第10話
しん、と部屋の中が静まり返る。珠緒は、香織にふたたび近づくとギュッと硬く握られた香織の手を包むように触れた。
「どうしても知りたいって思うなら、ニセモノの恋人である僕にキスできたなら考えてあげるよ」
そう耳元で囁かれて、香織の中で細い糸が千切れるような音が響いた。
そこから香織の行動は早かった。珠緒の手を振りほどき、そのまま床へと全体重をかけて押し倒す。ガタンと大きな音を立てながら倒れた珠緒の表情は驚愕に満ちていた。
「……––––ばか。珠緒くんは、ばかだよ。大ばか者」
「な––––––––っ!?」
香織の顔が珠緒へと近づく。まさか本当にキスをされるとは思っていなかったのだろう、目を瞑ることを忘れて珠緒は近づいてくるピンク色の唇をじっと見つめた。
ちゅ、と音が鳴る。暖かい熱が触れた場所に珠緒はゆっくりと触れた。
色素の薄い前髪の一房を指先ですくう。そこに神経は通っていないはずなのに、香織の熱を感じてしまい珠緒の頬はだんだんとピンク色に染まっていく。
「まだ珠緒くんと付き合いはじめて、そんなに日にち経ってないけど、この関係がニセモノだとか思ったことなんてない!」
ぽたり、と雫が珠緒の頬に落ちた。優しく降りそそぐ雫は暖かく、珠緒の心へと染み込んでいく。
「ニセモノ、だなんて思ってないけど…………今の珠緒くんにはキスしたくないよ」
雨がやまない。この優しい雨は、誰かが拭わないかぎり降り続けてしまう。珠緒は、香織の頬に触れようと手を伸ばした。スローモーションのようにゆっくりと伸ばされる手は、温もりをしらないまま空を切る。
「…………今日は、帰るね」
珠緒の手が触れる直前、香織はそれを避けるかのように珠緒の上から退いてしまった。
避けられたわけではない、たまたまだと珠緒は思うのに触れられなかった手が寂しいと温もりを求めるように冷たく感じてしまう。
「気をつけて、帰って」
「……うん。また、明日ね」
靴を履いた香織が、寂しげに眉をハの字にしながら手を振る。何も言わずに珠緒は振り返した。何も言えなかった。突き放しておきながら引き止めるような言葉なんて伝えられるはずがなかった。
バタン、と扉が閉まる。離れていく足音を聞きながら珠緒はズルズルとその場に座り込んだ。
《……––––ばか。珠緒くんは、ばかだよ。大ばか者》
「うん……ばかだよ僕は言ってから気づくなんて………………ごめんね、香織さん」
しばらくぼーっと天井を眺めた珠緒は立ち上がると部屋へと歩き出す。カラーボックスの前にたどり着くと香織が立て直してくれた写真立てを手に取り、元の倒したままの状態に戻した。
***
バタン、と扉が閉まった音に香織は振り返った。静かに閉まりきった扉は珠緒と香織の心の間を隔てる壁のようで、すこし寂しさを覚える。
鞄からスマホを取り出し、エレベーターへと歩く。スマホケースについている小さな鏡から香織の顔が写った。
「…………ぶさいくな顔」
目と鼻を真っ赤にさせたこの顔をイトコの彼が見たらきっとそう言うに違いない。なにせ香織自身が今の顔をぶさいくだと思うのだから。
「泣いて帰るなんて、いつぶりだろう」
記憶にあるのは泣きながら帰った小学三年生のころ。公園で遊んで夢中になっていたら自分の足に突っかかって転んだ。砂のついた手、擦り傷と砂にまみれたヒザが痛くて大粒の涙を流した。
そんな時に現れたのは、一緒に遊んでた晃だった。笑われるなんて思ってた香織だったが、彼はめんどくさいというようにため息を吐きながら両手、両足の砂をはらってくれた。
《ほら、かえるぞ》
そう言って泣き続ける香織の手を取って家まで送り届けてくれていた。
「…………泣いた時に、必ず現れるのって晃だったっけ」
どこからか見てるのか、すぐに駆けつけてくれるイトコ。同い年なのに、兄のように慕っていたイトコ。少しだけ彼に頼りたくなってスマホを開いたけれど、珠緒の顔が思い浮かんでしまった。やっぱりやめようそう思った次の瞬間––––。
––––––––ぴぴぴ。
着信音が鳴り響いた。ディスプレイには"晃"の文字。
なんてタイミングがいいのだろう。声でバレないことを祈りながら通話をタップする。
「……もしもし」
《香織、お前いまどこに…………どうした?》
「え……あ、どこにいるかって? 珠緒くんの家から帰ってるところだけど、どうしたの?」
《…………………………はぁ。わかった、近くに何かあるか? 公園とか入れそうな建物とか》
「えーと、あ……コンビニならあるよ」
《そん中入ってろ、迎えにいく》
返事をする前に電話は途切れ、スマホの画面にはたくさんのアプリアイコンが映っていた。
「……バレたかも」
軽くため息をはいてコンビニへと向かう。さすがに泣いた顔で店内に入るのは恥ずかしかった香織は、外で待つことにした。彼がこの顔を見てなんと言うのか想像しながら。
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