第99話
二.[三都政治堂合議による正式な要請]
その後、道場の表通りで一騒動あった。換金につめ寄せた人々にツキツキの興行主シシイナタは頑として言い張り、ゆずらなかった。
「双方、一勝一敗一分け。つまり、勝負はついていない。よってこの賭は無効です」
「なんだとっ! するってえとどういうことだ⁇」息巻いたおじさん達。
「換金はお断り申し上げます」慇懃無礼にシシイナタ。
「そんな馬鹿な話があるかあ」
当然の如くおじさん達は激高した。
「だったら賭けた金を戻せえ」
「そうよそうよ、当然でしょ」後ろで女の子達も口をそろえて言った。
するとシシイナタ、呆れ顔をつくってみせ、
「これは正規の興行ではないですからね……」あくまで、皆さんのお楽しみのために自分が胴元になってやったんだ、自腹覚悟で、と言わんばかりの態度だった。
「なんでしたら道場へ戻り、もう一勝負やってもらったらいかがですか? 勝敗はっきりつけば賭け金はお支払いしましょう」
シシイナタは四十そこそこながら海千山千。興行の世界で一代でのしあがった男。狡猾で手練れだった。
おじさん達は泡を食って道場へ駆け込んだが、すでにイオワニは母屋へ戻り朝風呂の最中。アオイセナはお廟の少年達と一緒に廟堂へ帰ったという。がっくりと肩を落としたおじさん達。と、女の子達。
最前より幾分落胆気味に再びつめ寄せた人々に、シシイナタは最前よりさらに慇懃無礼な口調で冷ややかに言った。
「でしたら、その券を大切に持っていてください。いつか再び勝負あり勝敗はっきりついた時、勝ち札を換金させていただきます」
おじさん達はバルでやけ酒飲むためにその場をあとにし、女の子達はプリプリ怒りながらその場をあとにした。口々に腹黒イナタの悪口を言いながら。
* * *
お廟へ帰ったアオイを待っていたのは、リケミチモリ。廟堂の客間で待っていた。アヅハナウラも同席していた。リケミチモリはいつものように愛想良い笑顔でアオイを迎えたが、アヅハナウラは難しい顔で会釈しただけで、無言だった。目を伏せて腕組みをして。
リケミチモリは笑顔で言った。
「本来ならば、タパ様とシュス様にも同席して頂きたかったのですが、今はお二人とも呪文材料の調合で手が空かず……」
ヴェセプタ召還呪をシュスのケイ「ハハキリ(羽々斬)」に宿す調合が始まっていた。廟堂の離れに炉を備えた調合室があり、二人ともそこにこもりきりである。
「そこで一番の適任は私であろうと思い、僭越ながら、私よりお話しさせて頂きます」
いつもより丁寧な言葉づかいに、大事な話であることがアオイにも分かった。おそらく、冥界入りの話。そしてその通りだった。
「政治堂の正式な決定をお伝えします。此度、冥界入りする人選に、アオイセナ殿が正式に選ばれましたことを、お伝えします」
「ありがとうございます」
アオイは頭を下げた。感謝したが、あくまで予備の人選に選ばれたということ。今の処、冥界入り五名は病気も怪我もしていない。この分では自分の出番はなさそうだと彼は思っていた。
その顔を見て、「やはり……」と小さく呟き、リケミチモリはアヅハナウラと顔を見合わせた。アヅハナウラは目を伏せた。曇らせた顔に、リケ殿の口からお伝えください、とあった。
アオイもさすがに訝しく感じた。
リケミチモリは言った。優しく。記憶ない若者でも分かりやすく伝わるように。
「予備の人選ですが、アオイ殿は必ず冥界へ入らなければなりません」
「え?」
当然、驚き、問い返したアオイ。「何故ですか?」
リケミチモリは続けた。複雑な表情で。複雑な表情だったが、その眸にあるのは哀しみの色だった。それもずっと以前から覚悟していたこと、そんな哀しみの色。
「アオイ殿は聞いたことはないですか? 原理神召喚呪はとても危険な術で、普通の人間が唱えれば命を落とすことになると」
「ええ。聞いたことありますけれど……。え⁉︎ じゃあ、まさか!」一瞬にして舞い降りた洞察。相手が言わんとしていることが分かった。
「呪文を唱えれば……」
「そんな‼︎ だって、シュス様は大魔導師じゃないですか⁉︎」それは普通じゃないことにならないのか—。
リケは目を伏せ、首を振った。
「いくら大魔導師と言えども、シュス様は普通の人間。ここで言う普通でない人間とは、例えば此度冥界より連れ帰るマアシナの御子のように半神半人(ツプア)の人のことなど」
「そんな……。じゃあ、ヴェセプタを召喚すればシュス様は……」
アオイは呆然となった。言葉が途切れた。
リケは頷き、続けた。
「悪龍イロキノは数え切れない人命と引き替えに闇の原理神を召喚しましたが、その人々は生け贄であったと同時に、奴が自身の命を守るための盾だったのです。結果、奴はその人々が苦しみもがく蛇の姿となった、一説にそう言われています」
アオイはうつむき、刮目して床の節目をにらんだ。悪龍のことは耳に入っていなかった。涙が滲みそうに感じていたが、眼球が干涸らびたように乾いていた。
「しかし」リケは続けた。
アオイはその言葉に、ひょっとしたら希望があるのか、そう思った。そしてその通りだったが、それは文字通り希望的観測に過ぎなかった。しかし彼らが、この地方の人々が、どれほどその推測に期待を寄せているか、充分過ぎるほどリケの口調から感じ取れた。
「奇蹟が起こるかも知れません。シュス殿はノアの魔導師。万人には到底成し得ない、想像を絶する修業をつまれた方。常に、身の裡に迸るノアの光と闘い、自身を厳しく律し、己を強く保ってきた方。そのような人ならば、奇蹟も起こるかも知れません」
「じゃあ」
「そうです」リケは深く頷いた。「命を落とさずにすむかも知れません」
しかし次いで出てきたのは意外な言葉だった。
「しかしその場合でも、アオイ殿に冥界へ入って頂かなければなりません」
「え?」
リケは、これもまた、記憶のないアオイに分かるように易しく説明してくれた。
「冥界では元素魔法は使えない。そして最も恐ろしい悪魔の攻撃は憑依である。これはご存じですね?」
「はい」
「悪魔に対抗するには、憑依を防ぐ石。それもご存じですね。その石を身につけていれば、悪魔に憑依されることはない」
「はい」
「他にも一つ。我らには切り札があります。それが、シュス様のケイ「ハハキリ」に宿されている「太陽神魂呪」です。これがあれば、どんな悪魔に襲われても却けることが出来ます」
「太陽神ごん呪……?」
「ええ。ノアの光を身の裡に開き、手から放ち、闇を祓う術です。二十年前、悪龍誕生のおり、シュス様はこの術を唱え、必然的にノアに帰依することとなり、ノアの光宿す魔導師となりました」
「そうなのですか……」
「もしもシュス様が命を落とされれば、「ハハキリ」はリリナネ様に渡され、この役はリリナネ様に託されます。しかしシュス様ご健在ならば、リリナネ様は冥界に入る必要がなくなります。ですから、その場合も、アオイ殿。貴殿に入って頂かなければなりません」
話の内容は全て分かった。俺は冥界へ入る。シュス存命でも、なくとも。武者震い、身を襲った。
リケミチモリは姿勢を正した。そして改まった口調で、厳かに、要請を伝えた。
「アオイセナ殿。クムラギ、ラエモミ、プアロア、東部自由都市連合を統べる三都政治堂全ての合議による正式な依頼です。貴殿に冥界に入って頂きたく、そして冥界より、聖女マナハナウラの御子を人間界に連れ帰って頂きたく、ここに三都を代表し、ねもころにお願い申し上げます」
リケミチモリは深々と頭を下げた。
アオイも、応じて頭を下げた。深く。唇噛み締め。重責を身に沁みて感じて。
「慎んで。努めます」
声が震えた。その自分を恥じた。シュスの覚悟を思えば。そして、予想される運命を朧に知りながら、口に出さず、今日まで見守り続けてきた人々の気持ちを思えば。
努めますではとても足りない—。
リケミチモリの隣でずっと黙っていたアヅハナウラが、はじめて口を開いた。重い口調ながら、これを伝えるのは自分の役目と。
「シュスロー様が、当時起こっていた神隠し事件の真相をつかむためここクムラギを訪れ、この廟堂へ来られたのは私が十三歳の時だった。お手伝いをさせてもらい、そして、悪魔の力を借りて恐ろしいことを成さんとする者のあることをつきとめ、私も願い出て、その征伐へ同行させてもらった」
アヅは言葉を切り、遠くを見やった。それは彼にしてみても、遙か昔の出来事のようだった。
「彼方の凍原の地下に、巨大な、迷宮めいた石造りの地下道があり、人々を捉えていた牢獄が延々と続き、その最奥の広大な地下宮に奴はいた。誕生したばかりだった……。醜く巨大な蛇の姿で。神火の焔呪で広間の水路に溶岩を満たし。暗闇の中に、とぐろを巻いてうずくまり……。闇の中に渦巻いていた熱気と怨念……。あの時の光景は、一生忘れられぬ……」
アオイは言葉なく聞いていた。アヅは静かに続けた。
「あっという間に、共にいた三十名が犠牲となった。シュス様がノアの術を使い、かろうじて私達は生きのびた。そこから逃れることが出来たのはわずか五名だった」
リケが言葉を添えた。
「闇の原理神であるウポコポウリの宇宙的対立物は解放の原理神ノア。故に、その術は悪龍イロキノに絶大な効果があったわけです。ですが、そのノアの光をもってしても、奴の闇の力は祓えず……」
その力関係は、アオイもよく知るところだった。タパやユタから話を聞いている。ウポコポオ又の名をウポコポウリはサタンのことであり、ノアはルシフェルのこと。当初の認識に多少の違いはあったものの、その二神の対立は記憶ない彼でもよく知るところであった。
アヅは話を続けた。
「が、私達には希望があった。マナだ。あの子が生まれた。フィオラパがシュス様に伝えた『定め』がすでに始まっていた。処が私達は定めの意味も、何が起こるのかも、その時は分かっていなかった。まだ、何も……あの子が冥界へ召された時でさえ……」
一つ言葉を切り、アヅは続けた。虚空をにらみ据え。
「が、その数ヶ月後、あの子がニシヌタお婆さまの夢枕に立ち、御子懐妊のことを伝えたとき、私達ははじめてこの定めの意味を知った。あの子が冥界へ入らなければならなかった理由も。
マアシナの御子であれば、ラアテアの光を現出させる呪文を唱えることが出来る。その呪文ならば、悪龍を滅ぼすことが出来る。この禍は、愚かな人間が発端となっている。故に、我ら人間の手で止めねばならぬ。これは、人が人の手で成さねばならぬこと。
シュス様はこの定めの意味を知ったとき、即座に決意された。自らを犠牲とし、ヴェセプタを召喚し冥界への扉を開くことを」
アオイは唇を噛み締めるばかりで、何も言うことが出来なかった。そんな彼に、アヅは穏やかな口調で優しく言った。言葉は優しかったが、内容は重かった。
「故に、後を託され冥界へ入る我らは、いかなる障害があろうともそれを却け、御子をこの世界へ連れ帰らねばならぬ。アオイ殿」
アヅは真っ直ぐアオイの目を見た。
「共に」
共にやろうと、アヅハナウラは言っていた。共に死力を尽くして頑張ろうと。干涸らび乾いていたアオイの目に熱いものがこみあげた。見られないように頭を垂れた。「共に……」答えた声が歪んだ。
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