episode 5 命 B-part

 ハイルメスは私と二人で行動することに決めたようで、情報交換した翌日も私の小屋に来た。

 マワリは早朝からどこかへ出かけている。私とハイルメスは並んで、リーンの街を歩いた。どこかで落ち着いて話をするのは避けている。誰に聞かれるか、わからない。

「昨日の夜、トキコが言っていた法印士を訪ねてみた」

 意外にハイルメスは動きが早い。私は今日、行くつもりだった。

「頑固だったでしょ? 何か聞き出せた?」

「それが、留守だった。診療所は閉まっていた」

 休診日ではないのだということは、彼の口調から察することができた。

「逃げた、か」

「問題は誰から逃げたか、だな」

 リーンのメインストリートにはまだ野菜と果物の市が開かれている。私は露店に立ち止まり、小さな果実を小袋で一つ買った。二人で並んで歩みを再開。

「私から」果実を一つ、ハイルメスに手渡す。「保安官に情報が伝わった、と察知したのかも」

 私は果実をかじった。甘みと酸味が口に広がる。

「トキコは法印士のことを保安官に伝えたんだな?」

「もちろん。詳細にね。つまり、あなたが昨日の夜に診療所へ行ったタイミングには、保安官事務所はとっくに動いていたはず。数日、遅いってことになる。保安官が法印士を確保した可能性は?」

「それはまだ情報がない。ただ、診療所を保安官だろう数人が監視していた」

 それはまた、ハイルメスも危ない橋を渡ったな。保安官に疑われてもおかしくない。

「大丈夫だ、考えて行動している。悟られちゃいない。しかし、この法印士の筋は、何かありそうだな」

「何か、私たちの次の動きを考えている?」

 ハイルメスも果実を口に運ぶ。少し顔をしかめる。

「法印が鍵だと気づいているのが、俺たちが優位な点だな」

「同種の法印を施された人間を探す?」

「それは遠回りになる。もっとシンプルに行こう。俺にその法印を刻む」

 反射的に足を止めていた。ハイルメスがこちらを見る。

「危険だと思うけど?」

「トキコが助けてくれるだろ?」

 返事に困った。ハイルメスも決して、平凡な使い手ではない。それは一緒に歩くだけで、その身のこなしから伝わってくる。私と同程度の腕だろう。

 ハイルメスなら、あるいは、殺人鬼を返り討ちに出来るかもしれない。私もいれば、二対一だ。有利すぎるほどに、有利なのだ。

 それでもどうしても私が煮え切らないのは、一つは、私が法印を受けるという可能性があること。私が囮になるという選択肢もあった。

 もう一つは、殺人鬼の異常さがまだはっきりと記憶されているからだ。

 あの殺人鬼は、普通じゃない。

 倒せると、思えなかった。

 足を止めて、そのまま黙っている私に、ハイルメスが少し微笑んだ。

「不安か?」

「それは、ね。さすがに、大賛成、とはいかない」

「心配ないさ」

 ハイルメスが歩き出したので、私は慌てて後に従った。

「それでも」私は横に並んだ。「例の法印士は、姿を消している」

「あの法印士については、かなり調べておいた。同門の法印士の見当はついている。その法印士から、問題の法印と同じものを受けられるだろう」

「保安官に任せるべきじゃない?」

 どうやら、私は臆病になっているようだ。

 ハイルメスは歩きながら、

「懸賞金も欲しい」

 と、明らかに冗談の調子で口にした。

「冗談じゃなくて、危険だと思う。あの殺人鬼は、常識が通じない」

「常識が通じない?」

 やっとハイルメスが立ち止まった。私と向かい合う。

 真剣な顔だった。

「二人なら、うまくいくさ」

 声には重みが感じられた。覚悟、と呼んでもいい重み。

「うまくいく」

 もう一度、ハイルメスが繰り返した。私は、何も言えなかった。

 いくつかの打ち合わせの後、ハイルメスは見当をつけているという法印士の診療所へ出かけて行った。

 私はその間に、姿を消した法印士の診療所を訪ね、保安官らしい数人が監視しているのを確認した。厳重と言ってもいい監視で、これはハイルメスの読みの通り、法印士が保安官に確保され、診療所で何者かを待ち構えている、とは想像しづらい。

 どうやら、法印士その人を待っているのだ。

 私には狙いの法印士がどこへ消えたか、想像もつかなかった。

 そうこうしていると、ハイルメスと合流を約束していた時間になった。

 場所はリーンの第二層にある飲食店だ。小さな店だった。ハイルメスが頻繁に利用すると聞いている。

 中に入ると、すでにハイルメスが席に座って待っていた。私はカウンターの中にいる初老の店員を横目に、彼の向かいに座った。視線でこの店で話を始めていいか、訊ねる。ハイルメスは小さく頷いた。

「確かに、例の人は保安官には確保されていない」

 私がそう切り出すと、ハイルメスも小声で応じた。

「法印を施してくれた法印士に聞いたが、見当がつかなかった。どこかに潜伏しているのか、それとももう街を出たのか」

「そもそもどうして、姿を消した? 理由が必要でしょう」

「誰かから姿を隠したがっている? 誰かに狙われている? 何かの秘密がそこにあるんだろうさ」

 店員が近づいてきたので、会話は一時停止。店員は何も言わずに、私たちの前にお茶を置いて、戻って行った。オレンジジュースが良かったが、そんなことが言える雰囲気ではない。ハイルメスはお茶を一口、飲んだ。

「とりあえずは、この通りだ」ハイルメスが私に首筋を見せた。うっすらと紋様の形に皮膚が盛り上がっている。「法印は受けた。殺人鬼は俺を狙うか、どうか。そこが今のところ、こちらが先手を取っている要素で、成功すれば最も有力な筋になる」

 返事ができなかった。

 殺人鬼のことを思い出すと、背筋が冷える。私は、恐れに支配されている。

 ハイルメスの身が危ないのは、はっきりしている。ここに至って、それは確定しつつあるのだ。彼はこうして、法印を刻んでしまったのだから。

 引き返したい、と強く思った。

「大丈夫さ。落ち着こう」

 私の気持ちを感じたらしいハイルメスが、こちらに微笑んでみせる。強さを感じさせる、微笑みだった。

 私はどういう表情を返しているか自分ではわからない。

「教えて欲しいんだけど」

 私は口の中の渇きを感じて、お茶を一口、飲んでから続ける。

「法印士について調べたこと、聞いておきたい」

 頷いたハイルメスは穏やかに法印士の師弟関係と、それぞれの診療所のことを私に話した。ところどころ、メモを取って、私は最後まで黙って聞いた。

「満足した?」

「するわけない」

 即座に返事すると、ハイルメスは困ったように眉をハの字にして、それでも笑って見せた。

「大丈夫さ。決着は近い」

 どうしても私はそうは思えなかった。

 その日はしばらく、二人で街の中を歩いて、時間を過ごした。

 ハイルメスのことを多弁な男を思っていたけれど、夕方になるとそのイメージは消えた。黙っている時が多いとわかった。今までは、私と意思疎通するために口を開いていたのかもしれない。

 今は、言葉を必要としない程度に、私を理解した、信用したようだった。

 その日は解散し、翌日の朝、合流することになった。

 そんな具合で、朝から夕方まで行動を共にする日が続いた。やはり、ハイルメスは口数が減っていた。私も黙っていることが増え、沈黙の時間が増える。

 その沈黙は、それほど嫌な感じではなかった。適度の緊張感と、適度の信頼感。

 街頭に立っている保安官の注意を引かないのが、何よりも苦労した点だった。成功しているようで、呼び止められたり、視線を特に向けられたりはしなかった。

 そんな日が一週間続き、その間にまた一人、犠牲者が出た。いよいよリーンの様々な組織が治安維持のため、懸賞金を懸け始めた。合計すれば相当な額になる。

 街中でも、殺気立った採掘士や用心棒の姿が増えた。

 私たちは自然と、人の少ない方に向かった。お互いに知人も多いし、目を引きたくなかった。

 だから、殺人鬼が私たちの前に現れた時、周囲にはほとんど人がいなかった。

 リーンの街の、第一層、ちょうど私とマワリの住む小屋がある地区に似た、外周に近い位置だった。

 殺人鬼は黒いローブを着ている。しかしすぐ、それは血に染まっているだけで、生地が黒ではないと理解が追いついた。

「行くぞ」

 ハイルメスが腰の双剣を引き抜き、駈け出す。私も少しも遅れずに従う。

 二人で並んで、暗殺者に向かって疾駆。

 暗殺者も反応する。逃げはしない、向かってくる。武器はない。素手だ。

 ハイルメスが先行、前衛になる。

 殺人鬼がハイルメスに覆いかぶさるような動き。もちろん、正面だ。

 無防備すぎる。

 仕留めた、という確信が起こり、安堵しそうなものだけど、そんな気持ちは発生しなかった。

 無防備も無防備で、それがおかしい。

 構わず、ハイルメスの双剣が縦横に走る。ローブが切り裂かれ、血飛沫、肉片とともに宙に跳ねる。

「ハイルメス!」

 やはり、殺人鬼は意にも介さない!

 ハイルメスは押し倒される。それでも剣を二本とも、殺人鬼に深く突き刺した。私も剣を引き寄せ、刺突の姿勢。

 だけど、悲鳴をあげたのはハイルメスで、私は対応が遅れた。

 殺人鬼の顎が、彼の首筋に食いついている。

 しかもそのまま、殺人鬼はハイルメスを持ち上げ、強引に振り回した。私が身を引いた瞬間、吐き気のする音ともに、ハイルメスの体が飛んだ。建物の壁に衝突し、地面に落ちる。

 視線を殺人鬼に向ける。殺人鬼は自分の体に刺さっている二本の剣を引き抜き、こちらに投げつける。私はそれを弾き飛ばし、ジリジリと後退して、ハイルメスに近づく。殺人鬼もこちらを伺っていたが、逃走に移った。

 私は追うべきか迷った。

「追え……」

 声は、背後から。濁っているが、ハイルメスの声だった。振り返ると、彼はかすかに顎を動かした。その体は流れる血でできた水たまりに沈んでいる。

 致命傷。助かる余地はない。

「追え」

 かすかだが、確かに、彼はそう言った。

 決心がつくより前に、体は動いていた。駆け出し、殺人鬼を追う。

 殺人鬼は通りへ飛び出している。悲鳴が前方で聞こえた。大勢の通行人がいるのである。

 惨劇を予想しながら、私は駆け続けた。

 しかし、誰も被害者はいなかった。殺人鬼は人混みをかき分けて走り続け、私も同じことをしている。そのうちに、まるで悲鳴を追いかけているような気にもなった。

 その悲鳴が、突然に絶える。

 どうやら細い道に駆け込んだということはわかったし、私もそこへ突っ込み、人気のない景色が見える。

 細い道に、だが、殺人鬼はいない。

 地面を見る。しかし血の一滴も落ちていない。足跡もない。

 周囲を見て、場所を確認する。リーンの街はおおよそ、全域を把握している。自分の位置もわかってきた。いつの間にか第一層を横断しつつあったようだ。

 周囲を念入りに確認したが、殺人鬼の痕跡は見つからなかった。

 ここに至って、やっとハイルメスのことが浮かんだ。ハイルメスを置いてきてしまった場所へ、最短距離で戻る。足は自然と駆け足、それでも気持ちは重かった。

 彼の計画は、おおよそ、的中していた。

 問題は、殺人鬼が死を恐れず、致命傷も無視する、という点に気付けなかったことだ。

 実際に、ハイルメスの攻撃は、どんな生物でも倒れるような、決定的なものだった。

 だけど、それは通じなかった。

 私は殺人鬼の存在にはっきりと恐怖を感じながら、ハイルメスを残した場所にたどり着いた。

 保安官がいる。ハイルメスが衝突した建物の壁には赤がはっきりと残っている。どうやら、ハイルメスは運ばれたらしい。保安官に話をする必要がある。

 ここで、予想外のことが起こった。

 保安官にハイルメスの遺体のことを尋ねると、そんなものはない、という返事だった。詳しく尋ねていくうちに、大量の血痕があるのに、死体どころか怪我人もいないという。保安官は近所の住民が物音を聞き、外に出て大量の血痕に驚いて通報したことで、ここに来たという。

 私も逆に質問されたが、自分でも状況がわからなかった。

 ハイルメスは、消えてしまったのだ。


 私にできることは限られていた。

 はっきりしていることは、二点。殺人鬼はある種の法印を狙って犯行を行っている。そしてその法印を施す法印士は、同門である。

 ハイルメスから聞いていた法印士の情報を頼りに、私は聞き込みを始めた。

 全部で六ヶ所、診療所を回った。最初の二軒は門前払い。最後の三軒は空振り。

 ただ、三軒目の診療所で、興味深い話を聞いた。

 その診療所を経営しているのは初老の法印士で、愛想よく私に講義を始めたのだ。私は最初、聞くつもりもなく、焦っていた。しかし話が進むうちに、注意を引かれ、聞き入って、真剣に耳を傾けた。

 法印は主に医療行為に使われるが、個人によって作用に差がある。話はそこから始まった。

 もし望んだ結果が出ないのなら、法印士は法印を加減するため、新しい法印を刻む。

 大抵はこれで結果が調整され、終わる。

 だけど、採掘士などのように負傷を繰り返す相手にはそのうちに法印は作用がなくなってくる。ここまでは私も噂で聞いたことがあった。法印が体になじみ、効果が出なくなることがあるという。

 そうなると、新しい法印を刻み直す。これでまた、負傷を繰り返し、その封印の効果が消えれば、また別の法印に頼る。

 こうして一人の人間が、複数の法印が同時に、一個体に作用している状況が生まれる。

 これは珍しいとはいえ、ないことではない、と、その初老の法印士は言った。

 ここで話が少し横に逸れるように、私は感じたけれど、それは幸運とも言える話題の変化だった。

 その法印士が言うには、法印は数え切れないほどあり、今も研究と開発が進み、新種が生まれているというのだ。

 そんな無数の法印の中に、同時に作用すると、想定と違う働きを生じる法印がある。

 その言葉の意味は、遅れて飲み込めた。法印士は話を続けている。

 複数の法印の同時作用による特殊な反応を、共鳴、と呼んでいるらしい。これはまだ分析が進められている分野で、それほど関わっている法印士は多くないらしい。

 そもそも、情報の交換が難しいため、リーンの街では共鳴を対象に研究している法印士は数人しかいない、と彼は言った。そのまま話はさらに逸れていったけど、そちらは雑談に近くなっていった。

 彼に話させるだけ話して、私は共鳴について研究している法印士のことを尋ねた。彼は二人の名前を口にして、さらに話を続けたい様子だったけど、私は丁寧に断り、診療所を出た。

 それから訪ねた三軒では、共鳴について聞こうとしたけれど、彼らは何も知らない様子だった。カマをかけてみても、反応はない。

 六軒の診療所を全部見てから、私は共鳴について知っているという法印士を訪ねることにした。この情報はハイルメスの話にはなかった部分になる。私には、事前知識はない。

 一人目はリーンの街の中心部に近いところに部屋を借りて住んでいると聞いていた。尋ねると、空き家で、隣の住民に確認すると、二ヶ月前に死んでいた。死因は老衰で、相当な高齢だったらしい。

 こうなると、可能性は一本しかない。

 もう一人は、アルケという名のやはり老人で、それほど遠くない場所に住んでいるはずだ。こちらは仮屋ではなく、自分で建物を所有しているという。

 その家は、三階建の大きなもので、アルケ自身は三階に使用人と住んでいるが、一階は人に貸し、二階では弟子たちが暮らしていると聞いた。

 外に設けられた階段で二階へ上がり、ドアベルを鳴らした。少しして若い男が顔を出した。

「どちら様ですか?」

「アルケさんに話を聞きたいことがあるのですが」

「お名前は?」

 私は名前を名乗った。弟子の男はメモを取り、

「先生とはどのようなご関係ですか?」

 と尋ねてきた。これには答えようがない。ただ聞きたいことがある、話をしたい、と正直に話すと、反応は冷淡だった。

「先生はお具合がよろしくありません。私が代わりに承りますが」

「法印の共鳴についてご存知と聞きました」

 反応は、ちょっとの驚きと、冷笑だった。

「どこでそのことをお知りになったか、わかりませんが、素人にわかるものではありません。どうか、お引き取りください」

 ドアが閉められ、鍵がかかる音がした。

 私はしばらく、そこに立って、考えていた。

 線は確かにここに通じている。道は閉ざされつつあるが、無理に突破することも考えるべきか。何か、考えはないか。思案を巡らせる。

 いつまでも立ち尽くしているわけにはいかない。

 時刻はすでに夕方だ。血のように赤い光が、街を染めている。どこか不吉で、私は考えながら、我が家へ戻ることにした。

 途中で保安官事務所の派出所の一つに立ち寄り、ハイルメスが見つかったか、聞いてみた。やはり死体は一つも見つかっていない。

 あの怪我で生きているのなら、どこかで治療を受けているのか。法印を大規模に施せば、あるいは一命は取り留めているかもしれない。そうでなければ、身を隠したか。彼には殺人鬼をおびき寄せる法印が宿っている。あの殺人鬼からは身を隠す必要があるだろう。

 死んでいるとしたら、死体が消えたのは、どうしても理解できない。死んでいると思えないのは、そんな理由もあるが、私自身がハイルメスが死んだと信じたくないからかもしれなかった。

 小屋が見えてくると、玄関に誰かが立っていた。

 腰の曲がった老婆、マワリだ。私に気付くと、不機嫌そうに出迎えた。

「なんで外で待っているわけ? マワリ」

「どこかの間抜けがまたトラブルを抱え込んでいる」

 渋い顔、シワだらけの上にさらにシワを浮かべて、マワリが言う。

「お客さんがいるの?」

 私はマワリの横を抜けて、中に入った。

 そこにいる人を見て、私は思わず、瞬いた。

「あなたは……」

 相手が立ち上がり、頭を下げた。

 それからしばらく話をして、彼は去っていった。入れ違いにマワリが小屋の中に戻ってきて、食事にしろというので、私は料理を作った。しかし、気持ちは乱れに乱れている。

 居間の机に料理を並べると、マワリが素早く食べ始めた。食べ始めたが、顔をしかめる。

「料理もできないほどの揉め事かい?」

 そんなことを言う。「まさか」とだけ応じて自分でも料理を食べてみるが、確かに冴えない味だった。

 無言で食事を済ませ、片付けが終わってから、私は外に出て、剣を抜いた。

 月光を照り返し、黄金色の剣はまっすぐに輝く。

 そのまま剣を振るうことなく、鞘に戻し、小屋に入った。

 考えることは、多かった。

 そして、手に負えないほど、大きい。


 翌日から、私はアルケの家の出入りをじっと監視した。

 監視にちょうどいい店もある。それはまさにその屋敷の一階の店だ。小さな食料品店だが、飲食のための場所が設けられている。朝、昼、夕はその飲食スペースで時間を過ごす。店員には近くの別の店で用心棒をやっていると話した。

 他の時間は、遠くから建物を見張る。それほどの苦痛ではなかったが、一人なので、どうしても隙間は生まれる。そこはもう運だった。他に巻き込める知り合いもいない。

 殺人鬼の被害者が一人増えた。ここに至って、被害者の数は十六人になった。この間、見張っている法印士の家に特別な出入りはない。監視しているとわかったが、滅多に人が出入りしないのだ。食料品や日用品は、一階の店舗の店員が定期的に届けているようだ。

 そんな具合で、じっと耐える日々が五日目になった時、やっとアルケの弟子が外に出てきた。

 私はその後を密かに尾行し、彼が特徴のない家に入っていくのを見送った。

 そして、出てきた時、彼は一人の男と一緒だった。二人で並んで、歩いていく。

 二人がまるで溶けるように、通りの人の流れから、わき道へ逸れた。私にははっきりと見えていたので、落ち着いて、追尾していく。

 そんなことが二度、繰り返され、ついに二人は、ほとんど人気のない裏通りに出た。

 そして立ち止まり、こちらを振り返った。

「驚かないのか、トキコ?」

 アルケの弟子と並んでいる男が言う。

「こちらも知らないことばかりじゃないの」

 どうにかそれだけ、言うことができた。

 男が、微笑む。何度も見た笑みだ。落ち着いていて、決意を秘めた微笑み。

「なら、もう隠す必要はない」

 そう、ハイルメスが言った。

 私は躊躇いなく、剣を抜いて、構えた。ハイルメスは剣に手を置かない。

 代わりに、アルケの弟子を引き寄せる動きをした。

 ここまでは私も読んでいる。これから彼が行う動作を阻めれば、落着だ。

 だけど、それも彼に読まれている。

 ハイルメスの口が、アルケの弟子の首筋を強く噛んだ。何度か聞いてきた音ともに、ハイルメスが首筋を噛みちぎったのがわかった。

 ほとんど同時に私は間合いを消し、剣をハイルメスの胸に突き出していた。

 鈍い手応え。

 私の剣は、アルケの弟子に突き刺さり、それを貫いたものの、ハイルメスには達していない。

 アルケの弟子が、漏らすように呟く。

「ハイルメス様、どうか……」

 言葉は、そこで途切れた。そしてその体が、一瞬で赤い液体に変わり、地面に広がった。

 反射的に間合いを取った私の目の前で、ハイルメスが天を仰いでいた。その彼を中心として、地面に広がっていた赤い液体が収束し、消えていく。

「すべてが、揃った」

 感極まった様に、ハイルメスが呟く。私は剣を構えつつ、応じた。

「法印の共鳴を利用した不死の法印の発動、それがあなたの目的だった」

 ふむ、とハイルメスがやっと私を見た。その瞳が赤く光っている。

「そこまで知っているものがいるか。しかし、知っていようとも、無意味だな。私はすでに、人を超えた。法印が人を、変えたのだよ」

「一人の法印士が構築した、不死の法印。それを発動するための共鳴に必要な法印を、アルケの弟子とあなたは集めていた、と聞いた。あなたもアルケの弟子も、ほとんど不死性を獲得していたから、どちらも致命傷を無視できた。そして今、その二人が集めた法印が、一つになった」

「どこの誰がそんな入れ知恵をしたのか、気になるが、構うまい。もはや、誰も止めることはできない」

 いいえ、と私ははっきりと応じた。

「私が止める」

 私の決意が伝わったのだろう、ハイルメスの両手が、剣の柄に置かれた。

「止めてみろ、人間め」

 私は矢のように飛び出していた。

 間合いは消え、剣術の交錯。ハイルメスの動きは人間のそれだ。

 容赦するつもりはなかった。確実に、絶対に倒すために、私の剣は鋭く弧を描き、空気を焦がす。

 応酬は一瞬。私はハイルメスの背後にすり抜けていた。

 血が迸る。

 私は無傷。宙を飛んでいたハイルメスの片腕が地面に落ちると同時に、その胴体が輪切りにされ、胸から上と下が別れて重い音ともに倒れる。

 私は間合いを取って、確認する。

 これで終わるわけがないのだ。

 実際に、目の前で起こりつつあることは、嫌悪感を伴う、異常な事態だった。

 ハイルメスの体のすべてが、赤い液体に変わり、その液体が一つに集まると、染み出すように肉、皮膚が生まれ、元のままのハイルメスになった。いや、見ている目の前で、ハイルメスの体はさらに変化し、奇妙な、おぞましいと表現するほかない姿になる。

 全身が黒い毛で覆われ、筋肉が隆起する。赤い瞳が爛々と輝く。

「素晴らしい」

 感嘆したようにそう口にする彼に、恐怖を振り払い、私は宣言した。

「封印式二号、限定解放」

 声と同時に、私の右腕の袖が解け、中身が膨張。

 私の右腕は異形のそれとなり、純白の羽毛が覆う。その羽毛の間で破裂音が連続すると、雷光が起こり、瞬き始める。

 ハイルメスは全く、動じていない。自信なのだろう。

 絶対に死なない、という自信。

「封印式三号、限定解放」

 続く宣言の後、私の右肩から長い触手が生えた。それが即座に伸長して、ハイルメスに巻きつき、拘束。

 しなった触手はさらにハイルメスを上空へ放り投げた。

 そこへ私の右手の先、握られた剣の切っ先が向けらる。

 ハイルメスは空中でも、平然としていた。

 私の中に、躊躇いはなかった。

 右腕に溜め込まれていた雷撃が、指向性を与えられ、剣に沿って放たれる。

 地上から天へと逆さまに雷が疾る。

 轟音と閃光の後、空中には何も残っていなかった。

 ハイルメスは、消し飛んだのだ。

 私はそれを確認し、封印式を再起動する。右腕は本来の腕に戻り、右肩から生えていた触手も体に巻き戻された。刺青の封印式が疼く感覚が残っただけだ。

 衝撃を感じたのは、その数瞬後で、自分の油断にはその時、気づいた。

 背後から、真っ赤な剣が私を貫いている。

 一歩、前に踏み出すと、剣が抜けた。激痛、意識が明滅する。

 背後から声がしたのが聞こえた。

「私が死ぬことはない」

 ハイルメスの声。しかし構ってはいられない。

「封印式」

 どうにか声を出す。

「一号、限定、解放」

 右胸が燃えるように熱くなる。それと同時に、胸の傷口で体が意志に反して蠢めく。

 振り返った私の目の前に、先ほどと変わらぬ、ハイルメスがいた。

「なんだ」少し驚いたような顔で言う。「死なないのか?」

「私も、普通じゃなくてね」

 そう返すのが精一杯だった。

 ハイルメスの両手の先にある二本の剣、彼自身の体だろう赤い液体でできた剣が、襲いかかってくる。

 私の右手の剣が複雑な軌跡を描いて、弾き飛ばすが、凌ぎきれない!

「封印式十二号、限定解放」

 全身の血管に火が流れる錯覚。それを代償に、体が加速する。

 それでも、ハイルメスの方がわずかに速い。

 体のそこここが切り裂かれ、血が流れ、肉が飛ぶ。

 それが私の右胸の封印式一号が瞬く間に治癒させる。

 長く続く拮抗ではない。

 集中が、極限に達する。全ての限界の中に、私の意識を超えた何かが、光明を見出す。

 剣が不自然に翻る。

 私の左肩を赤い剣の一本が深く刺し貫いた。

 ハイルメスの笑みが見えた。

 その首筋に、私の剣が突き刺さっていた。

 無言の一瞬、ハイルメスのもう一本の剣が私に迫るが、この瞬間、わずかに遅い。

 私の剣が捻るように彼の首を跳ね飛ばした。

 そしてその体を構成する全てはまた、赤い液体に戻る。

 また再生するのは自明。

 だけど、そうはさせない。

 私は右手の剣を地面に突き立てると、懐から取り出した短剣を、今、まさに一つになろうとしている赤い液体の塊に落とした。

 軽い音ともに、短剣の刃が触れる。

 声の一つもなかった。赤い液体が揺らめき、その揺れが激しくなる。短剣はあっと言う間に赤い液体に飲まれ、逆に赤い液体の方が短剣に引き寄せられるように動いた。

 私は自分の剣を手に、それを少し離れて見守った。左肩が治癒したのを待ち、全ての封印式を再起動。

 あとは、見守るだけだ。

 ハイルメスだった赤い液体の中の一点が、小さな粒になる。その粒に触れた部分から、徐々に固まっていった。なんの形にもならず、ただの赤い塊に変わっていく。

 やがて全てが凝固し、地面に広がる赤い物体となる。その中心に亀裂が走り、網目状に伝播していったかと思うと、赤い液体が一度に粉砕し、粉々になった。

 その赤い粉は今度は粒子となり、立ち昇って行く。

 ついに、何の痕跡も残さず、ハイルメスだったものは消えてしまった。

 地面にはただの短剣が落ちている。私は歩み寄ると、それを拾い上げた。


 アルケの屋敷へ行くと、見たことのない弟子らしい男が出てきて、アルケが面会を受け入れる、と伝えてきた。

 二階に入り、中の階段で三階へ向かう。警戒していたけれど、怪しい動きはなかった。二階で見た数人の弟子たちは、みんな、どこか線の細い、無害な存在に見えた。

 三階で使用人が待ち構えていて、私を一つの部屋に案内した。

 大きな寝台のある部屋だった。使用人が入り口に傍に控えたので、私はゆっくりと寝台に歩み寄った。

 一人の老人が、横になっている。

「あなたが」

 老人が寝たままこちらを見た。

「生きているということは、彼は死んだのか?」

 声には力がなかった。しかし、関心の強さは伺えた。

「はい」私は気力を振り絞って、応じた。「ハイルメスは、私が」

 私が、の後にどう表現するべきか、迷って、結局、何も続けなかった。

 殺した。倒した。消した。どう表現することもできなかった。

 アルケは私の方に視線を向けた。どこか焦点の定まらない、そんな視線だった。よく見えていないのかもしれない。

「誰が、手を貸した?」

「一人の、法印士が、力を貸してくれました」

 それだけで、アルケは事態を理解したようだった。ゆっくりと腕に力を込め、起き上がろうとする。私は何もせず、手も貸さず、それを見ていた。使用人も、ドアの横から動かないようだった。それは不自然にも思えたけど、私は無視した。

 アルケが上体を苦労して起こし、こちらに身を乗り出した。

「名を、言え」

「言えません。そういう約束です」

「不死の、可能性を、追求する、崇高な、使命が、ある」

 息を切らせて、アルケが言った。

 私の頭にはまず怒りがあった。怒りが私の口を強く閉ざす原動力になった。

 一方、この老人に哀れさを感じないこともない。感じないこともないが、やはり、言葉を返すほどの力はなかった。

 アルケが寝台から降りようとする。私はそれも無視した。

「教えてくれ」アルケが、寝台から転がり落ちる。「頼む、教えてくれ」

 私の方へ這いより、すがり付こうとしてくるアルケを、私は無言のまま見下ろした。

 彼の手が私に触れる寸前、私は一歩、下がった。シワだらけの手が、空を切る。

「失礼します」

 私は背を向けて、ドアへ向かう。

「頼む! どうか、使命を……」

 私は無視して、ドアへ向かう。使用人が無言のままドアを開けてくれた。軽く頭を下げると、使用人も無表情で頭を下げた。そして私と共に、部屋を出た。ちらりと背後を振り返ると、閉まる寸前のドアの隙間から、床にうずくまるアルケが見えた。

 使用人は私を二階へ通じる階段のところまでついてきた。

「ありがとうございました」

 最後に、使用人が言った。

「何のことですか?」

「主人の暴走を、止められませんでした」

 私は剣の柄に手を置いた。

 でも、剣は抜かなかった。そのまま階段を降りた。


 あの夜、私を小屋で待っていたのは、姿を消していた法印士だった。

 自分の師であるアルケの研究のこと。不死の法印の存在。その不死の法印の発動に必要な、既存の法印。アルケの弟子と、そして、

 ハイルメスの存在。

 そのことを彼は私に全て話した。

「私には、師の考えが理解できませんでした。法印は医療を司りますが、しかし不死など、人間そのものの冒涜です。ですから、師の研究を、私は密かに分析したのです」

 彼はそう言って、私に一本の短剣を差し出した。

 その件の柄に、複雑な紋様が刻みつけられていた。

「これは?」

「発動した不死の法印を、凍結する効果のある法印です。不死の法印もまた、法印である以上、共鳴の対象になる。不死の法印という、共鳴で成立する法印を、別の方向の共鳴に導くのです」

 私は手に持った短剣を一度、机の上に置いた。

「あなたに頼むしか、ありません」

 法印士が、私の顔を見た。彼は今にも泣き出しそうな顔で、こちらを見ていた。

 私の顔はどんな顔をしているのか。

「お願い致します」

 頭を下げた法印士を、私はじっと見据えた。

 その時にはもう私の中には、決意があった。

「アルケを」私の声には冷酷さが宿っていると自分でも気づいた。「どうするつもりですか?」

 顔を上げた法印士の目は、潤んでいた。悲しみの色、悔いの色。

「師は遠からず、この世を去ります。それまで、私は、不死の法印を封じ続けます。二度と、過ちは繰り返しません」

 その言葉は、強いとは言えない。最も強い言葉、強い対応なら、アルケを今すぐ、処断するだろう。しかし彼はそれを選ばなかった。

 私がその強い対応を口にして、促すこともできた。

 でもそうはしなかった。

 私は一度だけ頷いて、机の上に戻していた短剣を手に取った。

「承りました。ハイルメスには、できるだけのことをします」

 法印士が深く頭を下げた。

「しかし、もし私が失敗したら、どうなりますか?」

 この質問は、ほとんど気まぐれだった。冗談に近い。

 法印士は頭を下げたまま、

「お戯れは、どうか、ご容赦を」

「現実の話です。どうなりますか?」

「……わかりません」

 法印士の肩が震える。私はその肩に触れていた。大きく、肩が揺れる。

「できるだけのことはします。あなたの協力に対する、私の義理です」

 法印士が帰って行って、マワリとの食事も終え、外で剣を抜き、小屋の中に戻った。

 自分の部屋のベッドの上で、私は月明かりの中で天井を見た。

 ハイルメスが何を考えているのか、わからなかった。

 不死は、私には何の魅力もない。

 しかしそれはハイルメスとは無関係だ。

 そして、ハイルメスが不死を求めることも、私には関係ないはずだった。

 でも今は違う。

 私はハイルメスを止める役目を負った。

 月明かりの中に何かの像が浮かんだが、すぐに消えた。

 私は、ハイルメスを罰することになる。

 まるで、神が罰するように。

 極限のところでは、何が起こるかはわからない。法印士に言ったように、私が敗れる可能性もある。そうなれば、ハイルメスを誰が止められるのか、今のところ、わからない。

 私が止めるのか、それとも誰かが止めるのか。

 もしかしたら、誰にも止められないのかもしれない。

 未来のことはわからない。

 私は、私にできることをやるのみだ。

 はっきりしているのは、私には生は一つしかない。

 これは、一つの生と、終わらない生が終わる一つの可能性の、競争だった。

 私は自分が勝つために、全力を尽くす。

 そう、一時とはいえ、信頼した相手を断罪するために。

 目を閉じた。

 私の心の決意は、もう揺るがなかった。

 私は生きなくちゃいけない。生きていたい。

 私の命は、一つしかないのだから。

 無駄にできない、一回きりの、生。

 私は、死なない。

 まだ、死ねない。

 死を受け入れるつもりは、まだ、ない。




(了)

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