étude 4 Run! Run! Run!
息が切れる。
体は軽い感覚なのに、軽いのは上半身だけ。
足が重く、痺れる。
何かが後ろに体を引っ張っている感じ。
横を見ると、やはり激しく呼吸しながら走っている人がいる。
一人じゃない。何人もが私と同じ方向へ向かっていて、場所はリーンの第三層の目抜き通り。
歩道には声援を送る人が押しかけている。
どうしてこんなことになっている?
思考はすぐに三日前の、斡旋屋の奥のスペースを、はっきりと思い描いた。
顔なじみの二人の採掘士の男と、私は机を囲んでいる。三人ともが五枚のカードを手に持っていた。全部で五十二枚の札を使ってやっているのは、ポウカと呼ばれる遊びで、手札の組み合わせに強弱があり、その強さを競う。
今、ちょうど手札の入れ替えが終わったところ。
あとは手札を見せて決着をつけるだけ。なのだけど……、私は渋面を作るしかない。
「ポウカは」男の一人がニヤニヤと笑っている。「冷静な顔を作って、表情から手札の強さをうかがわせないのが第一らしいぞ」
「その顔を見れば、強い手だってのはわかる」
言いながら、私は椅子に背中をもたれさせた。指摘された男は、やはり笑っている。もう一人もだ。
やれやれ。
「オープンだ」
声と同時に、私は五枚の札を机に投げ出した。
五枚のうち、同じ数字が二組ある。つまり、ツーペア。
男たちも机に札を広げている。
片方は、三枚が同じ数字。スリーカードで、ツーペアより強い。
もう一人は、なんてことだろう、四枚が同じ数字だ。
フォーカード。強すぎる。
「どう考えてもイカサマだね」
私の指摘にも二人は動じない。それもそうだ。何せ採掘士だし。
「そちらさんもね」
男の一人がそう言って、私に手を広げて見せる。
こうなっては、仕方ない。
私は袖に隠していた一枚の札を滑り出させると、机に放った。こちらのイカサマもバレているんじゃ、やってられないよ。
「じゃあ、トキコ、約束通りに頼む」
「あまり期待しない方がいいと思うけど」
私は彼らがこの賭けを始める前にした説明を思い出している。その間にも男の片方が書類とペンをこちらに向けてくる。渋々、書類の空欄を埋めていく。
「今度の賭けはイカサマなしの、清廉潔白な賭けだよ。僕たちの財産を背負っていると思って、頑張ってくれたまえ」
「はいはい」
書類を書き終えて、それを突き返すと、二人はよく書類を確認し、頷いた。
「マラソンなんて、やったことないのに」
書類はリーンで開催されるマラソン大会の参加申込書だった。ちなみに今日が締め切りだ。
二人はそのマラソン大会の順位か何かで賭けをするそうで、たぶん、私が意趣返しに二人に不利なことをしないように、賭けの詳細は伏せている。
清廉潔白な賭けって、あるわけなじゃないか。
席を立つ私に、男の一人が声をかけてくる。
「期待しているよ、トキコ。それと左袖の札を返して欲しいんだけど?」
……今日の私の運勢は、最悪だ。
左手を振ると、袖の内側から飛んだ札が、机を滑った。
こうして、今、私はリーンの街を走っているのだった。
スタート地点は第一層の中心に近い場所で、そこからぐるぐると第一層をまず走った。
リーンの街が四層から出来ているので、コースは各層をおおよそ十キロ走るわけだけど、層の間の階段も駆け上がるので、市内のコースは十キロよりはやや短いことになる。
そもそも、メートル法に馴染みがないので、四十二・一九五キロメートルというのが、よくわかっていない。
今の世界は、モイトと呼ばれる単位が普通で、一モイトが一メートル二十五センチと図書館で調べられた。
三日前に決まったので、一昨日、どうにか試走してみた。十キロメートルは走れる。
その時はそれで満足した。翌日には申し込みを受理した通知と、登録番号などの連絡も来て、いよいよ逃げられないと自覚したのだった。
マワリはその話を聞くと、軽い調子で応じた。
「まず第一に下手なイカサマはするもんじゃない。第二は、たまには無理するのもいいかもしれないね」
この言葉は、たった今、第三層を走っている時点では、身にしみて理解できた。
もうイカサマは可能な限りやらない。
そして、もう無理なんてしたくない。
第一層を走った時、マワリの姿が見えた。観客の中に混ざって、彼女はどこか嬉しそうに笑っていた。
私は彼女に舌を見せて、その前を通った。
その時はまだ余裕があったのだ。
今はそんなことは無理だ。ゼエゼエと呼吸しているから、舌を出すのは無理。
このマラソン大会のデタラメなところは、階段も走る必要がある点だと、さっぱり推測できていなかった。
第一層から第二層に上がる時は、完全に油断していた。余裕がどれくらいか見誤って、跳ねるように登ったけど、それは一時的な無謀、そして長く続く苦痛のきっかけになったのだ。
第二層に差し掛かると、双子の店の前を通るコースがある。双子の店の前の観客が大勢いるけど、ちゃんとトゥルボルトとマシェルルトもいる。
二人が手を振ってくるのに、私も軽く手を挙げた。
これもやっぱり、今は無理。もう腕は振るだけの力しかない。本当に、少しの余裕もない。
コースの途中では、何キロメートル地点かを示すプラカードが立っている。今、三十キロを超えた。
なんで事前に二十キロくらい走らなかったのだろう。三十キロ走ったけど、まだ十キロある。本当に走り抜けるのか、わからなくなってきた。
まぁ、昨日か一昨日、二十キロ走ったら、今日はもっと悲惨になった目がある。
ここに至って、いよいよ足が限界だ。どんどん痺れて、蹴る力も弱まる。ほとんど反射的に足を前に出して、地面から引きはがすようなもので、まるで前に倒れそうなのに、どうにかこらえている感じ。
こうなっては、事前に二十キロ走った場合、今日の私の足はかなり状態が悪かったはずだ。
いやいや、いきなり走るというのも、そもそも馬鹿げている。
第三層の外側の通りへ走っていく。そろそろグルーンの小屋も近い。
昨日、用事があってグルーンのところへ行って、私はマラソン大会のことを話してみた。彼の反応はいつも通りだ。仕事の手を止めない、仕事から目を離さない、そして愛想がない。
「無理するなよ」
それが唯一の反応だった。
走りながら、チラチラと観客を眺めるけど、グルーンはいない。やっぱり仕事が忙しいかな……。彼はあまりこういうイベントには出てこない。
この前のプールのようなことは、例外中の例外なんだ。
コースはグルーンの小屋に一番近い位置になった。視線を向けたのは、偶然だった。
遠くに見えたグルーンの工房の小屋の屋根に、誰かが立っていた。見間違いじゃない、あれはグルーンで間違い無いだろう。
見てくれていたのだと思うと少し嬉しい。
ただ、嬉しくてもしんどさは変わらないのが、なんとも申し訳ない。
さらに走って、第三層をどうにか走り抜いた。最後の階段に差し掛かる。
正直、私は全体の中でも後ろの方だ。周りにいる走者も、あまりの疲労に喘いでいて、どうにか走っているような様子。
階段を駆け上がっていこうとするけど、しかし、限界で、ほとんど普通に階段を上るような有様だ。
果てしなく続くように感じる、長い階段。ともするとつま先が段に引っかかりそうになる。
転ばないように、怪我をしないように、辛抱するしかない。
しかし、本当に階段が終わらない。
何度も上り下りしたはずの階段なのに、こんなに長いなんて。
苦しい。足を止めたい。
足を止めても、私には何の問題もない。例の二人の採掘士が損をするかもしれないけど。
でも……?
あれ? 本当に?
二人が、私が走り抜けると信じる事って、できるのかな。
私は採掘士とはいえ、長距離走の選手じゃないし、素人なのははっきりしている。
絶対に完走できるわけじゃない、というか、完走しなくてもいいんじゃないか?
階段の各所にも係員がいて、いつでもフォローできる体制だ。
ここで足を止めれば、彼らがやってきて、私を介抱するはず。
ものすごい誘惑だった。
私がこのイベントに参加しているのは、わずかばかりの義理のためで、反故にするのも、やむなしだろう。
あの二人も、その可能性を含んで持ちかけているのが明らかなら、もう完走にこだわる理由はないわけだ。
うーん、どうしたらいい?
一歩一歩、一段一段、上がっていく。
息が苦しくなる。足も重い。体を次の段へ持ち上げる度に、疲労が波が寄せるようにやってくる。
もうやめたかった。
でも、頭の中で何かがチラチラと揺らめく。何だろう?
ぼんやりとマワリのこと、双子のこと、グルーンのことが、浮かんでくる。
でもそれもすぐに去って行って、頭の中は真っ白になった。
その真っ白の中に、何かの影が揺れている。
感情だ。負けたくない、という単純な気持ち。
何に負けたくないのかは、わからない。先頭を走る人になんてとても追いつけない。勝負にならないどころか、見向きもされないだろう。
じゃあ、周りにいる同じレベルの誰か?
違う気がする。私は彼らと競い合いたいわけじゃない。
どうやら、競う相手ははっきりしているようだ。
つまり、自分だ。
自分に負けたくない。
走れないのははっきりしている。誰から見ても。私自身も、無理だと思う。
ここまで三十キロ以上を走り抜いた。それで十分という考えもある。評価しない人もいるだろうけど、評価してくれる人もいる。
未経験者が、ほとんどぶっつけ本番でここにいるのだから、全くの無意味ではない。
私自身も、諦めようとする思考を、完全には振り払えない。
振り払えないそれを、私の心の一部が、少しずつ押しのけようとしていた。
諦めようとする気持ちに、負けたくない。
自分に、負けたくなかった。
そうこうするうちに、階段が終わった。周囲にいる観客が何かを大声で言っているけど、あまりに声が重なりすぎて、一つ一つを聞き分けられない。
でも、最後の階段を上り終えたことを祝福し、最後まで走り抜けるように応援しているのだ。
見ず知らずの人の声が、やけに胸に響く。
私は第四層の通りを走っていく。もう走っているとは言えないような、遅いペースだ。
一人、前方でコースの脇に座り込んでいる人がいた。
きっと怪我か何かで、走れないんだろう。
不謹慎かもしれないけど、その姿を見て、私の心にガッツが生まれた。
私は必死に走った。喉が痛い、いや、胸も痛い。
足はもう何かの機械みたいに歩を進めていく。腕を振る反動で進むような錯覚がある。
コースが横に曲がり、そこへ進む。前方に仮設のゲートが見えてきた。
ゴールだ!
奮い起つ、ってこういう気持ちなんだろう。
途端に、少しだけ体が楽になった気がした。ゲートが近づいてくる。私はゴールまで行けるんだ! 信じられない!
気づくとゲートはすぐ前で、私はその下をあまり見映えはしないだろう、無様そのものの走り方で、通過していた。
係員が駆け寄ってきたけど、途端に力が抜けて、地面にしゃがみ込んでいた。
受け取った瓶から水を飲む。さっきまでの高揚が嘘だったように、疲労が全身を包んでいた。
しゃがみ込んで荒い呼吸を鎮めようとするけど、難しかった。係員が二本目の瓶を持ってきてくれる。
動けない私の後から、ぱらぱらと後続の走者がやってくる。彼らも私と似たり寄ったりな様子で、しゃがみ込んだり、倒れこんだりする。
どれくらいの時間が過ぎたのか係員が何かの紙を持ってやってきた。
「お疲れ様でした」
差し出された紙を手にして、文面を眺める。
完走証だった。タイムも記入されている。
本当に走りきったんだ。今の足の痛みを考えれば、間違いない。
立ち上がろうとしても足がしびれて、ギクシャクとしか歩けない。
「トキコ!」
声のほうを見ると、双子がやってくる。二人ともが不安そうな顔をしていて、それが可笑しかった。
別に大怪我をしたわけじゃないのに。
「大丈夫、大丈夫」
情けないことに、立ち上がるだけでフラフラしてしまう。どうにか足を動かして、こちらからも双子に近づいた。
「お店に来なよ、トキコ。ちょっとした治療ならできる」
トゥルボルトの言葉に私は頷いて、大きく息を吐いた。呼吸はほぼ普通に戻って、息苦しさはわずかだけだった。意外に余力があるじゃないか、私。
その日は双子の店に行って、トゥルボルトが色々と治療をしてくれた。マシェルルトは料理を作っていて、何かを察知したらしいマワリが遅れて店を訪ねてくる。
「なんだね、みっともない」
マシェルルトの部屋の寝台に寝転がった私に、マワリが呆れている。
「疲れたよ、さすがに」
「たまには良いじゃないか。これから走り込みをすれば良い」
「しばらくは嫌だね」
その後、食卓を四人で囲んで、夕方に解散になった。
体の痛みはトゥルボルトの治療と医薬品、マシェルルトの食事で、だいぶ緩和された。
ただし、それも夜までだった。
翌朝、体全体が筋肉痛で、私は小屋を出ることなく過ごすしかなかった。
もう二度と、マラソンなんてしない。
絶対に!
疲労が回復するのに二日が必要で、それからどうにか例の斡旋屋へ行けた。上客だけの奥のスペースに、例の採掘士の二人組がいて、静かに酒杯を傾けている。
私に気付くと、二人は嬉しそうにグラスを掲げた。
気にくわないなぁ。
「我らが幸運の女神に」
「女神に」
私はやっと二人がそれぞれに大きい鞄を手にしているのに気づけた。
どうやら二人は賭けに勝ったらしい。
「不愉快さを解消するために、どういう賭けだったか、教えて欲しいね」
「怒るなよ、トキコ。俺たちはただ、お前に賭けていただけだ」
「シンプルにね。お前が完走するとは、誰も思わなかった」
やっぱり不愉快な連中だ。ちょっと懲らしめてやろう。
「賭けをしましょうよ。ポウカで」
二人が顔を見合わせる。私は自分で持ってきた札の束を机に放る。未開封の新品だ。
視線で合意ができたようで、揃ってグラスを干すと、札を開封し始める。
「いくら賭ける? 少額で行こう」
「良いわよ」
私は二人の前に五十アースのコインを放る。二人はまる額が少なすぎるとでも言いたげに首を振りつつ、ちゃんと机に五十アースを置いた。
カードがシャッフルされ始める。
私は心に誓っていた。
絶対にこの二人に目に物見せてやる!
私は配られた五枚の札をにらみつつ、考えた。
バレなかったら、イカサマでもなんでもありである。
「表情が怖いぜ、トキコ」
「覚悟しておきなさい」
こうして、私は自分が恵んでやったようなものの大金を回収するべく、不要な札を捨て、山から一枚、引いた。
この賭けの結果は、私のマラソンの結果とは関係ない。
私の初めてのマラソンは、九割九分の苦しさと、一分の満足をもたらした。
でも日が過ぎるうちに、なんとなく、またあの苦しさと満足を味わいたい、と思い始めた。
なので、週に二回ほど、短い距離を走るようになった。
「わからんものだね、こうなるとは」
マワリはそんなことを言って笑っている。
どうやら私は、走ることに取り憑かれつつあるようだった。
趣味が増えたんだ、良いことだろう。
次回のマラソン大会の開催が、楽しみだ。
(了)
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