第19話


 雨は嫌いだ。その日、1日鬱々とした気分になるし、外に出るのも億劫になる。お気に入りの服を着て出かけても、歩くたびに泥がはねて汚れてしまう。

 嫌なことばかり起こる、そんな雨の日が香織は嫌いだった。

 それでも香織は、大嫌いな雨の中を必死に走っていた。


「おい!!」


 大きな声に後ろを振り向くと、止めにきたのか晃が傘をさしながら、追いかけてきていた。止まったら間に合わなくかるかもしれないと、走るのをやめない香織の手を、いつのまにか追いついた晃につかまれてしまった。


「はなして、晃!! 間に合わなくなる」

「落ち着け、香織。まず向かうより、電話してみろ」


 晃にそう言われ、携帯という便利なものがあることを思い出し、ポケットから取り出した。ポツリポツリと降っていた雨は、晃の傘によって遮られていて、携帯の画面が濡れることはない。無料通話のSNSアプリを開き、珠緒に電話をかける。

 何度目かのコール音で、スピーカーから珠緒の声が聞こえてきた。


《もしもし、香織さん?》


 彼が出たことにホッと安堵の息をはく。間に合ったのか、そもそもあの男と香織の早とちりで、もともとその気がなかったのか。彼が、まだここにいるということに安心していた。


「急にごめんね。今日ってあいてるかな?」

《……………………どうして?》

「話したいことがあるの」

《……………………それは、どうしても今日じゃないとダメかな?》

「ごめん、忙しかったかな? 珠緒くんは、いまどこにいるの?」

《えっと、いまは––––《有明さん、面会許可おりましたよ》あっ、はい。ごめん、香織さんまたあとで》


「え、珠緒くん!?」


 プツリ、と音は途切れ通話終了の文字が画面にうつる。途中で切られてしまったことにショックをうけ、呆然と携帯をみつめる。


「…………珠緒となにかあったか?」


 晃に声をかけられ、ハッと我にかえる。最後に会った珠緒の表情を思い浮かべ、さきほどの明るい声を思い出した。あの声色ならば、大丈夫だろう。そう思うのに、なんだか不安になるのはなぜなのだろうか。いくら考えてもたどり着かない答えに、ぐるぐると悩まされる。

 最後に聞こえてきた言葉は、なんだっただろうか。


「……………………面会」

「え?」

「電話中に、面会許可がどうのって聞こえてきたんだよね」

「面会? まさか、おばさんのところに行って直接渡すつもりじゃないよな」


 晃の言葉を聞いた香織は、すぐさま走り出していた。車通りの多い道路へと出て、タクシーをつかまえようと手をあげる。

 ちょうど通りがかったタクシーが少し先で止まったので、追いついてきた晃とともに乗り込み、病院へと行き先を告げた。


「間に合うのか?」

「わかんない、わかんないけど。魔女じゃない私には空を飛ぶことなんてできないから、間に合うような方法をとるだけ」


 変わりゆく車窓を眺めながら、香織は間に合うことだけをただひたすらに祈った。




 病院の廊下を少し早歩きで進み、母親のいる病室の扉を開いた。


 風がするりと優しく頬を撫でる。病室の窓は、あいていない。それなのに、白いカーテンが、ゆらりと揺れている。

 ベッドの目の前に立つ人影が、こちらを振り向き、色素の薄い瞳が大きく見開いた。ゆらゆらと揺れる瞳は、戸惑っているようだった。

 室内に吹く、優しい風の発生源は、彼の手の方からだった。気持ちよさそうに眠る香織の母親のちょうど胸のあたりに、緑色に輝く光が目に入った。ソレがなんなのか香織には、わからなかった。けれど、ソレが母親の体に入ることを止めなければいけないとそう思った。


「珠緒くん!!」


 そう思った瞬間、体は勝手に動いていた。駆け出して、彼を止めるように腕へと抱きつく。彼の手からこぼれ落ちた光は、そのまま床に転がり、輝きはだんだんと収まっていく。


「…………香織さん、どうして」


 珠緒からこぼれ落ちた言葉に、ぷちりと香織のなかでなにかが切れる音がした。


––––パンッ


 肌をうつ、乾いた音が室内に響いた。


 じんじんと痛む右手をおさえながら、珠緒を睨む。何をされたのかわかっていない珠緒は、横を向きながら呆然としていた。彼の右頬が少しだけ赤くなってしまったのをみて、香織は悔しげに顔を歪ませる。


「他の方法、探すって言ったよね…………なんで、こんなことしてるの?」

「…………それ、は」

「信用、ないかな? 見つからないってそう思ってる?」

「ち、違う! でも…………はやく良くなったら、香織さんも喜んでくれるかなって」

「……ありがとう、私のためを思ってくれたのは、嬉しい。でもね、大切な人を助けるために、別の大切な人の時間を奪うなんてしたくない……ううん。そもそも誰かの時間をもらおうなんて、考えちゃいけなかったんだ」

「…………香織さん、僕は」


「でもね」


 珠緒が何かを伝えようとしたが、香織はそれを遮った。彼が何を伝えようとしているのか、なんとなく香織は察していた。それを、聞いてしまうと都合が悪くなる。だから、香織は意図的に遮ってしまった。彼に言葉の呪いをかけるために。


「いままで魔女の心臓に、助けられてきた人たちはたくさんいると思うの。これからもそういう人はでてくるだろうし。でもね、私はその人たちを悪いとは思わないし、軽蔑もしない。ただ、生きてって思う。もらった時間の価値に、見合うくらい素敵な時間を生きてって私は思うの」


 ただ、それだけ。


 それだけでも分け与えられた時間が重いと感じている人にとっては、香織の思いはあまりに残酷なものだろうか。

 珠緒はどう思っているのだろうか、俯いていて表情をみることはできない。香織は、床に転がったほのかに輝く緑色の光を拾い上げる。

 拾い上げたのは、宝石のように緑色に輝く小さな石だった。窓から差し込む光に向かってかざすと、太陽をあびた石がキラキラと煌き、少し薄暗い室内の壁にいくつもの光の点をつくりだす。


「…………星、みたい」


 まるで昼の星空のように綺麗で、もう少しだけみていたいと香織は思ったが、考えを払うように首を横に振り、珠緒に歩み寄る。


「こんなにも、綺麗な珠緒くんの時間。大切にしてほしい」


 トン、と彼の胸元に魔女の心臓を押しつけるとまるで溶けるように彼の体内へと飲み込まれていく。

 なくなったのを確かめるように、珠緒は自分の胸に手をあてた。


「…………うん」


 目元を柔らかく細め、珠緒は微笑む。その瞳からは、ほろほろと涙が溢れていた。



「それで………………香織はこれからどうするつもりなんだ」


 晃の存在を忘れていた香織は、慌てて晃へと視線を向ける。どうやら彼は、静かに入室して待っていてくれたらしい。彼も忘れられていることは、わかっていたのか抗議するように視線で訴えられるが、何も言わずに香織の返答を待っている。

 晃へ視線を向けたあと、香織はそのままベッドで眠る母親を見つめた。痩せ細った姿に涙が溢れそうになるが、ぐっと堪える。


「お母さんの病気についてもっと詳しく調べて、先生と相談しながらこれからも生きられる道を一緒に探していこうと思う」

「…………つらいぞ、耐えられるのか?」


「正直、いまもつらい。だけど、自分でそうするって決めたから。つらぬくよ」

「そうか」


 香織の回答に満足したのか、少し口角をあげて晃は相渕をうった。


「どうしても耐えられなくなったら、珠緒くんと晃に寄りかかってもいいかな?」

「俺の背中は高くつくぞ」

「香織さんなら、いつでも寄りかかって」


 2人らしい返事が少しおかしくて、香織は笑いながら「ありがとう」と伝えた。


 母親の寝ている傍でこれ以上、長話は迷惑になると香織の家に帰って、話の続きをするということになった。看護師さんに、母親の担当医と空いている日に話をしたいことを伝えてから帰るのを忘れないように、頭のなかで反芻しながら、珠緒の後ろをついていくように病室をあとにする。



「香織」


 あとにしようとして、晃に呼び止められた。


「晃?」


 振り向いて、彼からの言葉を待つが一向に口を開こうとしない。首を傾げつつも、話すことがないならと一歩を踏み出そうとした瞬間。


「…………ありがとう」


 小さな、小さな、声だった。もう1度振り向こうとした頭は、香織の横を通り過ぎた晃の手によって遮られた。

 載せられた手の感触がのこる頭をおさえ、お礼を言われた意味がわからず首を傾げる。


「おいてくぞ」


 いつも通りの晃の一言に、香織は慌てて晃と珠緒の背中を追った。




 あんなにも雨が降っていた空は、晴れ渡り、青空が広がる。その青空には、大きな1本の虹がかかっていた。

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