第5話

 蒼惟は余計な事は考えなかった。手探りで自分の命綱の留め金を外し流れに身を躍らせた。


 木原美奈の声が聞こえた。彼の名を叫んでいた。

 

 馬鹿だな、と思った。マジの濁流シーンになったのに叫んじゃ駄目じゃないかと。


 靴を履いていては上手く泳げなかった。何度も水の中に頭が沈みこんだ。たとえ靴を履いてなくても、この流れでは泳ぐどころじゃない。水中で靴が脱げないようにしっかりと紐を結んでいる。今、それをほどくことは出来ない。手で水をかいた。


 泳いでいる感覚は無かったが時折靴底に触れる大きな岩を夢中で蹴った。


 急激に押し流されて運良く距離が縮まった。蒼惟は手を伸ばしその襟首をつかんだ。しがみつかれそうになったので後ろ向きに抱きかかえた。


 岸で歓声があがった。みんな馬鹿じゃないか、と思った。端役が人命救助するシーンを使えるわけないか、と気附いた。使えるとしたらハプニング特集かなと思った。


 左手で小学生を抱きかかえ、右手で水をかいた。


 けれど岸へ向かえない。流されるばかり。小学生の頭が何度も水に沈んでいた。彼自身も危うい。


 船外機付きゴムボートが下流に回り込んでいるのに気附いた。スタッフが二人乗っていて懸命に手をふっている。流れを予測して、上手く回りこんでくれた。


 スタッフの差し出したオールをつかみ、体を引き寄せ、ゴムボートの縁のロープをつかんだ。

 抱きかかえた小学生をスタッフの手に渡した。

 小学生はゴムボートの上に引き上げられた。


 もう大丈夫だと安心した。ジョークのつもりで蒼惟は言った。


「今度会った時は俺の名前憶えとけよ」


 小学生は水を飲んでいて返事が出来ないようだった。苦しそうな顔で彼を見た。


「忘れてたら承知しねぇぞ」笑いながら附け加えた。


 スタッフが急に険しい顔になり、彼の方へ手を伸ばした。


「蒼惟ぃ!!」木原美奈の悲鳴が響いた。


 スタッフの手が彼のシャツをつかんだ。同時に衝撃。


 何が起こったのか彼はまったくわからなかった。気附いた時は水中だった。シャツをつかんだスタッフの手は離れていた。後頭部、背中に激痛。流木が流れてきて体にあたったんだと分った。上下感覚が失われていた。肺に水が入る。


 一気に押し流されて川底の大きな岩に頭があたった。真っ白になり、火花が散ったように感じた。必死でもがき、水をかいていた腕がダラリと垂れた。


 その体が川底へ向かい流された。


 水が渦巻き、淵になっていた。沢山の手が差し伸べられていた。彼は目を開いて一瞬だけ見た。濁った流れの中に人魚が見えた。何かの間違いだと思った。

 それが最後の思考の一欠けらだった。


 流れが澱む淵の底に神秘的な光の渦があった。


 人魚達はその光の中へ彼の体を導いた。


 その途端、淵自体消え去った。茶色い濁流が戻ってきた。まるで押し流されたように全て消えた。







 少年は川面を見つめていた。階段状になされた護岸の石の上に、膝を抱えて座って。

 石の隙間に生えた菜の花が風に吹かれている。

 背後にはクムラギの高い石壁が聳えている。


 防壁の外は危険だと知っているが、少年は時々ここへ来る。独りになりたくて。


 しばらくの間そうやって水面を見つめていた。

 

 けれどずっとそうしているわけにもいかない。立ち上がった。眸に浮かんだものをぬぐい。

 壁の内側に戻る爲、川下へ向かって歩き始めた。


 やがて分厚い木の門の前についた。番兵に声をかければ中に入れてもらえる。


 けれど少年は気が附いた。ずっと先の岸辺に、何かあることに。ゆっくりと流れる水に体の半分を沈めて。


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