第125話
三十一.[星の
イオワニは言った。
「マンザイはそのくらいにしとけ」
その時には皆の耳にも届いていた。地の底から響いてくる、風の音に似た咆吼。風の音に似ているが以て異なるモノ。総身が総毛立つ、何かの音、唸り。行く手下方から。静かに、地を轟かせている。
霧の中進みアヅハナウラに並び立ち、眼前に広がる光景を目にした四人。リリナネは息をのみ、アオイは思わず「ここは?」問いかけ、すぐに誰も答える言葉を持たないことに気附いた。イオワニは眉間皺をより一層深く寄せ、カタジニは腕組みして唸った。
そこにあったのは谷だった。まるで海溝のような。
足もとから先、急勾配の斜面がどこまでも、文字通り奈落の底まで続き、底知れぬ深淵が横たわっていた。霧がどす黒い闇に変貌し、その先は宇宙の暗黒面が口を開いている。これまでも険しい地形だったが、それが生温く感じられるほどの傾斜。現実世界に比して言うならば、これまでが緩やかな大陸棚であり、ここに口を開いているのは深海へと続く海溝だった。
その奥深くから異様な音が聞こえていた。風の咆吼に似た音。恐ろしい音だが恐怖とは質が違う。
おぞましいモノ。触れたくない類のモノ。人が、否、生者が忌み嫌うモノ。潜在意識の底の嫌悪感であり、克服不可の嫌悪感、耐え難い、禍々しいモノ。
案内のフィオラパは、真っ直ぐ前方の霧の中に浮かんでいて、彼らと目が合うと、意味ありげに下を指差した。降りろ、という事らしい。一同を愉快げに見やり、姿を消した。
「ここを降りるのか……」腕組みしてカタジニ。剛胆なこの男にしては珍しく顔面蒼白だった。しかし誰もからかわない。誰もが同じ思い。
そこに鳴っているのは怨念の咆吼を思わせる。亡者達の恨みや怨念、憎しみ、妄執、亡者のみならず生者も含め、この世のあらゆる負のエネルギーがこの底に吹きだまり渦巻き、吼えている、そう感じられた。
この底には悪霊怨霊ばかりでなく、五萬の悪魔が潜んでいる。誰もが確信的にそう感じた。
「ここを降りるのか……」同じセリフを繰り返したカタジニ。しかし多少顔色が戻っていた。「だが」と続けた。「我らにはアオイセナがいる。天津国から遣わされた男が。如何にする? アオイセナ。策を授けよ」腕組みしてもっともらしくアオイにふった。
「天津国ってどこですか?」面食らったアオイ。
「貴様に分からねば俺に分かるはずがない」
カタジニの言ってることは支離滅裂だと思ったが、アオイには策があった。全員に向き直り言った。
「では、今から俺がするとおりの印形を九つ結び、それに合わせて九つの言葉を唱えてください。そのあと、マリコラギの印形と呪文を教えますから、マリコラギ隠形法を唱えてください。この術にはケイが必要ありません。今から俺が説明するとおり唱えるだけでマリコラギの加護が与えられます」
全員、目をみはった。冗談のつもりだったカタジニは勿論。リリナネも。ニヒルなイオワニも冷静なアヅハナウラも。
「どうして……」リリナネが絶句気味に言った。「君はどうしてマリコラギ隠形法を知っているの?」
「今は説明している時間がありません。俺を信じてください。きっと成功します」成功折り紙付きであることは、リリスで実証済みである。「これを唱えれば悪魔や悪霊は俺たちの姿が見えなくなります。きっとこの谷の底に降りても無事に抜けられます」
「うむ。信じよう」アヅハナウラが言った。「俺も信じる」イオワニも頷いた。
食い入るようにアオイを見つめていたリリナネ、うつむき、目尻をぬぐい、小さく呟いた。「アオイ君……、君はやっぱり……」そこまで言って次の言葉を飲み込んだ。君は、星の天原から私達を導くために遣わされた……。
「大丈夫ですか?」
「うん。何でもないわ。ごめんなさい」顔をあげたリリナネ、口を結んだ。この冥界入りの成功を確信して。
カタジニも。
「分かっていたぞ。ゆえに貴様に助言を求めたのだ」尊大に言った。「さあ。その術を教えろ」
「はい」アオイは苦笑したが、カタジニのこんな物言いは好きだった。この恐ろしい冥界の底にあって、恐怖を忘れさせてくれる。「では、まずこの印形を結んで」独鈷(とつこ)印を結んで見せて、皆が真似するのを確認して「『臨』と唱えます」と教えた。
「リン?」
「そうです。『臨』です。続けてこの印」大金剛輪(だいこんごうりん)印を結んで見せ「『兵』と唱えます」
頷く銘々。「ビョウね」リリナネが確認するように言った。
「はい。九つあって難しい印形ばかりですが憶えてください」
皆、無言で頷いた。
アオイは早九字ではなく、複雑な方の九字を伝授した。その方が確実に効果あると思ったから。全ての印形を教え終わると。
「今の印形を次々結印し、結印するごとに一文字ずつ唱えます。やってみせます。『臨・兵・闘・者・皆・陳・列・在・前』」
「リン、ビョウ、トウ、ジャ、カイ……ジン……」眉をしかめたカタジニ。
アオイは意味も教えた方が良いと思った。この人々が漢字の音訓を使い分けている以上。「リンは臨むの意味です。ビョウは
こうして九字を全て教え、全員がよどみなくそれを唱え、加えて印形も正しく結印できるようになると、摩利支天の印を教え、隠形呪を教えた。「この印を結んでオンアニチマリシエイソワカと唱えます。これで、悪魔や悪霊は術者が見えなくなります」
「うむ。心得た」とカタジニ。
「俺もだ。憶えたぞ」とイオワニ。
リリナネ、アヅハナウラも無言で頷いた。
「じゃあ、いきます。一文字唱える度、円を描くように腕を回して結印してください。良いですか」
全員が頷くのを確認してアオイは目で合図した。その合図に合わせて、全員、合わせて同じ印形を結び、声を揃え唱えた。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」間髪入れず摩利支天印を結び。「オン・アニチマリシエイ・ソワカ」
唱え終わると、皆顔を見合わせうなずきあった。『進もう』と。ただ一人、カタジニだけが、糸のような目を見開き「むむ?」と唸った。心外とばかり。
「消えてないじゃないか」
「え?」予想もつかない非難を食らったアオイ。キョトンとなった。
「俺には貴様らが全員見える上、俺自身も消えているようには見えぬ」
「お前は悪魔か悪霊の類か?」含み笑いをしてイオワニ。「体が透明になるわけじゃない。悪魔や悪霊から姿を隠すだけだ。もしも俺が消えて見えないなら、貴様は悪魔か悪霊ということになる」
「ふん。それくらい知っておったわ。怯えているお前達を和ませようとワザと冗談を言ったのだ」カタジニは言ったが、本気か誤魔化しか、誰にも判断できなかった。
アオイは説明を添えた。
「マリコラギの加護で姿は隠されてますが、声は聞こえるかも知れません。なるべく小声で話しましょう」
「うむ。そうだな」全員頷き。
アヅハナウラが先頭に立った。
「では、くだろう」深淵へ向かい、谷底へ向かい、急斜面に足を踏み出した。文字通りの、奈落の底へ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます