第126話
三十二.[奈落]
まるで海溝の如き深い谷。底なしの深淵。暗がりに渦巻く咆吼、無数に奔る闇の塊。分厚い雲のように谷を覆うその光景を切り裂き奥深くに入り込めば、ここに在るはずのない者の姿。芥子粒の如く小さく、斜面に。
生きてある人間、五名。急勾配を駆け下っていく。斜面に杖を突き立て、滑落するかの勢いで、泥を蹴散らし。
『くっ……』アオイは、もう何度目になるか分からないおぞましい感触に耐えた。躰の中を抜けていった。みんなも耐えている、そう思い歯を食いしばった。
既にかなり降(くだ)った。谷の中腹である。霧は墨を垂らしたように黒ずみ、今や漆黒の闇の只中であり咆吼の只中である。おぞましい気配が、闇の塊が、周囲に渦巻いている。何度もすぐ側を通り過ぎる。時に躰の中を抜ける。総身に悪寒が走り悲鳴が漏れそうになる。必死に耐えた。
『ゆけ、ゆけ』
『駆けろ』
小声で声をかけ合い、互いの無事を確認しながら降る。
『アオイ、大丈夫か』
『はい。無事です』
『遅れるなよ。カタは何処だ』
『アオイの真横だ』
『気をつけて。大きなのが来る』
霊力あるため勘が働くのか、リリナネが誰よりも速く察知する。『伏せて』
身を伏せると、恐ろしい咆吼が、巨大な闇の塊が、小さな咆吼を蹴散らし呑み込みながら、側を通ってゆく。どれほど降っても終わりのない斜面。
渦巻いている咆吼の正体は分からない。躰の中を抜ける度、意識が消し飛ばされ根こそぎ持っていかれそうになる。抜けると我に返る。が、何度もくりかえすと、咆吼に襲われなくても暗鬱が心の真に座る。萎えそうになる己を叱咤して足を飛ばしていた。
これは亡者なのか。亡者が悪霊になる過程なのか。分からない。躰に入る度垣間見える、烈火の如き悲憤、瞋恚、怨念、妄執、深い恐怖、苦痛、絶望、心に傷を刻んでゆく。かまわぬよう努めても、絶望や哀しみに同調してしまう。周波数が合ってしまう。咆吼が躰から抜けた後も暗鬱が胸中に澱む。ふり払えない。しかもいくらも進まないうちに再び襲われる。文字通り、奈落の底への行路。
『くそっ』
歯を食いしばり駆け下りながら、アオイは次のこと予感していた。
聖なる山って、山じゃないかも知れない––。
順当に考えれば、この谷を谷底まで降り、次に登り、その先にあると考えるのが普通。だが。
もう一つ次元を越えるのかも知れない。守宮猿は教えてくれた。この冥界がいくつもの階層から成り立っていること。きっと、聖なる山もその階層の一つ。その入り口がこの谷の底にあるのかも––。
ダンテの神曲でも、地獄の最下層から煉獄に抜ける。地獄の最下層が次の階層への入り口、あり得る話だった。
『くっ……』
またしても躰の中を抜けていった闇の咆吼。おぞましい感触。堪えた。
『無事か』
『大丈夫です』
真っ暗闇の中で、互いの安否を小声で確認し合いながら、滑落する如き勢いで斜面を駆け下る五人。
『頑張って。アオイ』
『はい』
『アオイばかりを気遣いおって。俺にも言え』
『はい。カタ、大丈夫?』
『ううむ、もう手遅れかも知れぬ』
『はいはい』
『こんな時に冗談はやめてください』
『貴様ら、マンザイ好きにもほどがある』
いつしか。気付いた。咆吼が消え去り、どす黒い霧が失せ去り、仄かな、乳白色の光の中にいることに。もう、普通に話しても大丈夫なことは皆分かった。しかし、わけが分からない、が正鵠を得ている。予想外の光景広がっていた。
「何だ? ここは」
「木々にしか見えぬが」
触れてみてアヅハナウラが言った。
「いや。これは岩だ。木の形の岩だ」
乳白色の光の中に、石の木々が林立している。花の形の岩もあった。綺麗な孔雀色の岩が、大きな花が咲いているように刻まれて、仄白い光の中、霧に濡れている。
「彫刻……、彫った物なのか?」そんな馬鹿なと首を捻った一同。
「いったい誰が?」冥界の底に石の森をつくる? 不可思議な光景。
しかしすぐに分かった。いや、想像がついた。答えなかったが。気付かぬうちに再び現れていた案内のフィオラパ。それも一体ではなかった。周りを見廻すとフィオラパが沢山いた。アオイ達の歩みに合わせて。歩いている。
これはフィオラパ達が、マナハナウラを慰めるために、現世(うつしよ)に似せて刻んだ石の森、花。皆そう思った。
「そうか、なるほど……」もっともらしく頷いてカタジニが言った。
「もうすぐだな……」感慨深い口調でイオワニ。
「この先にマナハナウラ様がいるのね」眸を輝かせたリリナネ。
自分達が到着したことを知った。ホッと安堵した様子の一同をよそに、アヅハナウラは面を曇らせた。複雑な表情。喜びを憂いが蹂躙しているかのよう。
アオイもまた、唇噛み締めた。連れ帰れない、その事に心痛め。
そして他の面々も安堵したは一瞬、キリリと口を結んだ。ここで、重責を受け取り、人間の住む世界まで無事に連れ帰らなければならない。いわばここからが本番。己の命と引き替えにしても受け取った重責を人間界に届けなければならない。
視界が開けた。そこは森の中の小さな広場だった。埋め尽くすようにフィオラパがいた。その真ん中、フィオラパ達にかしずかれ、美しい女性が赤ちゃんを抱いて座っていた。側に二歳くらいの女の子も座っている。やって来た人間を見て、不思議そうに母親の顔を見上げた。
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