第128話

三十四.[深淵よりの帰還]


 来たときと同じだった。気付けばいつの間にか、仄白い光の世界が暗い闇の世界に変転していた。空間が相転位したかの如く。


 アオイはふり返り、アヅハナウラに抱かれたサラの顔をのぞき込んだ。この様子を怖がっていないか心配して。しかし利口な子だった。初め暗闇に怯えた顔を見せたが、母の言葉を思い出しのだろう。キュッと口を結ぶとアヅハナウラの着物に顔をうずめた。小さな手で大伯父の胴服の衿握りしめた。


 眼前に切りたった崖。カタジニが戯けて言った。

「これを登るのか。当たり前だが。下ってきたのだから。だが、これを登れば太股が肉離れを起こしそうだな」

「行きはよいよい帰りは……、ですね」アオイが言うと。

「んぬ?」

 細い目を丸くしたカタジニ。なるほど、こっちにはあの童謡無いのかと理解したアオイ。


 誰も彼も口が重い。今しがたのマナハナウラとの別れを思い。カタジニが戯けても合わせて答えたのはアオイだけ。誰一人ニコリともしない。アオイもそのこと敏感に感じ取り、自然口をつぐんだ。


 冥界の最深部。言葉なく佇む五人。


 が、ほどなく、周囲の様子がおかしいことに全員気付いた。

 黒い塊。咆哮。周囲を渦巻いている。しかも数を増し集まってくる。まるで彼らを狙っているかの如く。


「サラと、ユウ……」アオイは気付いた。

 二人には摩利支天の加護が与えられていない。悪霊から丸見えなのだ。と言って、この二人にマリコラギ隠形法を唱えさせることなど不可能。


「まずい……」


 顔を見合わせた一行。互いに目で言葉交わし、渦巻くどす黒い魂魄にらみ据え、その動向を伺った。


「うむ」イオワニが言った。「サラとユウは、内にマアシナを宿すゆえ、悪霊が憑依することなど不可能」静かに言った。冷静な口調で。だが、その姿が見えているならば……。


 それを抱(いだ)く者が襲われるは必至。


「カタ」イオワニが言うやいなや。「おう」と応じたカタジニ。


 イオワニがリリナネの腕からユウを、カタジニがアヅハナウラの腕からサラを奪い取り、脱兎の如く駆け出した。


「あ。待て」

「待って」

 追いすがる仲間達。けれど止まらず、ふり返ることもせず、急斜面を駆け上るイオワニとカタジニ。

 二人を襲う咆吼。闇の塊。数えきれぬほど、体の中に入り込む。何度も、繰り返し、襲う。闇が体を襲う度、仰け反る二人。カミナリに撃たれたように。苦しげに声をもらす。けれど足を止めない。


「待って下さい。イオワニさん。カタジニさん」アオイは必死に追い駆け言った。二人の意図は明白だった。昨夜聞かされた。『もしも何事かあったときには、真っ先に俺達が犠牲となる』

「短絡的すぎます。何か方法があるはずです。俺に試させて下さい」


「そんな暇があるか」ふり返らずイオワニが言った。顔は見えなかったが、いつものニヒルな笑顔が浮かんだ。「俺達がゆけるところまで行く。俺達が倒れたら後を頼むぞ」


「待って!」追いすがりながらリリナネ。「太陽神魂呪を」息を切らし。「お願い。唱えさせて」

「この奈落を抜け出すまで、一体何度唱えればこやつらを追い払えるのだ」呵々と笑ったカタジニ。「シュスは三度唱えたという。そのシュスでさえあの苦しみようだったのだ。お前まであの苦しみを味わう必要はない」語尾が優しい声に変わった。

 その間も絶え間なく二人を襲う闇の塊。アオイのリリナネの目前で、二人の背中に吸い込まれてゆくおびただしい数のどす黒い影。うねる恐ろしい咆吼。


「太陽神魂よ。我は御身の子なり。御身の光を身に宿す者なり」口早に唱えはじめたリリナネ。

「よせ」イオワニが言ったが。

 リリナネは聞かなかった。手をかざした。「この文言聞き届け、御身の光をこの身に開き、我が掌(てのひら)に御身の光を走らせたまえ」


 しかし何事も起きない。

「そんなっ。どうして……!」


「責めるな」アヅハナウラが吼えた。「自分を責めるな。リリナネ。何事も起こらぬなら、それもまた定め」


 唇を噛み再び唱えたリリナネ。「太陽神魂よ。我は御身の子なり。御身の光を身に宿す者なり、この文言聞き届け、御身の光をこの身に開き、我が掌に御身の光を走らせたまえ」

 しかしやはり何も起きない。何度繰り返しても。最後は涙声になった。


「ここは闇の領域、その最深部。ノアの力が届きにくいのだ。仕方がないこと。自分を責めるな

 駆けながらリリナネを慰めるアヅ。カタジニとイオワニも口々に、同様に。


 何か手はないのか、アオイは歯ぎしりした。この深淵は途轍もなく深い。登り切るまで二人の精神は持たないだろう。強い霊が現れればすぐにでも。石を砕き憑依する。


 そこで交代して御子を受け取っても、そんなリレーでこの深淵を抜け出すことなど到底不可能。

 イオワニもカタジニも他に手がないとは言え短絡的すぎる。二人だけでなく、このままでは、俺達全員がこの崖の途中で無駄死にする––。


 移動呪が使えれば––。元素術が使えないことは百も承知。それでもそう思わずにはいられなかった。


 元素術使うには月の力を必要とする。ケイの魔力開くため、月の助けを。だが、本当にそれだけなのか。他の何かが触媒とはなり得ないのか。それは一切有り得ないのか。


 マアシナ! お願いだ。助けてくれ––。

 マアシナはラアテアを映す月。今はサラの中で種の形となり眠りについている。けれど。

 もしまだ朧にでも意識あるならば、一度で良い。奇蹟を起こしてくれ。「お願いだ。マアシナ。俺に翼をくれ」


 前を走るカタジニの肩越しに、サラが顔を覗かせた。目が合った。その目は、二歳児のものではなかった。アオイは奇蹟を確信した。上方をにらみ据えた。自分にそれができないのは、百も承知。他者を手をかざして移動させること。けれど今は確信していた。できると。手をかざす必要もないと。


 唱えた。「フル」


 次の瞬間、足が宙を踏んだ。

「くっ」地についた。蹴った。駆け上る。深淵の縁が目前まで来ていた。全員、一緒に飛んだ。


「なっ、アオイか!?」驚き声をあげたアヅハナウラ。

「はい」

 一体どうやって! 駆けながらも、ふり返り、目を見開いた仲間達。アオイは答えなかった。そんな余裕はなかった。


「助かった!」

「抜けるぞっ」いの一番に深淵を脱出したカタジニ。次いでイオワニ。しかし闇の魂魄もまた、無数に追いすがってきている。


 アヅハナウラ、リリナネに続いて、アオイも深淵を抜け出した。前方を走るカタジニとイオワニの背中が見えた。無数の闇の咆吼を引き連れ、駆けていた。まるでスローモーションのように見えた。巨大な闇の塊が、背後の深淵から飛び出してきて、アオイの頭上を飛び越えて、一直線に、カタジニの躰を襲った。

 キン、小さいが鋭い破裂音聞こえた。

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