出すと、うつ伏せに倒れていた少年は、その頭だけを持ち上げて、依恋の方を見てきた。

「うっ……」

 依恋はそれ――少年の顔を見て、思わず呻き声を上げた。ぎょっとするような、不気味な容姿だったから、というわけではない。

 ――すっごい、綺麗……

 男性だというのは分かっているのに、その整った顔立ちは、カッコいいよりも先に綺麗が出てくるぐらいだった。

 肌が白い。鼻筋が通っている。赤い瞳の目が大きい。まつ毛が長い。

 でも、そんな美形が台無しになるくらい、少年は情けない姿と表情をしていた。うつ伏せで顔だけ上げている、釣り上げられた魚みたいな格好がまず台無しだし、ボンヤリとした半目では綺麗な瞳も意味がない。

「それが……エネルギー供給源なのか?」

「え、わかんない?」

 そんな変なものを出したものは無いんだけど……と思いながら、依恋は自分が差し出したものを見た。

 それは、何の変哲もないホットサンド……を、冷蔵庫で冷やしたものだ。焦げ目がついていてサクサクのパンに、ハムとチーズを挟んであるという、割と普通のホットサンド。

 そんなものの食べ方が分からないなんて事があるんだろうか。記憶喪失だとしても、日常的なあれやこれやを、忘れることは無いはず? と依恋は思う。

 いや、でもそんな事よりも――

「とりあえず口開けて」

「ん……」

「はいっ」

「うぐっ!」

 素直に口を開けた少年に、ホットサンドを押し込む。

「はい、よく噛んで食べること」

「ん……」

 人差し指を立てながら依恋が言うと、少年は素直にもぐもぐとホットサンドを咀嚼して、飲み込む。

「うん……エネルギーが充填された。全身に行き渡るまでは時間がかかりそうだが」

「まぁ、それはそうだろうけど……飲み物、飲む?」

 言いながら、依恋はホットサンドと一緒に持ってきたペットボトル入りのお茶を差し出す。差し出した後で、気付いた。

「あー……もう一回口開けて?」

 少年はやはり、依恋に素直に従って、自分の口を開く。そこにキャップを開けたペットボトルを咥えさせて、角度を付けてやる。

 流れ込んでいく緑色の茶を、こくこくと喉を動かしながら、少年は受け入れていく。

 ――なんか、犬の世話してるみたい。

 そう考えると、この美しい少年の有様も、何だか可愛らしく思えてくるというものだ。

「……コンディションの改善を確認。ベストではないが、活動は可能と判断……感謝を」

「あ、ちゃんとお礼とか言えるんだ」

 一気にペットボトル一本を飲み干した少年に向かって、依恋は言う。正直、この少年の言動だと、他人への感謝とか、そういうものを置き忘れて成長しているのではないか……なんて思っていたから。

「その程度のコミュニケーションは、初期設定としてプログラムされている」

「何それ」

 奇妙な物言いに、思わず依恋はくすくすと忍び笑いを漏らす。なんだか、面白い人だな、なんて。

「言葉通りの意味だ」

「はいはい、わかったわかったわかりましたって。で、そんな君の名前は何ていって、なんでこんな所で倒れてたの?」

「僕の名前は、カルディア。目的は、当マンション三〇二号室への居住」

「三〇二ねぇ……ふーん……」

 と適当に相槌を打って、依恋は気付いた。

「え、隣?」

 どうやらこの正体不明の美少年――カルディアは、今日から依恋のお隣さんになるらしかった。


:――:


「うわっ、殺風景……何この部屋、虐待にでも使うの?」

 眉を潜めながら、依恋はそこを見渡して言った。

 壁紙やカーテンすら真っ白で、家具らしい家具も無い。テーブルと椅子だけがあるのが、まるで何かの間違いみたいな部屋だった。

 ダイニングキッチンのダイニング部分がそんな具合で、キッチンは――まぁ、調理器具や冷蔵庫が一応揃っているだけまだマシか。それにしても――

 ――ここ私の部屋と同じ作りなの? マジで?

「……なにか問題でも?」

 そう言うのは、依恋の一歩前に立っている件の少年――カルディアだった。首だけで振り返ったその顔に表情は無く、その玲瓏な美貌と相まって、人形のような印象すら有る。

 ここは三〇二号室――つまり、カルディアの部屋だった。

 初対面の男の部屋に入るなんて、いくらなんでも不用心――という気は、依恋はまったくしていなかった。

 ――だって、この子、そういう感じ全くしないし……

 真面目に警戒するほうが馬鹿らしいくらい、カルディアから依恋が受ける印象は幼いものだった。

 カルディアは見た目こそ同年代だけれども、七つか八つくらい下の子供を相手にしているような気すらしてくるのだ。

「あー、だってこれ、心が休まるものが無いっていうか、癒やしがないっていうか……」

「必要なのか、それは」

「いや、そりゃそうでしょ、常識的に考えて」

 呆れながら依恋が言うと、カルディアは神妙に頷いた。

「君が言うなら、そうなのだろう。何か、用意しておく」

「いや、そこまで真面目くさって言うことじゃないんだけどね」

 そう言いながら、依恋はそのテーブルの上に、持ってきた荷物を下ろす。それは、依恋の部屋で余っていた食材だった。

 ――ま、一人だと多かったしちょうどいいよね。

「倒れるほどお腹減ってるのに、あれで十分なわけ無いんだから。もっと食べないと駄目だからね」

「確かに。エネルギー残量は危険域に有る。十分な補給が成されたわけではない」

 いちいち素直で真面目だなぁ、なんて思いながら、依恋はロングの髪をゴムでポニーに纏めつつ、キッチンに立つ。

「ちょっと失礼……って、あちゃー……」

 冷蔵庫を開けて、思わずそんな声を漏らした。

 だが、そうなるのも当然のこと。依恋が開けた冷蔵庫の中身は、見事に空だったのだから。新生活初日だから仕方ないと言えば仕方ないのかもしれないけれど。

「ま、そのための持ち込み食材、っと。ね、何か食べたいもののリクエストとか……あるわけないか」

 依恋のそんな問いに、カルディアは立ったまま答える。

「いや……さっき補給したあの――」

「ホットサンド?」

「それだ」

 いっそ機械的に感じるほど、きっちりとした角度で頷くカルディア。

 ――もしかして、気に入ったのかな?

「おっけー。それはそれとして、座って待ってたら?」

「分かった」

 カルディアは依恋の言葉に従って着席する。背筋を伸ばし、軽く握った拳を手の上に置く様は、忠犬と言うか、狛犬のようだ。

 ホットサンドに必要なのは、パンとハムとチーズ。それだけだと野菜が足りないので、サラダも作ろうか。そんな事を考えて、食材を取り出す。

 依恋も昼食を摂っていないわけだし、自分の分も作らなくては。そんな事を考えながら、依恋はカルディアに声を掛ける。

「ねー、なんでここに引っ越してきたの?」

「実地調査だ」

「……何それ?」

 聞きながらも、依恋は手を動かし続ける。食パンを切って、ハムとチーズを挟む。ここからは、本当はホットサンドメーカーを使うのが一番良いのだけれども、まぁフライパンでも代用は効く。

「データを集めることは容易い事だ。しかし、データはデータでしか無い。そこには主観が欠けている」

「いや、言ってる意味分かんないし」

 わかりにくい言葉を使われているわけではない筈なのに、今ひとつ言葉が頭に染み込んでいかない。

 なんというか、二階と三階で会話しているみたいな気分。

 そんな事を思いながら、野菜を適度な大きさに切って、器に放り込んでいく。

「客観による情報は正確性を持っている。しかし、データとは見るものによって、認識を変える。観測者によって、データは歪められる」

「どういうこと? 正確な方が、データって良いものじゃないの――と、まぁとりあえずこれでも食べてて。箸の使い方……いや、フォークのほうが良いか」

 言いながら、ドレッシングをかけたサラダを盛った器に、フォークを添えてテーブルの上に置いた。

「問題ない。当然、不正確であるよりも、正確であるほうが、データは優れている。しかし、届けるべき受け手が歪んでいるのならば、歪んでいるデータこそが正確になる。ならば、データ収集のための観測手は、同じ歪みを抱えて居るべきだ」

「えーっと……」

 フライパンでホットサンドに焼き目を着けながら、依恋はカルディアの言うことを考えてみる。中に挟んだチーズがとろりと溶けて、パンの外に染み出してくる。香ばしい匂いと、ぱちぱちという油が弾ける音。

「それって要するに、辛いものが好きな人の好みにあったものを出すには、辛いものが好きな人の方が良い……みたいな?」

「僕にはそれが正確なのかは分からない。だが、君がそう言うならそうだろう」

 もしゃもしゃとサラダを食べながら、カルディアは言う。口の周りにドレッシングがベタベタと付いており、整った容姿が台無しだ。

「……それでいいの?」

 言いながら、出来上がったホットサンドを更に載せて、依恋はカルディアの向かいに座った。

「君の言葉に合わせると、人間のためのデータを集め、それを真に理解するためには、人間に近い観測主が必要だ、ということだ」

 言いながら、カルディアは目の前のホットサンドに手を伸ばし、そのまま口に放り込む。

「あー、もう、ボロボロ零してるし、口の周り汚れっぱなしだし……」

「む、済まない……」

 謝るカルディアの口元を、ポケットから取り出したハンカチで依恋は拭ってやる。

 拭ってやりながら、依恋は考える。

 ――人間のためのデータを集めるために、人間に近い観測主が必要って、それじゃまるで……

 カルディアは人間ではない何かによって遣わされた存在で、カルディア自身もまた、人間ではないみたいじゃないか、と。

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