第6話
小さな部屋で彼は意識を取り戻した。
黒い板張りの床の上に布団が敷かれ、そこに寝かされていた。頭に包帯を巻かれていた。
布団をはぐってみると、奇妙な見慣れない寝間着を着せられていた。頭からすっぽりかぶって着る物らしく、丸首の衿には胸元まで切れ込みがある。身幅が広くゆったりした肌着。
彼は体を起こして周りを見た。
漆喰の白い壁には両開きの木窓があり、開け放たれ夜風を入れている。壁に古めかしい箱型の掛け時計。文字盤には点が刻まれて数を表している。床の上に硝子の筒のランプがあって優しい光を放っていた。
ランプ……。
訝しく思った。
ランプって……おかしくないか––。
ところが他に何があったのか思い出せなかった。まったくと言って良いくらい記憶の中に無かった。
アレレ、と少しパニックになった。
俺は確か溺れて––。人魚を見て––。
しかしその前の記憶が無かった。何故溺れたのか思い出せなかった。
記憶を辿ろうとしてそれ処じゃない事に気附いた。これまで自分が何をやってきたのか、これまでの自分の人生を一切思い出せなかった。
俺は、––。
記憶喪失という単語が頭に浮かんだ。背筋を冷たいものが走った。記憶喪失という言葉と言葉の意味は憶えていた。
言葉は、切れ切れながらいくらでも浮かんだ。しかし意味を伴ったり伴わなかったり、だった。
例えば名称の持つ具体的な姿が浮かばない。今、ランプを見て「ランプ」という言葉は浮かんだ。しかし、それ以外が浮かばない。関連すると思われる単語が幾つか朧に浮かぶが、それが具体的には何かということは真っ黒い靄の向こうにある。
考えると頭がこんがらがった。混乱していると、部屋の黒い木戸がそっと引かれ、一人の少年が入って来た。
歳は十歳くらい。可愛らしい顔をした男の子で、彼が今着ているのと似た形の上衣を着ていた。
首元からおヘソくらいまで衿のついた着物で、絹の飾り紐で衿を合わせている。丈は腰下までで、下には膝下丈のズボンをはいている。
着物は松葉色で、目が三角の雀が、大きめの水玉模様のように刺繍で描かれていた。そういった柄は何処となく目に馴染みがあったが、着物の形はまったく馴染みがないものだった。
少年は彼の顔を見るとにっこり笑って言った。
「やあ、良かった。目を覚まされたんだね。お客さまは川で倒れてたんだよ。額に怪我してた。溺れたの?」
「あ、ああ……。そうなんだ……。でもよく憶えてなくて……」
少年は首を傾げた。
「お客さまは異国の方? 何処から来たの?」
彼は正直にうちあけ、訊いた。
「実はまったく憶えていないんだ。ここはどこで、今は一体何年なんだ?」
少年は驚いた顔をして早口に言った。
「ここはクムラギ。タパタイラ(タパ・大楽)さまの廟堂だよ。今は旧暦の二千一年、聖女マナハナウラさまが冥界入りされて二年、つまり新暦の二年じゃないか。暦を憶えてないの?」
さっぱりだった。
「聖女……? 誰なんだ?」
少年は目を丸くした。
「ひょっとしてお客さまは記憶喪失なの?」
「どうやら、そうみたいなんだ……」弱り切って答えた。
「名前も憶えてないの?」
「いや……」自分の名前は憶えていた。「セナ……。セナ、アオイだ……」。
少年は首を傾げた。そして言い直し、問い返した。
「アオイセナさまだね?」
「アオイ、セナ……」
「僕はユタミツキ(ユタ・弥月)だよ。よろしくね。お客様が元気になるまで、僕がお世話するんだよ」
こ の 多 重 宇 宙 の ど こ か で
第一章 導き篇
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます