第98話 冥界篇

第四章  冥界入り


一.[苦し紛れの一手]



「俺が留守の間にどれほど上達したか確かめてやる。かかって来い、アオイ。手合わせしてやる」

 昨夜遅くまで酒宴がもよおされ、そこで浴びるほど酒を飲みへべれけになっていた姿が嘘のようなイオワニ。

 場所はイオワニの道場。その中央でアオイとイオワニ。むろん、今のセリフはイオワニ。口に余裕の笑みを浮かべ、アオイを見据え。言い終わると、いつもの癖で眉間皺を指で押さえ背を向けた。


「はい」アオイは素直に答えた。しかし。「大丈夫ですか?」相手を気遣った。


「何がだ?」ふり返り、右の眉尻をあげて問い返したイオワニ。


「いえ……まだ、酔われているのではないかと……」

「ふん」イオワニは鼻で笑った。「冥界へ行く前に教えといてやる。二日酔いは、朝酒を飲むとなおる」

「そうですか。わかりました」


 周囲には黒山の人だかり。この道場の少年達に加え、いつも見物に来る近所のおじさんや女の子達。今日はいつもの倍以上の人が集まっていた。皆、なにやらニヤニヤしている。

「何だ、気色悪いな……」イオワニは不快げに呟いた。「こいつ等は何を笑っているんだ」


 オニマルがニヤニヤしながら答えた。

「さあ。分かりませぬ」


 ニヤニヤしながら木剣を二本持ってアオイの元へ駆けてきたユタに、イオワニが鋭く言った。


「言っておくが、両手持ちは無しだ」誰から聞いたか知らないがイオワニは知っていた。


 途端に沸き起こった不平不満の声。集まった人々がブウブウ言った。「それでも師匠か」とか「何本持ったって勝手じゃないか」とか「心の狭い奴だ」「人格矮小」「玉が小さいのか」とか色々。


「うるせえ」イオワニは一括した。「だいたいお前等の持ってるその券は何だ⁇ ツキツキの賭け札みたいな奴は」


 皆、手に青色の券を持っていた。バッと一斉に隠した。しかしユタが無邪気な顔で教えた。

「あれは表で売っているのです。ツキツキの興行主のシシイナタ(シシ・イナタ/獅子・稲田)様が胴元になって」

 きのうの酒宴で、酔ったイオワニが繰り返し公言したせいで、今日の勝負はすでに広く人々の知る処であった。そこにかぶりついてきた腹黒い興行家。


 イオワニは目を剥いて憤った。「賭にするとは何事だっ」しかし賭よりも腹立たしいのは。イオワニも常識だから知っている。ツキツキの試合の賭け札は挑戦者が青色の札、王者が赤色の札。そこから推測してほぼ全員が持っている札の色を見れば、皆がどっちに賭けているのか。明白だった。


 青色の札を後ろ手に隠してオニマルは師匠をなだめた。

「師匠殿。誰がどっちに賭けていようとも、実力のある者が勝つのです。それほど怒ることではありますまい」

「貴様はどっちに賭けたんだ? 札の色を見せてみろ」


 オニマルは目をそらした。「私は……」鮮やかな手つきで、後ろ手に持った札を袖口に隠匿した。次いでごく自然に腕組みをして、隠匿物を懐へ移した。「賭け事などしません」


 アオイの木剣に粉をかけて呪文を唱え、ラナイナライがそっとその場をあとにした。道場の少年もイオワニの木剣に呪文をかけて小走りに群衆の中へ戻った。ラナイ、少年、双方の手に青色の札がチラリと見えた。


 イオワニの右眉が高くつり上がり、ただでさえ深い眉間皺がより深く刻まれた。不愉快至極とばかりに口の端をあげて、アオイをにらみ据え、抑えた口調で冷ややかに言った。

「クムラギ一の剣士と呼ばれいい気になっているようだが、誰がクムラギ一か、はっきり教えてやる。ここにいるアホどもに」


 アオイは真面目な顔して頭を下げたが、集まった人皆ニヤッと笑った。それを目にしてさらに不機嫌になったイオワニ。


 一方のアオイは冷静に考えていた。イオワニは酔っている。しかも今の件で怒っている。平常心ではない—。

 勝機はある、と思われた。処が。

 二人がそれぞれのかまえで対峙し、道場は水を打ったように静まり返った。そのまま二人微動だにせず時間のみが経過し……。アオイがしかけた次の瞬間。


 人々の目には何が起こったのかはっきり分からなかった。ただ、アオイがくるりと躰を廻して、そして木剣をはじき飛ばされたことだけ。


 イオワニは打ち込まれたアオイの木剣に、自己の剣をあてることすらなく、呪文の反発効果だけで受け流した。太刀筋崩れぎみに身が泳いだアオイ。しかしそこは回転殺法の真骨頂。もともと剣術とは体重移動の流れが違う。泳いだといってもほんのわずか。勢いもそのまま、さらに一回転して木剣叩き込んだ。


 対するイオワニはアオイが微かに体制崩したその瞬間に一太刀浴びせることが出来た。それをしなかったのは、ここにいる全ての人々に彼我の力の違いを見せつけるため。

 打ち込まれた木剣に、今度は真っ向から木剣を合わせた。アオイの手から木剣がはじき飛ばされ、道場の天井近くまで舞い上がった。それが床に落ちてカランと音を立てた。時には、イオワニはアオイの背後に廻りこみ背を撫で斬っていた。


 女の子達が「きゃあ」と黄色い悲鳴をあげ、おじさん達が「ああ」と嘆息をつき、青色の札が一斉に宙を舞った。


「ふん。百年早い」ふり返ることもせず鼻で笑ったイオワニ。

「ありがとうございました」アオイは頭を下げ、礼を言った。見事にやられた。背後に廻りこまれ背を斬られた。これだけ鮮やかにやられると無念もクソもない。


 はじき飛ばされた木剣を拾い上げ、さがろうとしたアオイに、イオワニは言った。

「まだだ。アオイ。三本勝負だ」

「え」足を止めたアオイ。


 イオワニは勝たせるつもりだった。こんな騒動さえなければ。冥界へ入る前に、自信をつけさせるために。けれども。

 わざと手を抜いて勝たせてやれば、それを見抜けぬ奴ではない—。

 故に真っ向勝負で、勝たせる。そして、すでにそれくらいの腕をつけていると感じていた。三本に一本は勝てるだろう、と。ヘタをすれば二本取られるかも知れないと。


 アオイは中央に戻った。一礼して再びイオワニと向き合った。


 慌てたのはおじさん達。泡を食って捨てた札を拾い始めた。「俺の札はどこだ」。場内騒然となり混乱が起こった。札には賭けた分の数字が「三口」とか「五口」とか書かれている。「ズルするなよ。自分のを拾え」皆、言い合っていたが。皆、一口でも多い札を捜して拾いまわった。


「うるさいっ‼︎ 静まりやがれ‼︎」

 イオワニに一括されてようやく静かになった。おじさん達は渋々と捜すのをあきらめた。あきらめがつかない顔附きで。女の子達も。ユタとリュウ、そしてラナイら少年剣士達も。


 幸いオニマルは懐に入れたままだった。しかも自己の物は懐中に持ちながら、床に落ちていたのを一枚拾って、それも、さも自分の物のような顔して手に握りこんだ。廉潔な志持つ清廉潔白な若者だが、道徳心の塊というわけではない。茶目っ気はある。彼にとってこれは験担ぎ。冥界入りする友人への餞別、はなむけ。太く賭けたが換金するつもりはなかった。あくまで験担ぎ。しかし拾った分は換金しても良いかも、と思っていた。


 一方、女の子達にしてみれば、人気の剣士を応援して併せてお金儲けも出来る好機。何しろ通常時のツキツキの賭け札は購入に年齢制限がある。処がこれは正規の興行ではないから年齢関係ない。堂々とお小遣い稼ぎ出来るかつてない好機。「アオイさま、頑張ってください」黄色い声援を飛ばしながら、心の中では『いい格好しいのキモイおっさんはやられちゃえばいいのに』と、一心に呪いの念を飛ばしていた。


 ユタ等少年達にしてみても、ためていたお駄賃を全部賭けて惜しくない勝負。もしもアオイが勝てば、しばらくはバルでの駄菓子賃に困ることもない。「アオイさま、頑張ってください」と声援を送りながら、しかし師匠の強いことは充分知っている。『師匠、転べばいいのに。転べ転べ転べ』と念を送っていた。


 研ぎ師のココオリベと革職人のヒワマナカも見物に来ていた。互いに「どうした。若いの。仕事はいいのか?」「おっさんこそ。最近は注文がないのか」とけん制しあっていた。ざっくばらん強突張りオヤジと、野次馬根性太め快活磊落あんちゃんは仲が悪かった。


 声援を背にうけて、しかしアオイは気にしないよう努めた。ひしと身に感じる。が、寄せられた思いを背に向き合えば、それだけで腕が縮こまる。彼の相手は、それら人々ではない。ただ一人。目の前にいる男、イオワニのみ。しかし。


 一度目の勝負でも感じたが、いったい何処をどうすれば、昨夜のあの酔っぱらいがこうなるのか。一分の隙もない。朝酒云々とは冗談ではなく本当に当然の如く飲んだのだろうが、この立ち姿の何処に酔いがあるのか。アオイは踏み込めず、やはり時間のみ経過した。

 飲んだ量を考えれば、今、目の前にいるのは人間ではなく、酒の滴の集合体が皮を被った物—。それは言い過ぎにしても。人の体のほとんどは水分。その水分が一夜にして全て酒にすり替わった生き物、それはあながち言い過ぎではない気がする。

 相手がどれほどの剣豪であっても、このかまえにどれほど隙がなくとも、この相手は一撃必殺、おそらく頭にあるのはそれのみ。長丁場は戦えない。俺は、違う—。

 作戦は決まっていた。オニマルを相手に何千回と繰り返してきた同じ手を使う。


 ふわりと横へ動くアオイ。イオワニは剣先を向けたまま躰を廻してついて来た。アオイはさらに素早く動き、惑わし、次いで一気に間合いをつめ足技を使い踏み込んだ。右へ小さく踏み込み、逆の左へ一瞬踏み込み、イオワニが反応した寸隙ぬって右側方へ躰を廻して飛び込み木剣を一閃させた。一瞬だった。


 撫で斬ったアオイの木剣、応じたイオワニの木剣、呪文の反発効果で双方の手を離れ大きく宙に舞った。


 イオワニは剣をはじき飛ばされ少なからず驚いた。俺が、と。

 それは、互いの太刀筋がどれほど鋭かったかを如実に物語っている。少年達であれば剣がぐにゃりと反発しあってあらぬ方向へ流れ、体が泳ぐ。処がこの二人は、互いの木剣をはじき飛ばしてしまった。


 見守っていた人々は、一斉に息をついた。ふぅ、とか、はぁ、とか。息をつめて見守っていて息ができなかったらしい。皆一斉に息をつき、そしてもの問いたげにオニマルの方を見た。オニマルは気配を感じてふり返り、律儀に答えた。


「今のは、双方痛み分け、つまり、引き分けとなります」


 ほう、そうか……、おじさん達は腕組みをして唸った。女の子達も、もう全然キャーキャー言っていなかった。ドキドキして勝負を見ていた。


 少年が拾って持って来た木剣を受け取りながら、イオワニは心中独りごちた。予想以上––。顔には決して出さないが、弟子の成長ぶりに満足していた。今のは一瞬観念した。一本取られたと。

 やるじゃねえか—。


 だが。あくまで勝負は真剣。手は抜かない。

 こいつには結局の処、今の手しかない。手を変え品を変え攻め込んできても、結局の処、全て同じ手。惑わし。目眩まし。


 イオワニは道場中央で正眼にかまえた。対するアオイはいつものかまえ。

 正眼にかまえ見据えると、腰を落としたそのかまえは、かなり低く感じる。そして剣は体後ろに隠れ、見えない。正直な処、これでくるくる廻られたらかなりやっかい。はじめて対峙した日とはまるで別人。威圧感を感じているのは、俺の方。イオワニは笑いたい気分だった。弟子を褒めてやりたい。よくもまあ、これだけの剣士になったものだ、と。何より姿勢が美しい。自然にそこに在る。その姿勢から、雷光の如く発する剣。かっこういいじゃねえか—、ニヤッとしかけたその瞬間。アオイが仕掛けてきた。


 最前と同じ手、左に踏み込むと見せかけて右に飛び込んできた。舐めたか—、馬鹿正直な男。目線の先を見れば思惑がバレバレだった。イオワニは木剣叩き込んだ。が。空を斬った。そこにアオイはいなかった。


 こいつ、苦し紛れに移動呪を使ったか、ズルっ—‼︎


 瞬間、イオワニは思ったがそれは思い違いだった。アオイはそこにいた。特殊な方法、彼らには見たこともない方法で素早く足をたたんで身をかがめ。つまり左足の膝裏に右足の甲を挟んで瞬間その場に転び、イオワニの剣を頭上やり過ごすや、引っかけた足に力込め勢いよく立ち上がった。その間、まさに刹那。


 剣ふり抜いたイオワニの前に再び現れたアオイ。度肝抜かれたイオワニの胴をはらって後方へ抜けた。


 どっと湧いた道場。おじさん達がわいわい喚きおらび、女の子達がキャーキャー言った。

「何だ今のは⁉︎ どうやったんだ」あんぐりと口を開けたココオリベ。

 研ぎ師でさえ驚いたくらいだからユタ等少年剣士達はむろん、年長のオニマルも驚いていた。目を瞠った。「今のは何だ⁇」


 負けたイオワニも、何がどうなってそうなったのかまるで分かっていなかった。「はあ?」胴を斬られたその瞬間の姿勢そのままに、棒立ちして目を剥いていた。


 しかしアオイ本人は皆の反応を奇異に感じていた。彼の中では、今の足技は随分古いモノという認識だった。まさか通用するとは思っていなかった。苦し紛れの一手だった。

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