第74話

八.【神隠しの秘密ルール】


 目を覚ました時には誰もいなかった。彼女一人。微かに立ちこめている灰色の空気。プラスティックの焼けた臭い。

 これ何? どうなってるの? 不用意に吸い込み、咳き込んだ。同時に気づいた。ずっと鳴り響いているのが、目覚ましではなく、非常ベルだと。


「家事だ」施設が火事になったのだと理解できた。心臓が早鐘のように鳴った。


 他の子たちは? 職員の人は? もう皆んな逃げたんだ、私を忘れて––。


「慌てちゃダメだ」冷静になろうと思った。


 窓を見た。「無理だ」分かっている。アルミ製の柵が付いている。


 扉から逃げるしかない。玄関までの通路を頭に思い描いた。大丈夫、きっと逃げられる、自分に言い聞かせた。


 ベッドから飛び降り扉へ走った。けれど。


「熱っ!」


 手を火傷した。金属製のドアノブが焼け爛れていた。彼女は周りを見回し、タオルを見つけ、そのタオルで覆って取っ手を回そうと考えた。タオルを手に扉に向かった時。背後で声がした。女の子の声。


「あんた馬鹿? 何やってんの。映画見たことないの?」


 吃驚して振り返った彼女の目に飛び込んだのは、ふくれっ面の女の子。奇妙な服を着ている。体も服も透き通っている。目を丸くした彼女に、負けじと呆れ顔。肩をすくめてみせた。


「その扉の向こう側は酸素を求めて炎のタネがくすぶっている。開けた途端にドッカーンよ。見たことない? バックドラフト。まあ古い映画だしあんた子供だし、知らないか」


「あんた、誰……」


「私が誰かなんてどうでもいいの。どうせあんたは私に会ったことを向こうで憶えていない。いい? ここでのあんたは焼け死ぬの。骨も残らない。ここではね。さあ、行きなさい。扉が開くわ」


 女の子の隣に小さな光が浮かんだ。光はみるみる大きくなり、球形の光の玉となった。表面に油膜のように虹色の光が流れている。


「これ、何?」


「説明したってどうせ憶えてないわ。さっさと行きなさいってば。ここを抜け出したかったんでしょ。昔はよくやってたの。子供ルール。行きなさい。向こうに行ったら自由にやりなさい。好きなことを好きなだけ。まあ、何を言ったって憶えてないでしょうけど」



八.【売り子さん】


 稽古から帰ったアオイを、廟堂で待ち受けているもの。勿論、門で出迎えているわけではなく、玄関に三つ指ついて待っているわけでもなく、とりあえず姿は見えないが、蜘蛛が巣を張るようにして巧妙に巣食っているもの。


「じゃあ僕たちは夕飯の支度に行くね」ユタとリュウ少年は言った。


 アオイは「え?」と言った。「いや、」とも言ってみた。「じゃあ、俺も手伝うよ」とも。


「いえいえ」ユタもリュウ少年も大きくかぶりを振った。


「アオイさまはゆっくりお風呂につかられてください」「上がられる頃には夕飯の支度が出来てますから」言い残して、二人の少年は風のように駈け去った。あっという間に。


 アオイは一人取り残され、少し悩んだ。


 あいつらは俺が困る様子を見て愉しんでいるのか––。


 とは言え毎日のこと。覚悟を決めて浴堂へ足を向けた。


 休憩所は風呂上がりの人で賑わっていた。ほとんどが顔見知り。アオイの顔を見ると気さくに話しかけてくる。近所のおじさんやおばさん。会釈しながらアオイは進んだ。その時には既に視界の隅に入っていた。


 休憩所は正式には飲食所と言い、元々は飢饉や災害時に人々の避難所となる場所。風呂をふるまい、食事を用意する。今では軽い食事や飲み物を出すくらいだが。


 夏の間は裏庭の井戸の側で冷やした飲み物を客に売っている。そこに立っていた。新人の売り子さん。アオイと目が合うと嬉しそうに笑顔になり、次いで恥ずかしげに目を泳がせた。


 アオイは会釈を返して、しかしかまって欲しげな相手の様子には気づかないふりをして男湯ののれんをくぐった。が。


 汗を流してさっぱりして、再びのれんをくぐって出てきた時。


 横から忍び寄ってきた小さな人影が彼の頰に冷たい飲料の瓶をピトっとあてた。

「うっ」

 これも毎日のことなのでさほど吃驚はしないアオイ。けれど驚いたふりをした。


「吃驚しました」

 彼がふり向き笑顔を見せると、ルルオシヌミは照れ笑いを浮かべて目を伏せた。

「おごりです」


 アオイは廟堂の子供と同じ身分なので(良くも悪くも)、風呂上がりに飲料を一本無料で貰える権利がある。なので奢ってもらう必要は全くないのだが「ありがとう」と言っておいた。これもいつものこと。


 ルルオシヌミとは進展は何もないものの、しかし、はっきりした答えを出せないままでいる。で、ズルズルと芝居見物に行ったりツキツキに行ったりしている。


 アオイが座って飲み物を口にすると、ルルは嬉しそうにチョコンと隣に座った。

「先日のお芝居は面白かったですね」

 言われて、

「そうですね」と答えたが、恋愛ものだったのであまり真剣に観ていなかった。歌劇というのも馴染みがない気がした。気がするも何もそもそも記憶がないが、馴染みがないなあと感じた。


 それより。お芝居よりもかなり面白くてもっと迫力ある何かがあった気がしたが、そういうモノは大抵全く思い出せない。まあ、いつものことだよな、独りごちた。


「またツキツキの券を貰ったので……」ルルは口ごもりながら言った。


 いつも貰ったと言うが嘘ばかりだと気づいていた。アオイは笑って答えた。


「その券の代金は俺が払いましょう」


「い、いえ。貰ったので……」慌てて言うルルに、


「では。下さった方に渡してください」財布を取り出して二枚分の券の代金に充分なお金を手に握らせた。


「じゃあ俺はこれで」笑顔で言って立ち上がり、その場を離れた。券を手に握りしめ、胸ときめかさせているルルを残し。そんな表情を見たら気持ちが揺らぐ。可愛く感じて。だからとっとと自分の部屋に戻ることにした。

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