第13話

 小鳥たちの囀りが聞こえ、香織は目を覚ました。静かな家の中から微かに食器の音が聞こえてくる。


(あ……そっか、一人じゃないんだっけ)


 昨日から叔母と晃が泊まりにきてくれていることを思い出し、ホッと安堵する。自分以外の誰かがいる家の中は、どこか暖かい気がした。


「おはようございます」


「香織ちゃん、おはよう。よく眠れたかしら?」


「はい、おかげさまで……」


 リビングに行くと叔母さんが赤色のエプロンを着てキッチンに立っていた。ほのかに香る味噌の匂いと魚の焼ける匂いがする。


「あの、晃は?」


「晃ならまだ寝てるわ。あのこ、朝は弱いのよ」


 ちらりと時計を見るとそろそろ起きなければゆっくり朝ごはんを食べる時間がなくなってしまうくらいの時刻で、香織はひとつ頷くと客間へ向かった。


「起こすと大変なことになるから––––あら? 香織ちゃん?」


 叔母の言葉は香織に届かず、香織は客間の中に入ってしまっていた。

 晃はよく寝ている。万歳をするように両腕を上げ、頭の下にあっただろう枕は押入れの前まで飛んでいた。ものすごい寝相の悪さに、つい笑いがこぼれそうになるのを抑えつつ晃の肩を揺する。


「晃。起きて、晃」


「んー……?」


 晃はゆっくりと目をあけた。眩しそうに目を細める。なんだあっさり起きるじゃないかそう思った香織は油断した。

 ぐいっと腕を引かれる。起きたばかりとは思えないほどの力の強さに驚き何も抵抗ができなかった。

 そのまま晃の上に倒れ込み、晃の顔が香織と近づく。


「………………にく」


「え?」


 ガリッと耳元で音が聞こえたと同時に肩に強烈な痛みが襲う。あまりの痛さに声も出せず、必死に晃を引き剥がした。

 首元を抑えて押入れの方へと後ずさる。柔らかい低反発枕が押入れと香織に挟まれて、ぐにゅっと潰れた。

 信じられないことに、晃はまだぐっすりと寝ている。

 首元を噛まれたという恥ずかしさとジクジクとした痛みに、顔を真っ赤にさせながらその瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「に、にくって言った!!」


 それが何より許せなくて、後ろに挟まれていた枕を引っこ抜き晃の頭めがけて投げる。

 ボスッと鈍い音ともに枕は彼の頭に見事命中し、跳ね返った。晃はもぞもぞと動くとゆっくり起き上がる。


「…………かおり?」


 涙目でこちらを睨む香織と目が合い、晃は首を傾げた。

 何が起こったのか聞かされた晃が、謝りながらも笑い。また枕を投げられることになるのは、目を覚ました数十分後のことである。



***



「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 ご飯を食べ終わり、準備が終わると香織と晃は家を出た。家の外まで見送ってくれる叔母に手を振りつつ歩く。


「なぁ、香織。珠緒は待たなくていいのか?」


「うん……いいの」


 珠緒は迎えには来なかった。どう顔を合わせたらいいか香織自身わからなかったため、少しだけ安心した。


「そういえば、今日の放課後にお母さんとこ行こうって思ってるから。帰り遅くなる」


「あ、じゃあ俺も行くよ」


「いいの? 部活は?」


「大丈夫」


 心配するなと背中を軽く叩かれる。正直ひとりでは心細かったため、晃も一緒にいてくれると思うと安心した。


「…………香織さん?」


 どきりと鼓動がなる。後ろをゆっくりと振り返るとそこには、珠緒が立っていた。


「おはよう、珠緒」


「おはよう晃くん。珍しいね、一緒に登校なんて」


「まぁなー。お前の家はこっちじゃないだろ、どうした?」


 ニヤニヤと意地悪げに晃は笑っている。珠緒がなんでここにいるのかその理由を知っているのに気づいていないフリをしているのだ。


「香織さんと一緒に学校に行こうと思ってたけど、先に行ったって家の人に聞いてね……追いかけてきたんだけど」


 珠緒と目が合い香織は鼓動をひとつ鳴らすと思いっきり顔をそらしてしまった。やってしまったと香織の顔が青く染まる。


「香織さん、僕も一緒に行っていいかな?」


 香織は小さく頷くとおそるおそる珠緒に視線を向けた。香織の態度になんとも思わないのだろうか。珠緒はいつもと変わらずニコニコと笑っていた。

 香織と珠緒の様子を怪訝そうにしながら晃は前を指差す。


「行くならさっさと歩くぞ」


 彼の言葉に二人は、止めていた足を前へと動かしはじめた。


***


 何故か晃まで黙り込むこの状況に、少し気まずさを感じながら香織は学校の門が見えてきて、ホッと胸をなでおろした。このまま何事もなく終わってほしい。教室で別れて、別々に授業をうけて、放課後になったら晃と二人で病院に行く。これ以上この三人でいることがないようにそう祈りながら雨が降りそうな暗い雲を眺めた。


 靴から上履きへ履き替える、ここで二人と別れらないかなんて思った香織だったが、二人は少し先で待っていた。


「待ってなくてもいいのに」


「いいだろ、別に減るもんでもないし」


「それは……そうだけど」


 ちらり、と珠緒に視線を向ける。彼はいつもどおりの表情で香織をみている。昨日のことを一切話題に出そうとしないのは、彼も気まずさを感じているのだろうか。

 珠緒の考えてることがわからなくなる。珠緒の秘密のひとつに触れる前は、こんなにも気まずくなるなんて思いもしていなかった。


「あ、そういえば、珠緒」


 晃はくるりと振り返る。呼ばれた珠緒と晃の視線が交わった。ニッと口角をあげると晃の唇から微かに尖った犬歯が覗いた。


「今日の放課後、恋人借りるから」


 肩を抱くように掴まれて、香織は変な声を出しながら間近にある晃の横顔を凝視した。


「香織と二人で行かなきゃいけねぇとこがあんだよ」


 晃から「なぁ?」と同意を求められるが、急に何を言い出すのかと香織は混乱している。


「……本当なの、香織さん」


「え、えっ…………ちょっと、晃!」


 晃を睨みながら、彼の耳元に唇をよせる。珠緒に聞こえないようにと小さな声で話しかけた。


「なんで、そんなこと珠緒くんに言うのよ!」


「恋人から許可取るのは当たり前だろ。二人でおばさんの見舞い行くって言ってたじゃん」


「え、許可とるものなの?」


「さぁ? 知り合いが言ってたのを聞いただけだし」


 果たして晃の知り合いの言葉を信じていいのか眉を寄せながら晃を見つめる香織に「今度紹介する」と晃はやっと香織をはなした。


「内緒話はもういいの?」


 含みのある言い方といつものように笑う声色と表情が合っていないちぐはぐな珠緒に香織は違和感を覚え、晃はにやけそうになる口元をおさえた。


「あ、あのね……珠緒くん! 晃とお母さんのお見舞いにいってくるだけだからって……晃はなんで笑ってるのよ!」


「すまん、つい……。珠緒、お前も一緒に来るか? 家族面談のみだから部屋なかには入れねぇけど」


「ちょ、何勝手に––––

「行く」

––––えっ、珠緒くん!?」


 即答する珠緒に驚き、香織の声が廊下中に響いた。周りにいた生徒の視線が集まるなか、晃はまたニヤニヤと笑いながら珠緒へと近づき、労うかのようにポンッと肩を叩いた。


「イイ顔してるぞ、お前」


「なにが?」


 不機嫌そうな声色。ギロリと晃を睨む珠緒の視線。その視線を楽しげに笑いながらも晃は、香織に振り返った。


「珠緒も一緒でいいよな、香織?」


 パチリと香織と珠緒の視線が合わさる。今度はそらさず、胸の前でギュッと右手で左手を掴んだ。


「…………うん」


 窓にポツポツと雫がつたう。雨がまた強く降り出した。



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