第9話

 太陽がほとんど地平線に隠れ、空が紫色に染まるとき。香織は、珠緒の数歩後ろを歩いていた。トボトボと重い足取りで、顔を下に向けてはチラチラと前を歩く珠緒を見ている。


(呆れられた、かな……)


 なにも話さない香織に、珠緒は怒っているだろうか。それとも呆れただろうか。そんなことをぐるぐると考えていると晃の言葉を思い出した。


『珠緒は、魔女じゃない』


(……珠緒くんは、なんで嘘をついたんだろう)


 怒っているような、けれどどこか寂しげな珠緒の背中を香織がジッと見つめたそのとき、ずっと背を向けていた珠緒が振り返った。


「香織さん、僕の家に寄っていかない?渡したいものがあるんだ」


「……怒って、ないの?」


「え? あー……怒ってないって言ったら嘘になるけど、誰にも言いたくないことってあると思うし、しかたないのかなって」


「……珠緒くんにもあるの? 言いたくないこと」


 香織の質問に、珠緒はただニコリと笑みを返した。否定も肯定もしない彼に、香織はそれ以上追求することもできず、小さな声で「お邪魔します」と珠緒の家に行くという意思だけ伝えた。



***



「どうぞ、入って」


 そう言って珠緒は、家への扉を押した。珠緒はセキュリティがしっかりした十四階建てのマンションに住んでいた。カードで開くタイプの扉は、オートロック式らしく扉にはドアチェーンのみつけられていて内鍵が見当たらなかった。


「……お邪魔します」


 家の中へと入るときちんと掃除しているのか床には埃ひとつ無く。壁紙は白く、陽の光が入るととても眩しい。物もきちんと片付けられていた。


(…………ちがう、物がなさすぎるんだ)


 机に教科書、洋服でもしまっているのかカラーボックスが申し訳なさ程度にあるだけだ。生活に必要な最低限の物しか置いていない。それは、まるで––––……。


「……か……ん、かおりさん!」


「……––––はい!?」


 突然声をかけられて、我にかえる。香織はつい大きな声を出してしまい、珠緒に心配そうな顔で覗き込まれた。


「呼んでも全然反応なかったけど、どうかした?」


「ううん、なんでもない。お……男の子の家にくるの初めてだって思い出したら、緊張しちゃって……」


「そうなんだ……晃くんの家には行ったことないの? イトコでしょ」


「……そういえば、ないなぁ。晃の家はちょっと遠かったし、近くの公園で遊んでた……晃と私の三人で」


「三人?」


「そう、三人…………ってあれ? 晃となら二人よね……あと一人って」


 思い出そうとした香織は、急に頭を抱えてしゃがみこんだ。眉間を思いっきり寄せて堪えるように目を瞑っている。


「香織さん! どうしたの!?」


「ぁ……あたま、いた……くて」


 ズキズキと激しい痛みが香織を襲う。心配して駆け寄ってきてくれた珠緒に大丈夫だと笑ってみせようとしたが、微かに口角をあげることができるだけで、うまく笑うことはできない。


《…………かおちゃん……をよろしくね》


 まるでカナリアが歌っているような、そんな美しい女性の声が香織の頭に響いた。聞き覚えがあるのに、誰の声かわからない。


「香織さん! 泣くほど痛いの? 病院に…………」


 珠緒の言葉に初めて自分が涙を流していることに香織は気がついた。頬に手を伸ばして、涙をぬぐう。


「ごめん……しんぱい、かけて……おさまったから大丈夫」


 乱れた呼吸を整えながら、香織は珠緒の手を握った。珠緒の手は冷たく、微かに震えていた。香織の熱が珠緒の手に移り、だんだんと暖かくなっていくのがわかる。

 珠緒はゆっくりと香織を立ち上がらせるとさりげなく片方の手で香織の腰を支えて、ソファーへと座らせた。


「……飲み物持ってくるから、休んでて」


「うん、ありがとう」


 珠緒は名残惜しそうにしながらも手を離すとキッチンの奥に消えていった。カチャカチャと食器の音が聴こえるなか、先ほどの声について考えるけれど香織は何も思い出すことができない。


(なにかのアニメとか漫画のセリフでも思い出したのかな)


 香織は深く考えることをやめた。いくら考えても答えが出ないことに時間をかけたくなかった。


(今は…………珠緒くんのことが知りたい)


 どうして、魔女だなんて嘘をついたのか。

 なんで、香織に心臓をあげるなんて言ってくれたのか。


 香織の珠緒に対しての疑問があふれて止まらない。

 キョロキョロと辺りを見回すとカラーボックスの上で写真立てが倒れているのに気がついた。きっとなにかの拍子で倒れたのだろうと香織は立ち上がり、写真立てに手を伸ばした。


「…………この女性は?」


 そこには美しい女性が写っていた。珠緒と同じ色素の薄い髪に眩しいくらいの白い肌。頬をピンク色に染めて笑う女性は幸せそうだ。


「…………僕のお母さん」


 後ろを振り返るとグラスを二つ持った珠緒が立っていた。

 珠緒は床に膝をつくとテーブルの上にグラスを置いた。グラスの中に入っていた氷がカランと綺麗な音を奏でる。


「綺麗でしょ、うちのお母さん」


「うん。若くて綺麗で優しそうなお母さんだね」


「ちょっと厳しいとこもあったけど、優しくて大好きだった。まぁ、若くはなかったけどね」


「え、いくつなの?」


「百十七歳」


「えぇえええ!?」


 思わず大きな声を出してしまった香織は、自分の母の顔を思い浮かべながら珠緒の母の写真を眺める。


「うちのお母さんより若くみえるのに……」


「魔女は百歳からが本番なんだって言ってた」


「珠緒くんのお母さん、魔女なの!?」


 珠緒くんも魔女で、珠緒くんのお母さんも魔女。魔女探しは難しそうだと思っていた香織だったけれど、案外近くにいるのだと驚く。


(あ、珠緒くんは、魔女じゃないんだっけ)


「いまもお母さんはこんな感じ?」


 香織の質問に珠緒はにっこりと笑顔を作ってみせた。それから何も語らず静かに立ち上がると珠緒はカラーボックスの一番下の段を開けた。

 重なった洋服の一番下に隠れるようにしてあった長細い箱を掴むと珠緒は香織に向けてその箱を開いた。


 箱の中には、チェーンのついた指輪が入っていた。一粒の真珠が真ん中で輝いている。


「これ、香織さんに渡したかったんだ」


「えっ!? こんな高価そうなものもらえないよ」


 両手を振りながら断る香織に、近づくと珠緒はネックレスを香織の首にまわした。抱きしめられているような体勢に香織の心臓が痛いくらい鼓動をうっている。


「もらってよ」


 珠緒が香織の耳元で囁く。彼の吐息が耳にかかり、香織は恥ずかしさに目を閉じた。


「母さんの形見」


「え……––––っ!?」


 囁かれた言葉に驚いたと同時、珠緒は香織のもとから離れた。彼の表情を見た香織は吐き出そうとした言葉をのみこむ。


 そこにあったのは"無"だった。


 笑顔ばかりだった珠緒の表情はそぎ落とされたかのように無表情だった。


 ドクリ、と心臓が鳴る。さっきまでの甘い感情ではない嫌な感情に共鳴して鳴る心臓の音は、気持ちの悪いものだった。


「ねぇ、珠緒くん。珠緒くんは––––」

「香織さん」


 言おうとした言葉を遮るように珠緒は香織の名前を呼んだ。


「心臓をあげる条件、覚えてる?」


「二週間恋人になること?」


「違うよ、何も聞かずに二週間だけ恋人になること。だからね……」


 内緒だというように口元に人差し指を当てて、笑顔をつくった。


「僕たちは期間限定の恋人。ニセモノの恋人、時が来たら"さよなら"なんだよ香織さん」


 珠緒の言葉が香織の心に重く突き刺さった。



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