お隣のパラディオン

下降現状

一話・まるでページを捲るみたいに

1-1


 『それ』を何と例えようか。

 大地に存在する大きな球状の物体――とは言っても、完全な球体というわけではなく、それどころか一定の形を保っているわけでもない。

 ぼこり、ぼこり、と泡立つように常に変形し、流動し、蠢いて。不定でありながら均衡を保つ。悪夢のような『それ』――

 揺らめく度に、『それ』は色彩を変えていく。白から、赤に。赤から、黒に。黒から、緑に。緑から、白に。

 変化は規則性を持たず、内側から濁った色彩を溢れさせていく。それだけのものを、抱え込んでいるのだと言わんばかりに。

 『それ』は内側から沸騰する球体であり。

 『それ』はのたうつ蛇の群れで作った籠であり。

 『それ』は無重力空間で育った大樹であった。

 真っ当な人間がそれを見たら、間違いなく嫌悪感を覚えるだろう。腐肉に集る蝿と蛆を見たかのように。それほど、『それ』はおぞましい印象を与える存在だった。

 同時に、『それ』を見た人間は、こう思うだろう。

 『それ』は、生きている、と。

 何らかの自然や物理現象が産んだパターンではない。その脈動、流動の激しさは、川の流れのようなものではなく、明確な意思を感じさせるものだった。

 意思――いや、もっと原始的プリミティブで、力強いもの。

 それは情動や、感情と呼ばれるものだ。

 憤怒。憎悪。悲嘆。

 どろどろと、人の心の内で煮立ち、渦巻く感情。それが織りなすパターン。

 もしも、感情が物理的な形状を持ってこの世に現出したのだとしたら、このような形をとるのかもしれない。

 沸き立つような、色めくような、感情の渦巻き。悪夢のように噴出するエネルギーの塊――『それ』は怒り、憎み、妬んでいた。

 その強力な、全てを破壊し飲み込むほどの、力を持って、『それ』は何処かを目指して進んでいた。

 進行方向に存在するもの――それは、奇妙に曲がりくねって爆発するかのように枝葉をつける大樹の群れや、二対の金属翼を持つ空飛ぶものだ――を踏み砕き、或いは飲み込みながら、『それ』は何処かを目指して進んでいく。

 破滅的で悪夢的な行軍。

 しかし、それは長く続かなかった。

 『それ』は、行軍を止める。ぴたりと動きを止め、それでも内側から色を溢れさせ、のたうち回る事だけは止めない。止められない。

 行軍を止めた『それ』は、明確に一点を捉えていた。或いは、見ていた。

 ああ、その視線の先に存在するものは――


:――:


 、今日の空も青かった。そんな分かりきった青空を、依恋えれんは頬杖をついて、教室の窓ごしにぼぅっと眺めていた。

 青い空と、それに突き刺さるように高く伸びる、中央塔セントラル。それがこの街の中心地点だ。

 上天のスクリーンに映し出された澄み切った青空は、人造物に過ぎないが、目を奪う程度には美しいものだ。

 ――それ以前に、本物の青空なんて誰が見たこと有るんだか。

 そんな事を考えると、自然、頭の上を、教師が語る言葉がすり抜けていく。

「えー、そういうわけで、大隕石とそれが引き起こすと予想される気候変動から逃れるために、人類はドーム型の居住施設、コロニーを建造してそこで生活する道を選んだわけです。皆さんが住んでいるここ、第一〇六八コロニーもその一つであるわけですね。で――」

 教壇に立った、メガネを掛けた青年の教師が、指差す。

「そこでぼーっとしてる希咲君に質問です」

「えっ、あ、はい」

 差されて、依恋は慌てて立ち上がった。くすくすと周りから笑い声が聞こえる。流石に、あからさまに過ぎたらしい。こうなると少しばかり恥ずかしい。

 そんな依恋に向かって教師は問う。

「コロニーに避難した後、人類は何をしたか? 答えられますか?」

「あー、えーっと……それは、ですね……」

 冷や汗が額を伝う、目が泳ぐ。確か予習したから、問いかけの答えは知っている筈なのに、急に言われた所為で、出てこない。

 一つ、何か一つで良いから、いい感じのヒントが有れば、そこから連鎖的に思い出せる気がするのに。

 ――いや、これは不味い。

 依恋がそう思ったとき、前の席から、ノートがすぅっと流れてきた。

 視線だけを落として、そこに書かれている内容を確認する。

 ――ケイオス・システィマ。

 その単語を見た瞬間、依恋の脳内でぱちりとパズルのピースが合致した。浮かんだ答えをすらすらと口にする。

「激変した環境は人類が居住可能なものでは無くなっていました。それを元に戻すために、人類はナノマシンを全大地に散布しました」

 ケイオス・システィマとは、そのナノマシンの名前だ。自己増殖も可能な、自立行動する極小の分子機械。万能の物質。人類の生み出した最高のもの。

 だった、筈のもの。

「結構。座って……後まぁ、話はちゃんと聞くように」

「はい、すいません……」

 言いながら席に着いた依恋は、差し出されたノートに、さんきゅ、と書き加えて、前の席に返す。

 前の席の少女――黒井澄花は、茶のショートカットの横で左手をひらひらさせながら、ノートを受け取った。

 ――いいってことよー、とかそんな感じかな。

 澄花の様子を想像して、依恋はくすりと笑い、教師がホワイトボードタイプのモニタに板書して行くのを見た。

 ケイオス・システィマ。

 ガイア計画。

 ナノマシン、ケイオス・システィマを地球全土へと散布/融合させ、地球環境の全てを――大地どころか、大気のレベルで、人類が制御可能なものへと変化させる。そして、地球を隕石衝突以前の――いや、それ以上の、人類にとって住みよい環境とし、それを維持し続ける。

 それが、ガイア計画の目的だった。

 だが、それは失敗に終わる。

「ガイア計画は失敗しました」

 言いながら、教師がモニタに指を走らせる。その動きに追随して、ガイア計画の文字に赤で取り消し線が引かれる。

「ケイオス・システィマの暴走(スタンピード)。異常成長したナノマシンは、人間の制御を完全に離れ、大繁殖を行いました。それだけでなく、ナノマシンはコロニー……つまり、人間へと襲い掛かった、とされています」

 されています、というのは、本当のところはもう第一〇六八コロニーには確認不可能だからだ。

 コロニーの外は暴走したナノマシンが溢れており、そこに出ることは死を意味する。実際に、何が起こっているのかを確認することは出来ない。

 そして、ナノマシンの大気への影響は、コロニーの通信機能にも及んでいる。一〇六八コロニー……そして、他の全てのコロニーは、通信能力を奪われている。

 そんな状況下で生存し続ける為に、第一〇六八コロニーでは、文化レベルを二十世紀後半から二十一世紀前半の日本をモデルとして、人類生存圏の運営を行っている。

 他のコロニーがどうなのかなんて、当然知るはずもない。

 もしかしたら、他のコロニーは全て滅んでいて、人類はこの第一〇六八コロニーだけが生存圏になっているのかもしれない。

 ――だったら、ちょっと怖いな。

 なんて、依恋は考える。

 この街の中にだけ、人間は存在していて、もう外に出ることは出来ない。それは一つの部屋に監禁されているみたいでも有ると思う。

 だと言うのに、自由が存在しているのが、余計に奇妙に思える。

 それはまるで、水槽の中で自由に泳いでいる魚のようで……

 と、授業の終わりを告げる鐘が鳴った。

「はい、じゃあ今日の授業はここまで。近い内に小テストやるから、しっかり復習しておくように」

 教師の淡々とした声に、生徒たちのげんなりとした雰囲気が重なる。

 そんな様子を意に介す事もなく、教師はモニターに残る授業の痕跡を消し去ると、教室から出ていった。

 同時に、前の席の少女――澄花が、着席したままくるっと回って、背もたれを抱きかかえるようにして、依恋に向き合った。

「……どしたん? なんか、ぼーっとしてたみたいだけどさ」

「ん……なんだろ。空が青かったから?」

「いや、空はいつでも大体青いっしょ」

「ま、そーなんだけど……なんとなく、今日は特に?」

「いや、変わんないって。空なんて、だって映像だしさ」

 ひらひらと手を蝶のように舞わせながら、澄花は、なははと笑う。

「じゃあ気分の問題かな……」

「お? 歴史、暇だった? わかるわかるー。私も眠かったしー」

「いや、そーいうんじゃなくて」

 少なくとも、依恋にとって歴史の授業が退屈だった、というわけではない。どちらかと言うと、歴史は好きな方の教科だ。

 ページを捲ると、歴史が移り変わる。そんなダイナミックさは、現代の人間社会には存在しないものだ。

 昨日と今日に大差はなく、今日と明日にも変わりはない。同じような日々を送り続けて、まるでヤスリにかけられているかのように摩耗していって、いつか消えてなくなるみたいに死んでいく。

 その間、世界は何も変わらない。コロニーの中に入っている人間の内容が入れ替わっていくくらいで――

 ――ああ……

「だからかな……」

 何も変わらない青空。目まぐるしく移り変わっていく歴史。そのギャップに、何か落ち着かなくなってしまったのかもしれない。

 自分の心だと言うのに、ままならない。良くわからない。そんなものだろうか。自分だけだろうか。そんな事だって、依恋には分からない。

「なーに黄昏てんの? 恋か? 恋なのかー?」

 にひひ、と目を細めて、歯を見せて悪戯っぽく笑う澄花。

「いや、そーいうんじゃないから」

「だろーねー。依恋にそういう浮いた話って聞いたこと無いし。モテそうなのに」

「いや、そうやって納得されるのも、ちょっと微妙な感じ」

 なんだかんだで、年頃の女の子だし? ――なんて、自分で言うことじゃないんだろうけれどね、と依恋は思う。

「ま、それはそれとして、今日どーするー? どっか寄ってくー?」

「んー」

 今は昼前。今日は午前中で授業は終わり。そういうわけで、もう放課後であり、既に席を立っている生徒の姿も多数。

 だったら、昼食を何処かで澄花と一緒に摂っていくのも悪くはない気がする。

 でもまぁ――

「今日はやめとこうかな」

「えー」

 依恋の言葉に、澄花は口を尖らせた。

「クレープ食べに行こーぜー」

「え、そこは昼ご飯じゃないの?」

「私はバナナチョコクレープが昼ご飯でもイけるタイプだよ?」

「あ、私イけないタイプ。余計にパス」

 甘いものが嫌いなわけじゃないけれども、それを主食にするほど好きなわけじゃない。

「裏切り者めー」

「そこまで言う?」

「いや、なんとなく。で、私の誘いを断るたーどーいうりょーけんだべらんめー」

「え、何その口調……まぁいいや。ちょっと買い込んだ食材が結構残ってて、期限的にもアレだから、昼は自炊かなって。まぁ、簡単に作れるの中心だけど」

「あー、そう言えば依恋は一人暮らしだっけ?」

「いや、この前も泊まりに来たのに、何その忘れてたわー、みたいな言い方」

 半目になって、依恋は言う。まぁ、澄花にとぼけた所が有るのは、依恋も十分に承知しているのだけれども。

「まぁまぁまぁ」

「何が、まぁまぁまぁ何だか……んー、どうする? うちくる? 処分手伝ってくれるなら、それなりにありがたいんだけど」

「うーん、頭がチョコレートになる前に行ってほしかったなぁ……」

「あー……あるある」

 一度、何かを食べようと決めた後は良くある事だ。もう、他の何かが食べたいという気にはならないし、決めたものを食べないことには気がすまない……気がしてくる。

「なので私はチョコレートクレープとチョコパフェを食べるのだ」

「チョコ、被せて行くんだ……」

「それぐらい、今日の私はチョコだから」

「これは普通に付き合えないかな……」

 というか、澄花自信も、食べ終えた後に……いや、チョコパフェを目の前にした時点で、後悔するんじゃないかな、と依恋には思えていた。

「じゃ、私は一人で行ってくるから……後悔するなよー」

「しないしない」

 苦笑いしながら、依恋は澄花が教室から去って行くのを見送った。

 そうして、あたりを見渡して見ると――

「誰も居ないや」

 もう、教室に残っているのは依恋だけになっていた。折角昼で帰れるんだから、さっさと帰るのが普通だろう、と依恋も思う。

 生徒たちが集まって賑わいを見せる教室もこうなってしまうと――或いは、だからこそ余計に、寂しいものだ。

「……帰るか」

 そんな寂しい場所に、一人で留まり続ける理由もない。机の上に出しっぱなしだった教材を鞄に入れると、依恋は席を立った。

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