第113話
十七.[剣士アオイセナ]
そこが現実世界から見てどこに当たるのか、どの次元の階層に当たるのか、到底説明し得ない。頭上仄暗く光源無く、青黒い。不可思議な光彩を放つ雲、というよりも霧のような煙のようなもの、気流もないのに渦巻いてあり、流れ、所々カーテンのドレープのように地上まで垂れ下がっている。
地上、その霧の中。一寸先も見えない。仄暗い。周囲に仲間達の影が見える。アオイは呆然と立ち尽くしていた。激しいショック状態だった。
「みんな、無事か?」アヅハナウラの声に。
「ああ。大丈夫だ」
答える仲間達の声。
ここは切り立った岩山の中腹のようだ。全景は分からない。かろうじて足もとが見える。岩だらけの斜面に立っている。アオイの背後にヴェセプタの光。
ここが冥界? マジで冥界に来たのか? 話がぶっとびすぎ……。
人影が彼の側に近付いた。リリナネだった。顔をのぞき込まれた。
「アオイ、大丈夫?」
「あ、ああ……大丈夫……」驚愕がずっと続いている、雷に撃たれ灰のようになった心、かろうじて答えたアオイ。答えながら思うことは。
この人は? 何人? ナネは先住民の姓だと言っていた。けれど多分、先住民の血筋じゃない。この人は西洋人、きっと西方に住む人々と日系のハーフ。だけどヨーロッパ系とは限らない。オスマントルコとか。いや、もっと古い民族かも。古代マケドニアとか? まさかもっと……? いや、でもビドリオは現代スペイン語だ。西方にはスペイン系の人々が……?
「おいおい、どうした? ほんとに大丈夫か?」
冗談めかしてカタジニが言った。が、本当に心配している声音だった。他の仲間達の表情も霧の中で見えない。けれど皆不安な顔をしているに違いない。
「ほんとに大丈夫です」引きつった笑顔を作った。けれど相手にも見えないはず。
アヅが言った。冷静だった。本当の処など分かるはずないが、概ね正解だった。
「光をくぐる途中で、精神に変調をきたしたのかも知れぬ。少し休んでから行くか? 休めば心も落ち着くだろう」
優しい言葉だったがアオイは首をふった。自分の背後にある光。シュスが自身の命と引きかえに開いた扉。
「俺なら心配要り……。それより時間が……。一時も無駄にできません」
「でも、とても大丈夫そうに見えないよ」心配そうな声のリリナネ。
その時。
「おい。見ろ」
イオワニが指差した。その先に、ぼうっと光るフィオラパの姿。霧の奥へ消えた。
「きっと道案内をしてくれるんだ。ニシヌタの婆さんが言ってた通りだ」
ニシヌタ老婆は言っていた。冥界にて行く先を憂うな。徴(しるし)があるはず。と。
「うむ」アヅハナウラは頷いた。アオイに言った。「行くぞ。良いか?」
「はい」アオイは答えた。
「よし。急ごう。見失うな」
アヅが言って全員霧の中を進んだ。足もともおぼつかない霧の中を。アオイは一番最後をついていった。
「ほんとに大丈夫?」先を行くリリナネが時々ふり返って心配そうに訊く。
その度にアオイは答える。
「ええ。大丈夫です」
くそ。冷静になれ。何故今なんだっ!
衝撃からなんとか立ち直った彼は、記憶が戻ったことをむしろ恨んだ。このタイミングで、冥界で記憶が戻ったことを。
そして相反する自分が、当然の如くこう思った。どうしてわけの分からないうちに冥界なんて処にいるんだ。こんな処で死ぬのはいやだ。
気弱な醜い心。それは、当然のこと。けれど。
死にたくない。
そして。
死なせたくない。仲間を。リリナネを。仲間達を誰一人として。
今までの彼は現実から乖離していた。この冥界入りをまるで絵空事のように捉えていた。自己の命も物語の登場人物の一人程度に。自我が統合された今。強烈に沸き上がった生への執着。そして仲間達への愛情。大儀よりも優先されるモノ、仲間全員の生還。
みんなと一緒にクムラギへ帰る。一人も死なせたくない。記憶が戻り何もかも元に戻ったわけじゃない。剣技まで失われてはいないはず。
腰のキトラの束を握りしめた。手に馴染んだ感触。駆けながら抜いて、そして軽くふってみた。この世に一本の感触。剣に鼓舞された。
大丈夫だ。俺はこいつの使い手。ここで使うのはキトラじゃなくて聖杖だけど。剣技は失われていない。俺は、剣士アオイセナ。俺はリリナネを、御子を護れる。
キトラを鞘に収めた。
心が決まれば混乱から覚めた。混乱から覚めた彼は、あの人のことを思い出した。
そうか……、キスケさん。あの人は江戸時代の人だ……。もしも手紙が残っていたとしても、俺には読めなかったな……。
江戸時代の人が書いた文字を、自分が読めるはずがない。けれどより一層冷静になれた。自分一人ではないことに気附いて。
俺だけじゃない。時々混ざってるんだ。何かの理由と必然性があって。ヴェセプタは調和の女神。二つの世界の調和を保つために、必要な人間をこっちに送り込んでいる––。
仲間のあとを追って駆けながら、考えた。
落ち着け。冷静になれ。よく考えろ。俺は理由があって此処にいる。
タパの言葉が脳裏に蘇った。
『貴殿が、今この時に、此処に現れ宝珠を与えられることは、まごうことなく定めの導き––』
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