episode 4 封 B-part
トキコに封印術を施す作業は一日ほどかかった。
しかし、トキコは目覚めなかった。今もまだ眠り続けている。
襲撃から一週間ほどした日の夕方、私はシンに呼び出された。彼の部屋へ行くと、シンは一人でグラスを傾けていた。琥珀色の液体は、おそらく、酒だろう。
「いい話し相手がいなくてね」
シンはそう言って、グラスをちょっとだけ口に添えた。
「トキコは昔から弱くて、それが頭痛の種だった」
静かな口調でシンが語り始めた。
「頭痛の種だったが、それでも娘には変わりない。様々なことを伝えてきた。生きていけるように、一人で生きていけないのなら、誰かと共に生きられるように」
グラスがそっと、机に置かれる。シンが、目元を手で押さえた。
「今、トキコは眠っている。しかし、いつかは目覚めると私は信じている。封印術が正しく作用すれば、目覚めるはずだ」
こちらに鋭い視線が向けられる。
「ヨウコ。きみには、トキコのそばで、彼女の手足となってもらいたいと思っている」
「はい、それは」私は頭を下げた。「私の願いでもあります」
「トキコのために、身を捧げてほしい」
「はい」
私は深く頭を下げ、はっきりと返事をした。
しかし、どこかに違和感があった。でも、何がおかしいのか、はっきりしない。
「トキコはね」
顔を上げると、シンがグラスを手に取るのが見えた。
「本当はこの街を出たいのだろう。しかしそれは許されない。あの子は、トキ家の当主の娘だ。この街を守る役目がある」
「その役目とは、なんですか? よく、わからないのですが」
「きみに話せる内容ではない」
厳しい口調に、私は頭を下げ、謝罪するしかなかった。
それからシンはしばらく話しを続けたが、最後はそっけなく私を下がらせた。
自分の部屋に戻って、シンの様子のことをあれこれと考えたけれど、答えは出なかった。その夜はそのまま更けていった。
いや、更けていくと思っていた。
深夜、突然に部屋のドアが解錠される音がして、寝台の上で跳ね起きると、武装した集団が部屋になだれ込んできた。
問いただす間もなく、私は頬を思い切り殴られ、床に倒れた。即座に組み伏せられ、私は手際よく拘束された。
「な」強引に立たせられて、やっと言葉を発することができた。「何をする!」
「反逆の企てに加担したとして、拘束する」
指揮官らしい男がそう言って、紙を私の前に示した。薄暗くてよく見えないが、署名は見えた。シンの名前になっている。
私はさらに声を上げようとしたが、指揮官が「黙らなければ、この場で切る」と口にしたため、口をつぐむしかなかった。
私は周囲を囲まれたまま、トキ家の地下にある牢へ連れて行かれた。地下にはいくつかの牢が並んで設けられている。これは魔獣用ではなく、人間のためのものだ。街で犯罪者が出ると、ここに収容される。
私は牢の中で、体の状態を確認した。頬が痛む程度で、全身に異常はない。ただ、これから拷問を受ける可能性はある。
私がここにいるということは、多分、父さんたちにも手が及んでいるだろう。
それから少しして、私の予想を裏付けるように、数人の男が牢へ連れられてきた。その中の一人が父さんのようだったけど、父さんは自力で歩いておらず、二人に抱えられて、運ばれてきた。そして牢に投げ込むように入れられた。
「父さん!」
思わず格子に体を寄せ、父さんの方を確認しようとした。牢番が駆け寄ってきて、私を怒鳴りつけながら、持っている棒で私を突く。格子から離されても、また格子に取り付いた。また突き倒される。
それでも私がしつこく格子に取り付くのを牢番は対処するのを諦めて、放っておくようになった。何度呼びかけても、父さんは返事をせず、動きもしなかった。ただ、うずくまっている。
私は仕方なく、牢の真ん中に戻り、じっと座り込んだ。
今は体力を少しでも残しておくほうがいい。まだこの先があるはずだ。
翌日、形ばかりの食事が運ばれてくる。父さんはまだ動かない。そして食事の後、その父さんを男たちが牢から引っ張り出し、どこかへ連れて行った。
何が起こるかは、はっきりしている。
拷問か、そうでなければ、処刑。
この街で罪人の処刑が行われたことは、私が知る限り、二度しかない。
しかし父さんが処刑されないという確信はなかった。トキ家に反抗する意思を持っていたのだ。多分、この前の話が、どこかから漏れたのだろう。
少ない可能性として、トキ家の連中が、自分たちに敵対する集団の詳細を把握するため、父さんや、他に牢に入れられている人の処刑を先送りする可能性はある。
でもそれは、救いとも言えない。先送りとは、それだけ拷問を受け、ひたすら責められ続けることを意味する。
事態は解決しないのだ。
その日は夕方くらいの頃合いに、父さんは牢に戻ってきた。当然、自分で歩いていない。もののように運ばれ、もののように牢に入れられた。私が声をかけても、返事どころか、動きも無かった。
そんな日が何日か続いた。
そしてついに、夕方になっても父さんは牢に戻ってこなかった。
処刑されたのか、拷問の中で死んだのか。
何にせよ、起こったことは一つだ。すでに父さんは、この世界にはいない。
私は滲む涙を何度も拭った。拭っても拭っても、涙は出た。
その涙も、数日で消えた。
父さんと一緒に牢に入れられた数人の男が、今度は一人ずつ、牢から出されて、夕方に戻ってくるようになった。彼らは一日経つ度に衰弱していく。私はそれがとても恐ろしく思えた。
彼らもいずれ、殺されてしまうだろう。
私の番も、近いうちに来るのだ。
恐怖で体が震え、一日に一度の食事も喉を通らなくなった。
何日経ったのか、時間の感覚が消えていった。父さんの後、二人の人間が牢に戻ってこず、代わりに新しく四人が連れて来られた。
私はずっと放置されている。
私は動けなくなり、一日をずっと牢の中で横になって過ごした。
どこかで悲鳴が聞こえた、と思い、私は上体を起こした。幻聴が聞こえたと思った。でも悲鳴はもう一回、起こった。さらにもう一回。
聞き間違いではない。
牢へ降りてくる階段のあたりが騒がしいと思っていると、灯りを持った武装した男が四人、駆け下りてくるのが見えた。牢の中は明かりに照らされる。
男たちが牢の錠前を外していく。
「あ、あ」私は牢から引っ張り出してくれた男に無意識に訊いていた。「あなた、たちは?」
「アキ家のものです。今、仲間がトキ家を制圧しています」
助かった、とまず思った。
兵士に抱えられて、地上へ出た。窓の外は夜だった。建物の中の空気が凄く澄んでいるように感じた。どこからか、血の匂いと、何かが燃える匂いが漂っていても、地下に比べれば、澄んでいる。
窓の向こうをもう一度見る、どこかで明かりが揺れているのがわかった。炎の明かりだ。
私は抱えられたままトキ家の屋敷を出る、その寸前になって、気づいた。
トキコは、どうしたんだろう?
「トキコは? どうなったの?」
兵士がこちらをまじまじと見た。
「今頃、屋敷と共に燃えているでしょう」
それから私は何をどうしたのか、わからなかった。
気づいた時には、どこかで手に入れた剣を手に、火に包まれて煙が充満したトキ家の屋敷の中、トキコの部屋のドアの前に立ち、ドアを引きあけていた。
トキコはベッドに横になっている。
トキコを抱えて私は彼女の部屋の窓から外へ出た。平屋なので、少しの危険もない。
ふらつく自分の足を呪いながら、どうにかトキコを燃える屋敷から離れたところまで連れて行った。トキコを地面に横たえる。意識はない。
「ヨウコ様!」
兵士が一人、追いついてきた。そしてトキコを見て、はっとしたのが気配でわかった。
相手が剣を抜いたので、私も剣を抜いた。
「おやめください、ヨウコ様」兵士がじりじりと間合いを詰めた。「トキコ様には、死んでもらうしかないのです。トキ家はもう、終わるのです」
私は返事しなかった。ただ剣を構える。あまりに剣が重くて、今にも取り落としてしまいそうだった。
剣を手放す、それだけはできない。もしここで剣を下げれば、トキコが死んでしまう。
兵士が意を決したように、突っ込んできた。
私は持てる力のすべてで、剣を振った。
衝撃と共に、剣ははじき返され、手から離れた。そして私は兵士に突き飛ばされる。
視線は兵士を追っていた。
兵士の剣がトキコの胸に、突き立った。
「トキコ……」
トキコは何の反応もしなかった。悲鳴も苦鳴もなく、無反応だった。
でも、トキコはもう、死んだ。
兵士が剣を引き抜き、血を払って鞘に収めると、トキコの体を抱え上げた。そして倒れている私に一礼すると、火勢を増している屋敷の方へ進んでいき、トキコの体を火の中へ入れた。
どうしてそんなことをするのか、私にはわからなかった。
遺体さえも残せない、ということか。
トキコの生きた痕跡を、消したいのか。
口から悲鳴が漏れていた。
自分の手から離れて地面に転がっていた剣を掴み上げると、兵士に向かって突進していた。
驚いた兵士が、それでも即座に剣を鞘走らせる。
私は渾身の一撃を叩き込んだ。
相手の剣のことは、無視した。
私の腹部に兵士の剣が突き立った。
私の剣は、兵士の首を半ばまで切り裂いていた。
激痛と脱力の中、視界が赤く染まる。
私は意識を失いながら、トキコの後を追いたい、と思っていた。
私の体も、灰になれば、ついていくことが出来るのかな。
ねぇ、トキコ。
トキコ。
答えて。
周りが真っ暗だった。
私はその闇の中を深く深く、落ちていく。
周囲を何者かが取り巻いている。
全部で十体。人間ではない。魔獣や幻獣が、私を囲んでいる。
光は少しも見えなかった。
どこかで誰かが私を呼んでいる。
トキコ? 父さん?
誰?
小さい気泡が、私の前を漂い、どこかへ消えていった。
目を覚ました時、私はあまりの暗さに、視力を失ったのかと思った。
すぐに視界の内容が確認できた。洞窟だ。岩肌の陰影が見える。
私は洞窟に寝かされている。起き上がろうとすると、横から手が伸びてきて、押しとどめた。
「少し休みなさい」
しわがれた声に、聞き覚えがあった。
アキ家に出入りした術印士の男性の声だった。ここはどこなんだ?
「落ち着きなさい。ここに危険はない」
私は横になったまま自分の体の感覚を意識した。
兵士に腹部を貫かれたのは覚えている。そして、兵士を切り倒したことも。
私は重傷だったはずだ。それが今は、かすかな痛みしかない。
「どうやって」
喉が渇いていて、それしか言えなかった。術印士は、静かに答えた。
「志のあるアキ家のものが、ここまで運んでくださいました。その方の勇気に感謝なさい。傷は私が治しました。正しくは、二つの術印式を新たにあなたに施し、それが作用したのです」
結局、私は死ねなかった。
トキコを、遠くへ行かせてしまった。一人で。
眠気が私の意識を一瞬で刈り取り、次に目覚めた時は、昼間だった。かすかに洞窟の中に明かりが差し込んでいる。
周囲を確認すると、術印士が何かの薬を調合していた。私の目覚めに気づくと、初老のその顔に穏やかな笑みが浮かんだ。
「回復されたようですね。痛みますか?」
「痛みません」まだ喉が渇いている。「水はありますか?」
彼は小さな器に水を汲んできた。私は手助けしてもらって上体を起こすと、水を少しだけ口に含んだ。全身に水分が行き渡るのがわかった。
「あの街は」私は術印士に尋ねた。「どうなったのですか?」
「もはや街ではありません」
術印士が静かに口にした。
「トキ家がアキ家を攻撃し、アキ家に属するものがトキ家を攻撃した。彼らの争いは、もはや、止められません。あなたはどちらにも追われる身なのです」
「私は、どうすれば……?」
「それを考える時間は、十分にあります。まずは万全の体調になることです」
その言葉に従って、私は二週間ほど、その洞窟で過ごした。術印士はどこから食料を調達し、それを調理して、私に食べさせた。
動けるようになって、少しだけ洞窟の外を確認した。
私が生まれ育った街は、どこにも見えなかった。一面に荒地が広がり、この洞窟は山の裾にあるようだった。馬が数頭、木に繋がれていた。その木の周囲だけど、草が生えている。しかし馬が食べるには少ない量に見えた。
剣術の稽古を自分一人でやって、体の具合を確かめた。
問題ない。
「どうするべきか、わかりましたか?」
術印士が夕飯の席で切り出した。私は頷く。
「アキ家とトキ家、彼らを討ちます。父さんと、トキコの仇として」
それを聞いて、術印士が持っていた器を置いた。
「それは、苦しい道です。わかっているのですね?」
「わかっています」
私の言葉に、何も言わずに、術印士は食事を再開した。
「明日にでも、立とうと思います」
「いいでしょう」術印士はあっさりと応じた。「少しの路銀と馬を一頭、お渡ししましょう」
ありがたく受け取ることにした。
その日の夜は、色々なことを考えたけれど、眠ることはできた。そして夢の中で誰か、大事な人と会った気がしたけれど、それが誰なのか、起きた時には忘れていた。
朝食の後、私は身支度を整えた。術印士が一振りの剣を渡してくれた。
「私は」
術印士に私ははっきりと伝えた。
「これから、トキコ・トキと名乗ります。そうすれば、アキ家もトキ家も放ってはおかないでしょう。彼らを引っ張り出すため、当分、旅を続けます」
「それを私に話すということは、私もあなたの存在を流布するのを手伝って欲しい、ということですね?」
頭を下げて、私は返事に代えた。
息を吐いた術印士は、「良いでしょう」と小さな声で応じた。
「しかし、命を捨ててはいけません。それだけは、ここで約束していただきたい」
「あなたにですか?」
「いえ、そうですね……トキコ様に」
私は頷いた。
「誓いましょう」
私は洞窟を出て、これも贈られた馬に乗り、荒野を駆けた。
地図もないのに、自然と見知らぬ街が見えてきた。馬を降りて、通りを進む。住民は少なそうだが、通りに人はいる。彼らが皆、私の顔をチラチラと見てくる。
洞窟にいる時、術印士が私に新しく刻んだ封印術について話してくれた。二つのうちの一つは、私の頬に刻まれていた。
その頬の刺青が、周りの注意を引くのだろう。
その街でしばらく過ごした。日雇いの仕事を請けて、それで生活費を稼いだ。
名前は、トキコ・トキ、と名乗った。
生活の中でも剣術の稽古は怠らなかった。朝と夜、人目につかないところで、基礎を一人で練習した。
その街にいられなくなったのは白昼堂々、トキ家の刺客がやってきたからだ。
相手は二人。二人ともが封印術を体に刻んでおり、二人とも体が異形のそれに変貌し、襲いかかってきた。
私も封印術を解放し、やはり異形となって、彼らを返り討ちにした。
街には恐怖が広がり、私は居場所を失った。
馬に乗り、またひたすら駆けた。今度は地図を持っている。近い街へと細い街道を進んだ。
その旅の中で、初めて多頭龍を見た。巨大な山のようだったが、どこか生物らしさを感じさせる姿に、少し興奮し、少し恐れを感じた。
次の街に着き、私はやはり日雇いで生活費を稼いだ。
だが、ここにも刺客はやってくる。異形と異形がぶつかり合い、恐怖を生む。
私は走る。生きる。戦う。また走る。生きる。戦う。
とにかく私はそれを繰り返した。
そのうち、刺客の追跡は間隔が長くなった。私の生活にも、穏やかな部分が増えてきた。
一つの街に留まって、一ヶ月が過ぎようとした。
その老婆は、ふらりと、私の前に現れた。
「あんたがトキコ・トキかい?」
仕事の後の帰り道だった。まるで道でも聞くように、老婆が声をかけてきた。
「ええ。そうですが」
刺客には見えなかった。
だけど、その老婆は、腰に一振りの剣を下げていた。
「そうかい」
老婆の手が自然な動きで、剣の柄に触れた。
本能が最大級の警戒を訴える。
私は間合いを取ろうとしつつ、剣を抜いた。
その剣を、老婆の剣がそうっと押さえる。触れているだけ、まるで力がないようなのに私の剣が、動かない!
老婆がふわりと踏み込んで、こちらへ剣を振った。遅く見えるのに、しかし、こちらの動きもまるで遅い。
どうなっているのか、最後までわからなかった。
老婆の剣が私の首をかすめた。
当たっていれば致命傷だった。
どうして躱せたのか、自分でも不思議だった。
間合いを取って、剣を正眼に構えた。ただの老婆じゃない。本気でいかないと、死ぬ。
私が封印術を解放しようとした、その時、老婆は剣を鞘に収めた。
なぜ?
「面白い。下品な手品は見せなくてもいいぞ」
老婆は私の方は歩み寄ってくる。私は剣を突きつけたが、老婆は気にした様子もない。
「少し、この婆さんと付き合ってみないかね?」
予想外の言葉だった。
付き合う?
「どういう意味だ?」
「いや、しばらく面倒を見てやろう、ってことさ。お前さんを殺すように依頼されたが、死なすのは惜しくてな」
「殺せるのなら、殺せ」
言った直後、私は体を強張らせていた。
老婆の視線、そこからの殺気が、私をほとんど金縛りにしていた。
「命を大事にしな、お嬢ちゃん」
言葉の後、老婆は視線を緩めた。私は息を吐いて、やっと剣を鞘に戻した。老婆がにこにこ笑い、歩き出す。
「ついて来な、トキコ。剣術というものを、教えてやろう」
「あの」
私は後を追いつつ、訊いた。
「あなたの名前は?」
「マワリ」
これがマワリとの、出会いだった。
マワリもとにかく、一箇所に落ち着くということがない。長くても一ヶ月ほどしか留まらない。どうやら、各地の学者を訪ねているようだった。私はその場に同席しないから、詳細はわからないが、封印術を勉強しているらしい。
剣術の稽古は一日に二回、朝と晩にやる。
マワリの剣術は、私が見たこともない剣術だった。
小技はそれほどなく、あるのは剣を速く振る、ということだ。
つまり、相手の動きより速く、相手の攻撃より先に相手を切るのだ。
マワリの稽古は新鮮で、私は没頭した。今まで続けていた稽古は、ほとんど無駄になったけれど、マワリが示す、体系がはっきりした剣術は、上達の実感をはっきりと私に残していた。
ひたすら、木刀を振っていた。それだけでも、違うのである。
昼間、どこかに出かけない時、マワリは私に色々な講義もした。長旅の仕方や、食料や水の確保の仕方、保存方法などが多かった。
そして採掘士の基礎も教えてくれた。
採掘士のことを考えると、トキコのことが頭をよぎった。
私は今まで通りに、日雇いや短期間の仕事で生計を立てた。マワリは働く必要がないほどの貯えがあるようで、私の生活の面倒も見る、と言っているけど、それでも私は働いた。
何かしている方が落ち着く。じっとしていると、不安になる。
その点は、移動も同じだった。マワリが転々とするのは、ありがたかった。
ある時、私は稽古の最後にマワリに聞いてみた。
「どうして私を弟子にしたの?」
少し唸ってから、マワリは、
「死にたがりのくせに、臆病だからだ」
と言った。
「何、それ。どういう意味?」
「剣を握れば、死を恐れていては戦えない。戦いになれば、死を恐れなければ生き残れない」
「わけわからないよ、それは」
分かれば苦労しない、とマワリは鼻で笑った。
私の剣の腕は、そのうちに稽古を続けても上達しているか、わからなくなった。
この頃には私はマワリと木刀で打ち合う稽古をした。トキ一族の村で稽古をつけてくれた青年とは違い、マワリは私を強くは打たない。強い打撃、というものは無用という考えらしい。
稽古を続けながら、私の頭は一つのことを考えていた。
封印術を解放すれば、私には剣の腕前なんて必要はないはずだった。人外の力を自由に行使できるのだ。大抵の相手は、それで倒せる。
その事は、マワリにも伝えてある。私はマワリには隠し事をしないことにしていた。
私の体のことを聞いたマワリは、封印式についていくつか質問しただけで、それほど興味を示さなかった。
不思議な老婆である。もっと興味を持ったり、恐れたりしそうなものなのに平然としていた。
なんにせよ、私に剣術を教える理由があるはずで、それも聞いてみたことがある。
マワリはただ一言で答えた。
「どんな体でどんな力を持とうが、体の動かし方を知らないのでは、不完全だ」
わかるような、わからないような。
どちらにせよ、封印術の解放をすると、明らかに自分が異質だと周囲に知らしめてしまう。今まではそれでよかった。トキ家やアキ家の追跡に引っかからないといけなかった。だけど、今はマワリがいる。マワリに余計な危険を及ぼしたくないと思った。
そのためには剣術だ。力を使わず、相手を倒す。
いくつもの街を渡り歩いて、その間にマワリは私の剣を二回、取り替えた。それほど高価なものではなく、大量生産品だった。
稽古が真剣を使ってのものになった。マワリは私を傷つけないように加減できるが、私にはとてもそんなことはできない。
だけど、私の剣が止められなくてもマワリは困らないようだった。
要は、私の腕では、マワリに傷一つ付けられなかった。
逆にマワリの剣は、私の肌に細い傷をつける程度に加減されている。
力量の差に、私は少し悩んだりもした。やはり、自分の技術の上達は、一流にはまだまだ遠く及ばない。
ある時、野営していた時があった。小さなテントを組み立て、マワリと並んで眠った。
気づくと、マワリが横にいない。周囲はまだ真っ暗で、時計を見ると、深夜だった。
マワリ、どこへ行ったんだろう?
私はそっとテントの外を窺った。
マワリは剣を手にして、一人で立っていた。やや上を眺めている。視線を追うと、そこに月があった。
私はテントから出ようとした。でも、出られなかった。
いつの間にか、マワリを四人の男が囲んでいるのだ。空気が緊張していた。殺気は辺りを制圧している。
マワリの周りの四人の体が膨れ上がり、異形のそれに変わった。魔獣と人間が融合した姿。
トキ家、あるいは、アキ家の刺客だった。
それを見ても、マワリは落ち着いている。剣の柄に手を置いて、まだ月を見ているように見えた。悠然としている。
刺客たちが間合いを計り、そして同時に襲いかかった。
甲高い音、月の光を刃が無数に反射した。
マワリが一歩、二歩と前に出て、四人の刺客から離れる。
刺客たちが、動きを止めている。
ずるり、と彼らの体が、滑る。
四人はバラバラに分解され、地面に転がっていた。
「見ていたかい? トキコ」
気づくと、マワリがこちらを見ていた。夜闇が深くて表情はうかがえないが、声にはからかうような響き。
私はおずおずとテントから出た。マワリがゆっくりと剣を鞘に戻し、こちらへ戻ってくる。
「今までも」私はマワリに躊躇いながら、訊いた。「刺客の相手をしてくれていたの?」
「余計なことは考えないでいいよ」
マワリは私の前を通り過ぎ、ポンと私の腕を叩き、テントに入ろうとする。
「お前にも同じことができるようにしてやるからね、覚悟するがいい」
彼女は足を止めずにテントに入ってしまった。
私は漂う血の匂いに、トキ家の燃えている光景を思い出した。
いつまで経っても、あの時のことは忘れないだろう。
トキコのことも、忘れることはない。
不意に、私がトキコの名前を使うということを、トキコはどう思うのか、と考えた。
嫌だろうか、それとも嬉しいだろうか。
しかし、もう決めたことだ。
私はトキコ・トキ。十二の封印術を体に刻んだ、特異な存在。
夜空を見上げる。
そこには月が浮かんでいた。
その輪郭が、ゆらゆらと揺れている。
私とマワリは、リーンという街に落ち着いた。
トキ一族の街を出てから数年が過ぎていた。リーンという街は多頭龍の封印体に依って出来ている街で、活気に満ちていた。
マワリが私に稽古をつけることも、最近はほとんどなくなった。
ここのところ、体力が落ちた、と本人は言っているが、私にはそうは見えなかったけど。
稽古は、一人で行い、それをマワリがじっと観察している。ごく稀に、指導することもある。
私はいくつかの仕事をこなしたけれど、ある時、住んでいる小屋に戻るとマワリが突然に、
「採掘士をする気はないかな、トキコよ」
と、言った。
「突然だね、マワリ。採掘士も良いけど、装備はどうするの?」
「それくらいの蓄えはあるんだろう?」
確かに、ある。
「不安か?」
「そうでもない」
私は肩をすくめる。
「マワリは、ここで生活するつもり?」
「おいおい、自分の気持ちを口にしなさいな」
ややこしいなぁ。
でも、答えは決まっているのだ。
「良いよ、ここで採掘士をやる。マワリはどうする?」
「私は私でやりたいことをやる。じゃあ、決まりだ。装備は言い出した私が整えてやろう。この街は、なかなか、面白いぞ」
楽しそうに笑うマワリに、私は呆れていた。
しかしすぐに、自分もいつの間にか笑っているのに気づいた。
私が、採掘士、か。
トキコはなんて言うだろう。
それはもう、いいや。考えても、仕方がない。
私はトキコであり、ヨウコだ。
でも、私は一人しかいない。
一人の私として、生きていく。
私はそっと自分の服の袖を捲った。
そこには刺青がある。
全身の刺青が、私の存在の始まりであり、悲劇の証拠であり、そして今の、生きていくための力だった。
そっと袖を戻した。
私は、この街で、生きる。
一人の採掘士として。
(了)
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