episode 4 封 A-part
多頭龍という存在が世界を席巻したのは遠い昔。
変貌した世界で、それでも人の日常は続いている。
私は寝台にうつ伏せで横になっていた。
上半身は肌が露出していて、今、そこに家に仕えている封印士が封印術を刻んでいた。激しい痛みを、厚手の布を思い切り噛み締めて、耐える。
父さんは、この封印式を刻めば、空を自由に飛べるようになる、と教えてくれていた。
別に私は空を飛びたくはない。父さんの様子を見ると、空を飛ぶこと以上に、何かが手に入るようだと想像もできるけど、はっきりとしたイメージはない。
何よりも早く、終わってほしかった。
とにかく、痛い。
私は十二歳になって、初めて、体に封印式を彫っている。
私が生まれた家、アキ家は、トキ一族の分家の一つだ。
トキ一族は、封印式に長けた集団で、男も女もの、十二歳になると封印式を一つは体に刻まれる。
多頭龍の出現により人類は存亡の瀬戸際に立たされたが、しかし八人の英雄の出現により、人類は多頭龍を封印、あるいは倒すことができた。
その八人の英雄の内の一人が、始祖の魔法使い、と呼ばれる。
魔法は今、すべてに秀でたものは極めて少なく、おおよそが三つの分野に分かれていた。
治癒などを司る法印。
物理力を行使する術印。
そして、何かしらの力を抑えこみ、あるいは付与する、封印。
私の体に刻まれた封印は、幻獣の封印だった。つまり、封印という形に強制的に圧縮された幻獣が今、私の背中に組み込まれている。
施術の前に、その幻獣を何度か解放し、私は意思疎通を終えている。
巨大な鳥であるその幻獣は、最初こそ抵抗したものの、時間とともに、私と打ち解けた。言葉を交わしたわけではない。手を触れたのも数えられる程度。
ここがトキ家の血筋の力だと、私は思った。
幻獣の方から興味を示し、従うようになるのだから。
これを一族では調伏と呼んでいるけど、私には少し違うように思えた。
何かしらの、幻獣を引きつける力を、自分に感じた。幻獣が落ち着く、慕う、そんな気配なのだ。
でもそれは、はっきりと言葉にはできない。
やがて施術が終わる。封印士の器具が背中から離れ、そっと何か、塗り薬が背中に塗られた。ひんやりとした感触が、少しだけ痛みを和らげた。
その日の間は痛みが消えなかったけど、翌朝には何も感じなかった。
朝食の後、私は父さんの私室へ出向いた。
「ヨウコ」
父さんが私を見る。その頬には刺青が、封印式が彫られている。
「封印式を使ってみなさい。見ていてあげよう」
二人で中庭へ出た。私はその真ん中に立ち、短く呼吸を整えた。
「封印式五号、限定解放」
短く口にすると同時に、背中に違和感があり、次には何かが背中から飛び出したのがわかった。服の裂ける音。肩越しに後ろを見ると、背中に鳥のような羽が生えていた。
落ち着くように意識して、さらに、背中の翼を意識した。
体を上に持ち上げるイメージをすると、ふわりと足が地面を離れた。風が私の短い髪を揺らす。
「よし」父さんが頷くのが見えた。「上出来だ。調伏も完璧だろう」
私は少しだけ体を空中で移動させる。想像している通りに、私は宙をふわりと移動し、父さんの周りを一周、ぐるりと回ることができた。
「もう良いぞ」
苦笑いする父さんの前で着地する。封印式を発動すると、背中の翼が瞬く間に背中に戻り、消えた。服が破けている以外に、痕跡はない。
「父さん、一つ、聞いても良いですか?」
私の方を父さんが穏やかに見る。柔らかい、どこか誇らしげでもある、瞳。
「どうして、一つ目の封印が、五号なのですか?」
「それか」父さんが微笑む。「お前にはあと四つは、封印式を受け継いでほしいからだ」
「五つもですか?」
身を屈めた父さんが、私と目線を合わせた。
「痛いのは嫌か? 嫌だろうな。しかし、それがこの一族の宿命だ」
「宿命」
「優れた封印術を継承し、また行使する。お前にはその素質がある」
素質、という言葉の意味するところは、私自身には自覚できなかった。自分の才能や素質に気づける人間なんて、ほんのわずかだ。
私は私自身の力を、まるで知らないし、知る術がない。
しかし、私は期待されているのだ、ということはわかった。それも盲信のような期待ではなく、父さんには確信があるらしい。
その後、私たちは敷地の一角にある建物へ向かって歩きながら、いくつかの話をした。
父さんはどこかに腰を落ち着けて落ち着いて私にものを教える、ということはない。
今も父さんは歩きながら、封印術の細かなテクニックを、雑談のような調子で話している。
もっと丁寧に、集中できる形での教育を願っている母さんは、あまりいい気持ちではないようだけど私はこの瞬間が好きだった。
何を求められているのかは、やっぱりわからない。でも父さんの話が示すところは、私が私自身を守るために必要な情報だと、感じる。それがどういう形で父さんのためになるのかが、わからないだけ。
建物に着き、父さんが扉の鍵を開け、中に入った。
建物の内部には、細い通路が奥へと伸び、いくつかの巨大な檻が両側に並んでいる。
空のものもあるが、それは少ない。
ほとんど檻に巨大な存在が捕らわれている。初めてここに来た時は、圧倒されたけど、今は慣れた。ここにある檻は、特別な檻だ。封印術が施されていて、中にいる魔物や幻獣が暴れても、檻が破壊されることはない。
父さんが檻の一つの前に立った。私は横に並ぶ。
目の前には鳥だけれど、翼のない鳥が、檻に入っている。足を折ってうずくまり、そのまま首だけをあげてこちらを見ていた。真っ白で、羽毛がざわざわを揺れている。パチパチと弾けるような音がした。
「次はこれをお前に刻もうと思っている。ヨウコ、調伏できるか?」
「はい、試してみます」
私は頷いて、一歩、檻へ近づいた。
鳥も、こちらを見据える。破裂音が少しだけ高まり、連なる。
私と鳥の視線がぶつかった。しかし私は敵意や怯えを巧妙に隠し、逆に、鳥の方からの強い圧力を受け止めるように心がける。
突然、鳥が鳴き声をあげた。甲高い、金属が擦れるような音。私は思わず少し目を細めるけど、視線は外さない。じっと、鳥を見据える。もう一度、鳴き声。今度はさっきより大きかった。
それでも、私はじっと見つめ続けた。
鳥が立ち上がり、体を揺らしながら、こちらへ歩み寄ってくる。
その全身で小さな閃光が連続すると、それが雷光へと展開していく。建物の内部が明るくなるほどの光が瞬く。
私はギリギリのところで怯えを必死に隠す。
檻が壊れることはない。雷撃が漏れることもない。
でも恐ろしい。恐ろしいけど、恐ろしいと思えば、この魔獣は私を見くびる。見くびられれば、それっきりだ。
雷撃が鳥のくちばしに収束した。
私はじっと、見つめ続けた。
その時、音が、少し弱まるのが感じ取れた。そしてそのまま、雷光は収束していき、音も弱まった。
安堵も危険な感覚だ、その安堵も隠して、私はまだ視線を注いでいた。
魔獣から完全に雷撃の気配が消え、すぐ手前まで歩み寄ってくると、そこで魔獣はうずくまった。手が届きそうな距離だ。檻の隙間から手を伸ばせば、撫でられるだろう。
気力を振り絞り、挫けないように気を張って、私は檻に歩み寄り、手を差し入れた。
羽毛を撫でる。柔らかい手触り。魔獣は撫でられるがままに任せている。私はそっと手を離した。
檻から離れると、そっと父さんの手が私の背中に添えられた。
「よくやった。今日は帰ろう」
建物から出ると、また父さんの講義が始まる。
「本家が後継に悩んでいるのは、知っているかな?」
「トキコ様と、レキ様のことですか?」
「そうだ。トキコ様は、どうやら力がお強くないらしい」
二人は、一族の本家筋で、当主のシン・トキの娘と息子だった。
「では、レキ様が次に?」
「それはまだわからない。混乱が起きなければいいのだが……」
そう言って、父さんは口をつぐんだ。
母屋にたどり着き、父さんは私室へ向かい、私は勉強部屋に向かった。中に入ると、すでに一族の若い女性である家庭教師が待っていた。
挨拶を交わして、昼食を挟んで、数時間の座学をこなした。
家庭教師が帰ってから私室へ移動し、そこで私は服を脱いだ。鏡を使って、苦労しながら自分の背中を確認する。
複雑な模様の組み合わせの封印式が、そこにあった。
服を着て、私は寝台に横になった。
また痛い思いをして、封印式を体に刻まなくてはいけない、と思うと不安になる。それに、自分の体に魔獣や幻獣を組み込むのが、どこか、受け入れ難くもある。
これは父さんには話していない。きっと、叱られる。
今日、あの檻の中にいた魔獣も、やがては私の中に封じ込められる。それは彼らの自由を奪うことだし、また利用することでもある。
いつだったか、父さんは昔話を私にしてくれた。その話の中で、大昔は多頭龍と人が戦い、それは、熾烈を極めたらしい。その戦いの中で、封印術は大きな要素の一つであり、トキ一族のように、魔獣や幻獣を利用する存在は強力な勢力だったという。
でも、と私は思う。
すでに多頭龍は封じられ、人間には大きな敵は存在しない時代に入った。
それなのに私たちのような存在が必要なのか。
魔獣のことも考えた。彼らは私や私たちの中に封じられてしまって、どう思うのか。
彼らにも、意思がある。意思あるものを、封じ込める。
こういうことを考えている人は、いないのか。
私はベッドの上に転がって、天井を見た。
誰か、話せる相手が欲しかった。
私の体への封印術は、父さんの予定通り、五つに達して、しかもそれを超えて、増えていった。
七つ目の封印術が体に刻まれて少しして、珍しく夜に、父さんが私を呼び出した。
父さんの私室で、主人である父さんは眉間にしわを寄せていた。
「参りました」
「ん。悪い」
私は父さんの前に進み出た。
「何かありましたか?」
「本家から、通達があった」
そう言って、封書を父さんが差し出した。読んでいいのだろうか? 受け取らないでいると、「読みなさい」とのこと。私は手紙を受け取り、内容を確認した。
それは私を、トキコのそばで働かせるように、と書いてあった。署名は、シン・トキになっていた。
「どういうことでしょうか?」
手紙を返しつつ、私はさすがに困惑していた。理由がわからなかった。トキコは遠くから見たことしかない相手で、親しいとはとても言えない、交流のない相手だった。
でも父さんには見当がついているらしい。
「これは推測だが」父さんが腕を組む。「お前にあまりにも封印式を施しすぎた」
「よく、わかりません」
「いいかい、ヨウコ。お前は一族の中でも、特別に封印式と相性がいい。そして魔獣たちと関係を作るのに長けてもいる。そういう存在を、シン様は自分の近くに置きたいのだろう」
どうやら、政治に近いものが理由のようだ。
「どうすればいいのですか?」
「仕方ない。ヨウコ、トキコ様の元へ行っておくれ。私から話しを受けることを伝えておく」
私が気になる点は、一つしかなかった。
「トキコ様とは、どういう方なのですか?」
「聡明だと聞いているが、封印術には合わないようだ。詳しいところは、直接、接することで知ることになるだろう。主従ということを忘れないように」
私は頷いて、部屋を出た。
自分の部屋に戻って、私は寝台に横になり、考えた。トキコとは、どんな女性なんだろう? 私と話が合えばいいのだけど。
なかなか、この日は眠れなかった。
翌日、正式にトキコへの出仕が決まり、私は準備をして、三日後、私はトキ家の屋敷へ向かった。しばらくはその家で起居することになる。
父さんは別れの時、何も言わなかった。
トキ家の屋敷の中に入り、当主のシンと顔を合わせた。その場に、トキコはいなかった。
「わざわざ、悪いな、ヨウコ」シンはどこか父さんと似た風貌だった。「トキコの世話を任せるのに、ちょうどいいと思ってな」
「誠心誠意、お仕えします」
そう言った私に、シンが大声で笑い始めた。
「はっはっは、仕えるなどと、言わなくてもいい。友人になってくれればいいのだ」
友人?
友人というのは、親が用意するものとは思えない。あまり友人という対象がいない私にも、それはわかる。
「心して、お相手します」
とだけ、応じた。
シンに仕えているらしい侍従が私をトキコの私室へ案内した。
ドアをノックすると、高い声の返事があった。中へ入る。
ふんわりと、花の匂いが香った。
「ヨウコ・アキです」
軽く頭を下げ、それから相手を見る。
椅子に座っている少女が、穏やかにこちらを見ていた。
「あなたが、ヨウコさん? 私が、トキコです」
トキコの第一印象は、華奢、ということになる。全体的に細身で、ガラス細工をイメージさせる。肌はまるで日に当たっていないように真っ白で、透けるようだ。長い髪が光を受けて、美しい。
「どうしたの?」
首を傾げる彼女に、私は軽く頷き、歩み寄った。近づくだけでトキコが壊れてしまいそうに思えた。
すぐ目の前で、片膝をついて、視線を合わせる。
「よろしくお願いいたします」
「そんな丁寧な言葉はいらないわ。もっと自然に」
そう言いながら、トキコは椅子から降りて、私と同じように片膝をついた。同じ高さで、二人の視線が合う。
「ヨウコさん、あなたのことはとてもよく知っているの。一族の中でも、天性のものを持っているって」
「そんなことはありません」
「そんなことないよ、と言って」
思わず目を瞬いてしまった。どうやら、言葉を訂正したいらしい。
「そんなこと、ない」
「よしよし」楽しそうにトキコが笑う。「今日は特に予定はないから、しばらくお話ししましょう。あなたのこと、好きになれそう」
そんなことを言いながら、立ち上がったトキコは、部屋の隅のキャビネットから瓶に入った飲み物を持ってきた。そして部屋の片隅のソファーを私に示す。私はちょっと緊張しつつ、ソファーに腰を下ろした。
すぐ横に、トキコが座った。
「どうぞ」
「申し訳ありません」
受け取る私に、トキコは「悪いね、って言って」と応じる。全く、言葉遣いが、難しい。
その日は夕方まで、ひたすらトキコの質問を受けて、答えていた。トキコはとにかく、私の口調を矯正したいようで、何度も何度も、繰り返して私の口調を訂正した。
夕飯は他の使用人と一緒に済ませ、私は自分に割り当てられている部屋に戻った。今日はとにかく、疲れた。喋り疲れる、というのは初めての経験だった。
その日はぐっすりと眠れて、夢も見なかった。
翌朝、朝食をしに使用人の食堂へ行くと、庭師がいるだけで、他に使用人がいない。
まさか、時間を間違えた?
時計を確認するが、それはない。食事は用意されていて、すでに冷めつつあるが、使用人がいないのだった。
どうしようかと思っていると、初老の使用人の一人がやってきた。
「何をしているのです、ここで?」
相手の険しい表情、強い口調に怯む自分を感じつつ、
「何かあったのですか?」
と訊いていた。使用人は呆れた表情で応じた。
「トキコさまが熱を出されたのです」
私は絶句してしまった。
私のせいだろうか? まず、そう思った。
使用人は去っていき、私は食事をせずにトキコの私室へ向かった。ドアの前に、別の使用人が立っている。中に入れてもらえなかった。
呆然とする私を、シンが呼び出したのは昼過ぎだった。すでにトキコを診察した医師は帰っており、屋敷の中は落ち着いていた。
シンの部屋に入ると、彼は穏やかな表情だった。
「昨日は、トキコも嬉しかったようだ。はしゃぎすぎたと自分で言っていたよ」
「申し訳ありません。ご無理をさせてしまって……」
「ヨウコを責めないでくれ、とも言っていたよ」
シンが席を立って、こちらへ歩み寄ってくる。私はひたすら頭を下げていた。
「トキコは体が弱い。成長すれば少しずつ回復する、と医者は言っていたが、まだそこには至っていない。部屋からほとんど出さないのはそのためだが、しかし、それではトキコの世界は狭まってしまう。そこで、きみを呼んだのだ」
「私など、とても……」
「トキコはきみに憧れているんだ」
憧れている?
反射的に視線をシンに向けていた。やはり穏やかに、優しげに彼は私を見てた。
「トキコは封印術に耐えられる体ではない。でもきみは違う。だから、憧れる。私も、きみと接すれば、トキコも気力が湧くと、思ったわけだ。初日から、頑張りすぎたようだが。困った子だよ」
思わず肩をすぼめる私の頭を、シンが軽く叩いた。
「予想以上に、トキコは嬉しいらしい。良いことだよ。これからは加減して、トキコと付き合っておくれ。君に、任せる」
「あ、ありがとう、ございます」
「うん。頼む」
私はシンの部屋を出て、自分の部屋へ戻ろうとした。その途中で、使用人が小走りにやってきた。
「トキコさまがお呼びだ」
驚いたけど、私はトキコのことが何よりも気になっていた。話ができるのなら、話をしたい。使用人に頭を下げ、小走りで廊下を抜け、トキコの部屋の前に立った。すでに見張りの使用人はいない。ドアをノックして、中に入る。
「心配させたね」
部屋の片隅の寝台で、トキコが横になったままこちらを見ていた。
すぐ傍まで歩み寄り、私は彼女の手を取った。
「申し訳ありませんでした」
「ごめんね、と言って」
トキコの声は思ったよりも力強かった。
「ごめんね」
「それでいいの。私は大丈夫。疲れただけよ。明日には治る」
「これから、気をつけます」
私の言葉に、トキコが息を吐いた。
「悔しいわ。でも、こればっかりは仕方ない」
「いつか、克服できます」
「そうかしらね」
トキコが黙ったので、私も黙っていた。ただ、お互いに手を握り合っていた。
「ヨウコ」
彼女がこちらをまっすぐに見つめた。
「また、お話ししてね」
私は強く頷いた。
トキコは、私の心の中で特別な位置を、いつの間にか占めていたのだった。
トキコの侍女、というか、話し相手になって数ヶ月が過ぎた。
あれから私と話してトキコの具合が悪くなったことはない。むしろ、少しずつ活発になり、運動はしないものの、外歩きをするようになった。
大抵、私とトキコの二人だったけど、私はどこかからの視線を感じた。
「それにしても」トキコが隣を歩きながら言う。「あなたは長袖と長ズボンしか身につけないのね」
「封印術が見えてしまうから、仕方ない」
「若い女の子が地味な格好で歩くなんて、つまらない」
そう言うトキコは確かに、外に出る時は着飾っていた。
私たちが歩く道筋は決まっていて、トキ一族が主体となっているこの街の外周を歩く。人気はないが、平坦な地形で、見通しは利く。要は、警護に向いているのだ。
「この時代に封印式なんて、不必要だわ」
トキコがゆっくりと歩を進めつつ、言った。微かな風に彼女の髪が揺れ、スカートの裾がなびく。
「ここは平和だから、そう言えるんだと思うけど」
「知っているわよ、私も。この街の周囲は緑が多いけど、遠く離れれば、荒野が広がって、殺伐としているんでしょう? そんな世界、信じられないけど、見れることなら一度、見てみたいわね」
トキコにそんな長旅ができるとは思えなかった。
私は詳細を知らないが、この街とその外周は、田畑が広がり、多頭龍も存在しない。私も知識でしか知らないが、世の中は多頭龍との戦いで荒廃したという。そして今は、多頭龍の死骸や封印体に入り、様々な物資を獲得して生活しているらしい。
その探索を生業とするものが、採掘士と呼ばれるという。
「お父様はこの街の事情を知っているようだけど、教えてくれないわ」
「でもいつかは、トキコは知るんじゃないの? 次の当主だし」
「弟が継ぐと思うわね、私は」
トキコがゆっくりと首を振る。
「私は封印式を受け継げないし」
「そう言うトキコが、封印式を時代遅れ、と表現するってことは、トキ家も時代遅れで、自分を当主にしてほしい、ってこと?」
「そこまでは言わないけどれど」
トキコが街の方を見たので、私も視線を追った。木製の平屋が並ぶ、質素な街並み。
「この街は、トキ家がなければ、維持できない気もする」
「他の人が心配?」
「そういうこと」
トキコが微かに頷く。
「でも、トキの家は何を目指しているのかしら。封印式を集め、継承して、それがどこに至るのかしらね。また多頭龍が暴れ出す日を想定している?」
「まさか。でも、一度、手に入れた力は、可能な限り守りたいって思うものじゃないの? 防御の意味で」
「何からの防御?」
「うーん、封印式とか、魔獣、幻獣の類を、私たちの前に所有していた誰か、かな」
適当な私の返事に、不釣り合いなほど真剣な調子で、なるほど、と顎に手を当てるトキコ。
「それはありそうね。ただ、もしそういう加害者に対する防御は、終わりが見えないわ。私には別の防御法がある。確実で、決定的な」
「え? 何、どういう方法?」
「それはね、持っている力を全部、放出する。全部、捨てちゃうの。どう?」
私は思わず苦笑していた。
「この街を維持したい、と言っていたのに、今度は力を捨てるって言う。力がなくなったら、街はバラバラじゃないの?」
「どこかに両方を維持できる方法がありそうだけど、すぐには思いつかない。でも、きっとそんなものね。考えているうちに、見つかると思う」
その日はそんなことを話して屋敷に戻ると、私はシンに断って、アキ家に帰った。
今までも一ヶ月に一回ほど帰っては、封印式を体に刻む準備をしたり、施術を受けたりしていた。この日、八つ目の刺青が私の体に刻まれた。
施術が終わり、休んでいる私の元へ父さんがやってきた。
「シン様が新しい魔獣を下されると言ってきた。珍しいものだそうだ」
「そうですか」
私はふと、昼間のトキコとの会話を思い出した。外の世界をだ。
「魔獣は、どこから来るのでしょうか?」
今まで、それほど強く疑問を感じなかった事柄が、自然と口をついていた。
「魔獣や幻獣というのは、私たちだけの呼び方のようだよ」
何気なく、父さんが語る。
「彼らは眷属と呼ばれる存在だ。多頭龍の内部にいる」
「では、採掘士が探してくるのですか?」
「街の人には黙っているが、秘密裏に、来ている。ヨウコも知らなかっただろう。今、教えた」
今、教える意味は、なんだろう?
「何かあったのですか?」
「まだ内々の話だが、お前をトキコ様の侍女ではなく、護衛として身辺につける、という話があるのだよ」
「護衛? 私は剣はまだ、まともに使えませんが……?」
「護衛というのは、形だけだろう」
そう言って、父さんが顔をしかめる。
「それは、どういうことですか?」
「……つまり、お前を手元に置きたいのだ」
珍しく、煮え切らない言葉だった。私は続きを待ったけれど、父さんは「また話そう」と言って、部屋を出て行った。
翌日の朝、朝食を済ませて、トキ家の屋敷に戻った。トキコが待ちかねていて、すぐに私を散歩へ誘った。ここ数日、気候がちょうど良いこともある。
二人でゆっくりと進む。気持ちよく晴れている。
「昨日も封印式を入れたの? 痛む?」
「もう慣れた。でも、施術中は痛いね。布を噛み締めて、耐えるのよ」
トキコが怯えたように首を振った。
「私には耐えられないわ」
「それはこちらにもわかる」
「封印士を見ただけで卒倒しそう」
それは確かに、ありそうだった。
「私もまだはっきりとは知らないんだけど」トキコが少し声を潜めた。「あなたをうちに引っ張りたい動きがあるみたい」
その言葉は即座に、昨日、父さんが言った言葉に結びついた。
護衛の件か。でも、私は知らないふりをした。
「引っ張りたい、って、どういうこと?」
「本家の人間にしたい、ってことじゃないかと予想しているけど、まだよくわからないわ。養子になる、ってことかもね。ヨウコって、何歳?」
「十四歳」
「私は十五歳。じゃあ、私がお姉さんね」
トキコとしてはジョークのようだけど、私はとても笑えなかった。
「トキコの代わりになるように、私を巻き込むってこと?」
意識して明るい調子にしようとしたけれど、できなかった。私の暗い声に、トキコが少し顔を曇らせた。その表情が、ややぎこちないが、明るさを取り戻す。
「大丈夫よ、もし、変なことになるようなら、私が拒絶してあげるから。レキもいるから、トキ家には何の問題もないわ。心配しないで」
私はどう答えていいか、わからなかった。まだ冗談を口にする余裕はなかった。
二人で、ゆっくりと歩を進める。
私は剣の稽古を真剣にやることに決めた。一ヶ月ほど前から、毎朝、早朝にアキ家に属する剣術に長けた青年が、私に稽古をつけに来てくれている。トキ家の屋敷で、一時間ほど、稽古をしているが、上達している実感はない。
どうにかして、もっと時間を作ろう。質も高められるはずだ。
「どうしたの?」
トキコがこちらを見ている。私は強く頷いてみせた。
「大丈夫。目標ができた」
「教えてくれる?」
「そのうち、話せると思う。いつか、ちゃんと話す」
楽しみにしているわ、とトキコが微笑む。
爽やかな風が私たちの間を吹き抜けていった。夏の気配がする日差しの中を、歩いていく。
父さんから聞いた護衛の件は、すぐに現実のものになった。
シンから、トキコの護衛を任せる旨の指示があった。しかし実際には今までと変わらない。剣術の指導が、アキ家ではなく、トキ家の青年に変わったことと、剣術の稽古の時間が正式に一日の中に組み込まれたことだ。
朝食の前と昼食の前に一時間ずつ、私は剣術の稽古を受けた。
木刀での素振りの後、指導役の青年と乱取りをするが、相手が強すぎるので大抵は打ちのめされる。こちらの攻撃が当たることも滅多にない。
昼食の前の稽古は、稽古をしている中庭の隅にトキコが陣取り、じっとこちらを見ていることが多い。
最初こそ、彼女は悲鳴をあげたり、指導役の青年に文句を言ったりしたけれど、最近は何も言わない。ただじっと、視線を注ぐだけだ。
「健康なのも考えものね」
トキ家の風呂場で、お湯をかぶる私の横でトキコが言った。私は黙々と汗を流す。
「あんなに厳しい稽古、私なら一日で逃げ出すわ」
「逃げ出そうとするそのトキコのためにやっているんだけど」
「分かっているけど、私はヨウコのためにそこまでできる気がしない。というか、やったら死んでいるわ」
まったく、物騒なことを言うなぁ。
「それにしても、凄い体」
トキコが私の体を見ているのがわかる。
すでに私の体には九つの封印術が刻まれている。それらは全身に及んでいる。封印術がない場所がないくらいだ。
「あまり見ないでよ、恥ずかしいから」
「芸術的とも思えるけど」
そんなこともないと思うけど。
体を拭って、私は服を着替えた。トキコとともに昼食を食べるため、食堂へ向かう。
「一族の中でも、あなたほど多くの封印術を受けた人はいない、って話題になっているの、知っているかしら?」
「寡聞な私にも聞こえてきているけどね、その噂」
「そんな存在が、私のそばにいる意味、わかってるの?」
私は雑に頷く。
「私をトキ家に巻き込みたい、っていうんでしょ? 巻き込むっていうか、取り込むっていうか。別に私はそれほど、気にしていない。っていうか、あなたの護衛としてここにいるわけで、その仕事がなくなれば、自由にするつもり」
「私に早く消えて欲しいってこと?」
「まさか。そうは言っていないでしょ? 思ってはいないわ。まぁ、でも、不死身の人間はいないのも事実」
トキコが首を振る。
「お互い、難儀なことね。こんなことなら、二人で揃ってどこかへ逃げようかしら」
「そうできたら、素敵かもね」
「お父様が悲しむけれど」
体を拭って、服を着ると、二人で揃って食堂に入り、同じ卓に座った。次女から護衛に格上げになったため、堂々と一緒に食事ができる。
「さっきの話だけど」トキコが言う。「トキ家は、私の代わりにあなたを利用しているのよ」
「トキコが受け継ぐべき封印術を、身代わりとして私が施されている、ってことね?」
「そういうことになるわね。今は護衛だけど、ゆくゆくはもっと深く、この家に取り込むと思う。さっきの冗談じゃないけど、私が死んでも、抜け出せないように」
私はこういう話がそれほど好きになれないでいた。
もし好きな人がいたら、冷血、あるいは冷酷だろうな。
「あまり死ぬ死ぬ言わないでよ、トキコ。そういうことを口にする人間ほど、長生きする気もするけど」
「長生きできるのなら良いのだけどね」
さらりとしたトキコの態度。まったく、不自由なようで、彼女は自由だな。
心が自由だ。そしてきっとそれは、人間にとってとても重要なんじゃないか。
それから数日後、私は夜をアキ家で過ごした。十番目の封印術が体に刻まれたのだ。今も、まだ痛みに耐えるのは難しい。激痛が去るまでが長く感じる。
今回は首筋だった。いよいよ服で隠せない場所になってきた。
「トキコ様はお元気かな?」
術印士が去ってから、父さんがやってきた。
「最近は前より体力がついているように、見受けられます」
「そうか。それは良かった」
そう言って、父さんが「来なさい」と背を向ける。私は寝台から降り、慌ててそれに従った。
途中で二本の木刀を手にした父さんが外に出る。夜空には星が無数に輝いてた。木刀の一本を私に投げ渡し、父さん自身も木刀を構えた。
「本気で来なさい」
私は少し、躊躇した。
父さんが剣術を身につけている、とは知らなかった。しかし構えは、明らかに稽古を積んだ人間の安定感を放っている
私は木刀を構え、間合いを計った。
しかしそんな暇はほとんどなかった。
気づいた時には父さんに踏み込まれていて、木刀の一撃が手首を打ち据えている。私の手から木刀がこぼれる。
思わず手首を押さえた私の首もとに、木刀の切っ先が差し込まれた。
「稽古が足りないな、ヨウコ」
「父さんが、これほどの使い手とは、知りませんでした」
「実戦の場では、誰も不用意に力量や手の内を見せることはない」
木刀が引かれた。私は自分の木刀を拾い上げる。手首がしびれ、握力が弱くなっているが、私はもう一度、木刀を構えた。
「もう一回、よろしくお願いします」
今度は集中を高めた。
それでも、父さんは容赦がなかった。初撃はどうにか避けた。続く一撃を木刀で払ったが、その次は処理できなかった。
鋭い打撃が、私の肩を打った。思わず、片膝をつくほどの打撃だった。
「満足したか?」
父さんがこちらを見ている。私が見上げたその目は、どこか冷え冷えとしていて、別人のようだ。
しかし、これが、本気の人間の目だ、と気づいた。
私のこの目になれるように、ならなければ。
それを父さんは、私に伝えようとしているのか。
私は立ち上がり、頭を下げた。
「ありがとうございました」
「うん」
柔らかい口調に顔を上げるとそこにはいつもの父さんがいた。
「稽古しなさい」
そう言って、父さんは家に戻っていった。
翌朝、いつもより早く起きて、私は薄暗い中をトキ家の屋敷に向かって走った。そしていつもの時間に朝の稽古をつけてもらった。
朝食の席で、いないはずの私がいてトキコは驚いたようだった。
「向こうで朝ごはんを食べなかったの?」
「今日はこっちで稽古をつけてもらったから。お風呂も使わせてもらった」
「それはそれは、熱心なこと」
トキコは微笑んでいる。
朝食の後、私たちはいつものように、家庭教師から勉強を見てもらい、そのうちに昼間の稽古になった。稽古が終わって汗を流し、お昼ご飯を済ませ、それから散歩へ出た。
今日は少しだけ風が強い。夏を前に丈が伸びた草が騒がしいくらいに揺れていた。
「その首筋のが、昨日、新しく刻んだものね?」
トキコがこちらの首筋を覗くようなそぶりをした。
「あまり見ないで」
「良いじゃないの。やっぱり美しいわ」
「そういうことも言わないで」
不服そうに唇を尖らせたトキコが、少し歩調を緩める。私は彼女を待つように立ち止まった。
「何?」
「あなたも耳敏いようだけど、自分がなんて言われているか、知っている?」
「何? あまり興味もないけど」
「封印の奇跡、よ」
封印の奇跡。
「いい加減な名称だね」私は思わず彼女に背を向けた。「奇跡なんて、とんでもない」
「そうかしら」
トキコの口調に違和感を感じ、私は背後を振り返った。
トキコは立ち止まって、こちらを見ていた。
その瞳に揺れる感情は、どこか切なげでもあった。
「私があなたなら良かった、そう思うことが、たまにあるの」
「それは……」
私はどう応じるべきか迷った。
そう思っていても、おかしくない。トキコは私には、不運に見えた。トキ家に生まれたのに、健康な体を持っていない。自分が受けるべき恩恵を、私が奪うように受けることになっている。
私を羨んでも、おかしくはない。
おかしくはないけれど、それは、トキコらしい発言ではなかった。
私たちは少し距離を置いて、お互いを見ていた。
「あなたになれたら、良いのに」
トキコが歩き出す。こちらへ、歩み寄ってくる。
私は考えることに没頭していた。トキコの気持ちも、自分の気持ちも、どうするべきかも、どう答えるべきかも、何もかもが不鮮明で、少しでも良いから、その曖昧さを払拭したかった。
だから、考えて考えて、気づくのが遅れた。
視界の外で、誰かが走る音がする。
気づいた時には、トキコはすでにそちらを見ていて私はその視線の先を見るような形になっていた。
顔を隠した男が駆けてくる。一人。手には、剣を抜いている。
トキコが悲鳴を上げようとする気配を感じながら、私も即座に腰の剣の柄に手を置いて彼女を守る位置へ走った。
襲撃者と認識するより先に、私の剣と相手の剣が触れる。甲高い音、火花、衝撃。
体がよろめく。
突き飛ばされた、と思ったけれど、実際には蹴り飛ばされていた。想定外の衝撃に体が地面を何度も転がる。
やっとトキコが悲鳴をあげた。私は地面に四つん這いになり彼女に向かって飛び出すように走り出した。
その視線の先で、襲撃者は小さく剣を引き寄せ、トキコに向かって突き出した。
湿った音。濁った音。
息を吸う音。
刺客が剣を引き、もう一度、振りかぶる。
そこへ私が割り込んだ。剣を何も考えずに振っていた。込められるだけの力を込めて、叩きつけうように。
襲撃者が身を引いて、私の剣を避ける。そして私と対峙すると、さっと背を向けて走り出す。後を追いたい衝動が湧いたが、実行するより先に背後で、トキコが咳をした。それだけで衝動は消えた。
咳、いや、何かが溢れるような、音。
剣を放り出し、振り返ると、トキコが横たわっていた。
「トキコ!」
無意識に名前を呼んでいた。
屈み込み彼女の傷の具合を確かめる。浅手ではないが、致命傷ではないと思いたい。服は赤く染まっている。口元にも血が見えた。またトキコが咳をして、少し血が散った。
服を割いて、傷口を確認。そこを押さえるように応急処置をして、彼女を抱え上げた。本当は誰か人を呼びたかった。しかし周囲に人はいない。人を呼びに行っている時に襲撃者が戻ってくるのでは、ということが頭を占めていた。
私はトキコを揺らさないように、可能な限り早く、街の中へ向かった。
外周に近い家の前でトキコを下ろし、私はその家のドアを問答無用に開けた。中にはあっけにとられている女性がいた。内職をしているようだった。
「手を貸してください! 早く!」
私は怒鳴っていた。
トキコは屋敷に運ばれ、即座に治療を受けた。屋敷には医者もいたし、医療品も充実しているので、迅速に処置は進められた。
しかし、私はその場には立ち会えなかった。屋敷に戻った私は拘束されて、牢屋へ押し込められていた。
私がトキコを襲った、あるいは手引きした、と思われているようだった。
釈明しようかと思ったけど、そうしなかったのは、シンのことを信じていることもあるし、余計なことを言って、さらに状況が絡まってしまえば、トキコと会えなくなるかもしれない、と思ったからだ。
結果、三日ほどで、私は牢から出されて、シンと顔を合わせることができた。
「すまないな、ヨウコ」
「とんでもありません。私の方こそ、お役目を果たせず、申し訳なく思います」
椅子に体を預けているシンは、どこか小さくなってしまったように見えた。
「トキコは、無事なのですか?」
「意識が戻らない。傷自体は重いわけではないし、毒を受けたわけでもない。ただ、彼女の体にとっては、重荷なんだろう。医者が必死に対処している」
どう答えていいか、わからなかった。
「顔を見ても、良いですか?」
無言でシンは頷き、何も言わないまま身振りで促してきた。頭を下げて、私は彼の部屋を出た。屋敷の中はどこか重苦しい雰囲気だった。
その空気を無視するように、私は足早に進んだ。
トキコの部屋の前にはやはり使用人が一人、立っている。私の方をジロリと見たが、何も言わなかった。私が護衛という立場だから、引き止められない、という意思が見え隠れした。
私はドアをノックし、中に入った。
寝台の横に医者と看護師がいる。何かの液体が腕に注射されているところだった。看護師がこちらを見る。しかしすぐに前に向き直った。
私はぐるりと回り込んで、寝台を挟んで医者たちの反対側に立った。
ベッドに、トキコが横になっている。真っ青な顔をして、瞼を閉じている。細く細く、呼吸しているのがわかった。
死んではいない、生きている。
私は膝をついて、彼女の手をそっと握った。
「薬を処方しましたが」医者が話し始めた。「元々、お体が強くない。あまり強い薬では毒になってしまう。今は、流れてしまった血がもう一度、体に戻るまで、慎重に経過を見るしかありません」
「はい、よろしく、お願いします」
私は部屋を出た。
護衛という名目なのに、私はその役目を果たせなかった。
悔しい、と思う。情けない、とも思う。
それをどうしたら、克服できるのか、想像もつかなかった。
昼前になり、私は自然と、中庭へ向かった。この日も、剣術を教えてくれる青年は待っていた。しかし無言である。責めるようではないが、しかし、穏やかでもない。
稽古が始まった。
苛烈な打撃の応酬があった。
激しい一撃を激しい一撃で振り払う。
お互いに、動きが雑だとわかっていたはずだ。でも私たちは、怒りをぶつけるように、木刀を振り続けた。
その日の夕方、父さんから使者が来て、アキの屋敷へ来るように伝えられた。
屋敷へ行くと、すぐに父さんの私室に通された。父さんは珍しく、使用人に人払いを命じた。普段はないことだ。
「何か、重要なお話ですか?」
質問しても、父さんはなかなか話し出そうとしなかった。黙って、腕を組み、目を伏せている。私はじっと話が始まるのを待った。
「お前には苦しい話だろうが、聞いてほしい」
低い声で、父さんが話し始めた。
「トキコ様は、おそらく、回復の見込みはない。回復したとしても、あのお体の弱さでは、トキ家を継承するのは不可能だ」
私はどう応じていいのか、わからない。黙って続きを待った。
「この件は、胸に秘めておいてほしいのだが、ヨウコ、お前をトキ家の人間にする策謀がある」
「私を、トキ家の人間に?」
理解できなかった。その噂は、トキコから聞いている。でも、父さんと、どういう関係が?
父さんは、私をどうするつもりなんだ?
「私は、アキ家の人間です」
反射的に、そう言っていた。父さんの渋面が、よりシワを深くする。
「しかしお前ほど、一族の理想を体現している存在はいないのだ。そのお前が、一族の筆頭であるトキ家の当主にいずれ、なる。それが一族にとって、大きな利である、ということだ」
それでは、トキコはどうなる? トキコの弟のレキは?
「それは、無理というものです、父さん。トキコ様も、レキ様もいるのです。無用の混乱を招くとしか思えません」
「だから、これはまだ公にはなっていないし、計画段階だ。ただ、そういう考えを持つ人がいるということを、お前には知っておいてもらいたかった。他の誰でもなく、お前が担ぎ出されるのだから」
父さんはそう言って、手振りで退室を促す。
私はじっと動かず、目を閉じ、それから父さんを強く睨みつけた。
「私は、トキコの友人です」
「うん、知っている。しかし、それは些末なことだ」
「私には、そうではありません」
父さんに一歩、にじり寄った。
「私を父さんがどうしようとしても、構わないと思っています。でも、トキコや、レキ様を傷つけないでください。どうにかして、トキコを、助けてください」
何かを計ろうとする視線で私を見ていた父さんは、すっと視線をそらすと、小さく頷く。
「手を尽くそう」
私は頷いて、礼を言うと、部屋を出た。
その日のうちにトキ家の屋敷に戻り、私はトキコの部屋に詰めていた。
翌朝、稽古をして、またトキコの部屋へ。昼間の稽古をして、昼食もそこそこで、トキコの部屋へ行く。
すると、朝とは違い、部屋への立ち入りを、使用人に禁じられた。
「何故ですか?」
「今、封印術を、術印士が刻んでおります」
驚いた。トキコの体が耐えられるとも思えなかった。
「シン様が、認めたのですか?」
「当然です」使用人が冷ややかな顔でこちらを見据える。「ササ・アキ様から封印式が提供されました。体を治す魔獣が封じられているそうです」
ササ・アキ……父さんが?
何かが、背筋を滑る錯覚。
私は頭を下げ、自分の部屋へ向かって歩きつつ、考えていた。
父さんが封印式を提供するのはおかしくない。でも、トキコがそれに耐えられる、と保証はされないのだ。シンからすれば、トキコの命がかかっているから、手を尽くす心理だろうけど。
もしかして、と思った。
もしかして、父さんは、トキコを殺すつもりなのか?
トキ家の人間は、トキコを襲撃した何者かを探っているが、今のところ、発見には至っていない。
父さんが私に話したこと、私を当主にしようという動き、それは一族の中で実は広く支持されているのか?
それなら、襲撃者が見つからないのも、頷けると言える。
トキコを殺したい人間が、トキコを殺そうとしたものを探しているのだ。
見つかるわけがない。
どうしたらいいのか、わからなかった。
父さんに話をして、私の考えをはっきりと伝えるべきだろうか。
でも、説き伏せる、納得させる自信はない。私の中にある考えは、ただ、トキコを押し立てる、という一点で、そこに理屈らしい理屈は存在しない。
ただトキコがトキ家の直系だから、という、それだけなのだ。
そして父さんたちは、そういう前提を覆そうとしている。
危険な状況だった。私も、父さんも。
シンに話すことはできない。誰にも話すことはできない。
密かに、収束させるしかない。
どうしたらいいのだろう。
答えは、見つからない。
(後編に続く)
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