第17話
「かおりー、おきなさーい」
ぴちちちと小鳥のさえずり。まぶしい朝日。母親の起きたばかりのかすれた声。
ねむたい目をこすりながら、香織はベットから起き上がると、カーテンを開けている母親におはようと小さくつぶやいた。
「おはよう」
ニカリ、と笑いながら挨拶を返してくれる。そんな母親の笑顔で、あぁ朝だと感じて、やっと目がさめる。
なんだか、長い長い夢を見ていたような。そんな気がするけれど、香織は朝練のため中学へと向かう準備をしはじめる。そのうちに、なにを気にしていたのかすら忘れていた。
「香織? おーい、かおりさーん?」
「え!? あ、なに?」
はっと気がつくと目の前に少し幼い顔のイトコがいた。いつのまに学校が終わったのか、香織は、イトコの晃と家の近くの公園にいた。懐かしい。小学生の頃は、彼とここでよく遊んでいたのを思い出す。
けれど、中学の彼とも遊んでいただろうか?そんな疑問がうかび、香織は首を傾げる。
「どうした?」
心配そうにのぞき込んできた晃に、香織は数度瞬きをすると「なんでもない」と首を横に振った。
「毎度飽きもせずよく来るわね、あんたたち」
突如聞こえてきた声に振り向くと、そこには1人の女性が立っていた。黒く腰まで長い髪、紫色の瞳は少しつり上がっている。近くの高校の制服を着ているのをみると、どうやらこの美女は女子高生のようだ。
「しぐれさん!」
彼女をみるなり、晃は嬉しそうにかけていく。今まで見たことのないその晃の表情に驚いた香織は、この人は誰なのかわからずジッとその女性を見つめた。
「香織ちゃんもおいで」
手招く女性が自分の名前を知っていることに驚き、警戒する。体を少し後ろに引くのを見て、女性も晃も怪訝そうな顔をした。
「香織? どうしたんだ」
「香織ちゃん?」
「…………だれ、ですか?」
「え?」
「あなた、だれですか」
香織の言葉に2人とも目を開かせた。お互い顔を見合わせて、首を傾げる。
「だれって、しぐれさんだぞ。俺らの家庭教師をしてくれてる時合しぐれ……知ってるだろ?」
「……家庭、教師?」
家庭教師なんていただろうか。そう思った瞬間、ずきりと頭が痛みだした。
突然、頭をおさえてしゃがみこんだ香織に晃がすぐさま駆け寄ってくる。「大丈夫か?おい」と呼びかける声が聞こえるが、痛みはどんどん強くなっていく一方だ。
「香織ちゃん、大丈夫?」
女性も近づいてきて、細く白い指先で香織の額に触れた。
その刹那、脳を揺さぶられるような大きな痛みが香織を襲った。
香織の脳に、せき止めていた川のような映像が流れ込んでくる。中学に入ってこの公園で女性と出会い、数々のことを教えてもらった。社会の事情や、まるで家庭教師のように勉強も、そして魔女のことも教えてくれた。
そんな映像が流れてくる。誰かの手によって改変されたほんとうの中学3年間の記憶を香織は思い出した。
「…………しぐれ姉」
香織がそう呟いた瞬間、パリンと音をたてながら周りが砕け散った。白い世界に残ったのは、香織としぐれの2人だけだった。
「元気だったかしら、香織ちゃん」
こくりと頷く香織の瞳からは、たくさんの涙が流れていた。堪えきれなかった香織は、しぐれに思いっきり抱きついた。
「ごめんなさいね」
記憶を消してしまったこと、勝手にいなくなったこと。そのことを謝っているのだろうが、香織はなにも言えずにただ首を振ることしかできない。今、口を開いても嗚咽しか出てこないだろう。
「魔女のことを知らないで彼にあった方があなたのためだったのよ」
ごめんなさいと再び謝る彼女に、香織は弱々しい力で叩いた。まるで抗議するかのようなその行動に、しぐれはただ静かに香織を見つめている。
「なにも知らなければ、そのまま彼と一緒にいることを選んでくれる。そう思ったのに、わたしのことを思い出し始めちゃったんだもの……魔法のかけ方が甘かったのね」
困ったように笑う、しぐれだが、少し嬉しそうにみえるのは香織が自分を思い出してくれたことに対してだろうか。彼女の表情をみて、香織は思い出せてよかったと思った。
「香織ちゃん、あなたにお願いがあるの」
「…………なに?」
気持ちが落ち着いてきたのか、香織は声を出すとしぐれはジッと真剣な瞳で香織を見つめた。
「もう1度、彼を捕まえて欲しいの。そして、決してその手を離さないで欲しい」
「彼?」
さっきから言っている彼とは誰のことだろうか。イトコのことだろうかと彼の顔を思い浮かべる。
「私の大切な人の唯一無二の友人だから、そうなる人だから、お願い」
「ねぇ、彼って誰のこと?」
誰の話をしているのかわからず、しぐれに問う。けれど、香織の目の前にしぐれの姿はなくなっていた。
「…………しぐれ、さん?」
辺りをキョロキョロと見回す。白い空間がひろがっているだけで、なにも見当たらない。
「しぐれさん!」
叫んで、手を伸ばす。本当に目の前にいないか確かめるために。
そこで、香織は目をさました。
ボーッとする頭をおさえながら、起き上がる。
知らない部屋のベッドで寝ていたらしく、可愛らしい花柄の布団がかけられていた。
「あらあら、起きたのねぇ! あきらちゃん呼んでくるから、そのまま待っていてちょうだい」
誰かに声をかけられ、バタバタと足音が響く。女性のような口調だったはずだが、その声に少し違和感を覚え、首をかしげる。
何もすることがなく、香織は周りを見回した。たくさんの本と資料に囲まれていて、学校の応接室のような黒い皮のソファと透明なガラスのテーブルが部屋の真ん中にある。その奥に作業用の机が1つ置いてあり、パソコンと冷めきったコーヒーが置かれている。
ベッドから出て、本棚へと近づく。マーケティングや経営、心理などの本が多く並べられている。資料は、どうやら売上や発注などの帳簿類らしいものが並んでいた。
(もしかして……ここって)
この場所がどういったところなのか理解しようとしたその時、バタバタと走る音が複数聞こえてきた。
「香織!!」
扉を勢いよく開けて、よく知った顔……晃が息を切らして入ってきた。視線は、先ほど寝ていたベッドに向けられていたがいないことがわかると少し慌ててあたりを見回し、目が合う。
「起きてて大丈夫なのか!?」
「大丈夫だよ…………てか、なんで私寝てたの?」
「それは……」
言いづらいことなのか、口ごもった晃は視線を泳がせる。仕方がないと香織はため息をはくともう1つ質問をした。
「ここって、どこ?」
「……ここは、今日の目的地だった魔女に詳しい奴がいるとこ……というかそいつが経営してる喫茶店だ」
「喫茶店……そうなんだ」
どうやらここが、目的地だったらしい。事務所なのだと晃は言った。だから、経営の本や帳簿が置かれていたのかと納得した香織は、晃の後ろでキラキラと瞳を輝かせているガタイのいい男の人とこちらをジッと睨んでいる、ちょっと細身で神経質そうな男の人、紙とペンを持っている3つ編みの女の子がいるのに気がついた。
「……それで、晃。彼らは?」
彼ら? と疑問符を浮かべながら、後ろを振り向いた晃はしばらく固まったあと大きなため息をはいて頭を抱えた。彼らがそこにいたことを今、気づいたかのようなそんな様子に、香織はぱちりと瞬きをした。
自分たちが話題に上がったことにガタイのいい男の人は気づき、合わせた両手を左頬に持っていっては口を開いた。
「あきらちゃんが焦った様子で運んでくるから、どうかしたのか! って思ったけど、無事に戻ってきたようで安心したわぁ」
カチリ、と思考が停止した。脳内に潜む秒針が必死に動こうと震えているが、目の前のできごとに混乱して前へ進むことができない。
つくられた甲高い声、男らしい筋肉のついた身体、女性のような口調。
この声は、香織が起きた時、最初に聞いたものと同じだと気づいた。
あの違和感は彼女が男性だったからなのだと。
「あら、お嬢さんには刺激が強かったかしら?」
自分のようなものは苦手かと聞かれていることに気づき、香織は慌てて首を横に振った。
「いいえ! 少し驚いてしまって……でも、もう大丈夫です」
「そう…………なら、よかったわ。はじめまして、私はタツミ。喫茶店を営みながらちょっと変わった相談にのっている者よ」
「はじめまして、私は涼暮香織です。晃から魔女のことをよく知る人がいると聞いて、ここにきました」
「あきらちゃんから聞いているわ。彼のいう魔女に詳しい人とはきっと私のことね。こうみえて、私も魔女なの」
そういうとタツミさんは、パチリとひとつウィンクをしてみせた。そのウィンクをうけ、しばし瞬きを繰り返した香織はお店にも届きそうなほど大きな声で叫んだのだった。
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