第4話

四.[撮影]


 翌週、木原美奈マネージャーから電話が入った。


「明日撮影だから。用意して待ってて。わたしの車で迎えに行くから」

「春休みだから別に文句は言いませんけど、随分急ですね」

「雨待ちだったのよ。だって川が増水してないと」

「げっ。まぢで濁流を渡るんですか」

「何言ってんの。ほんとに濁流だったら危険じゃない。そこそこ増水してればいいのよ。後はプールで撮影して加工するから」



 車で四時間ほど走った山間の川。道沿いに見えたその流れは、確かにそこそこ増水している。茶色い水。川底に大きな岩でもあるのか、所々白い波を見せている。割と速いうねるような流れ。


 ハンドルを握る木原マネージャーに蒼惟は訊いた。


「確かに増水してるけど、濁流ってほどじゃないですね……。こんな濁流シーンでいいんですか?」

「遠景と前後のシーンを撮るの。後は加工するから。この川を実際に渡るところも撮影するけれど、ちゃんと命綱つけるから大丈夫」

「ふーん。このくらいの流れなら泳げそうだけど……」

「生意気言わない。強がらない。油断しない。それから、共演者に失礼の無いようにね。売れっ子だから」



 木原美奈がわざわざ一言注意した理由が分った。共演者は小学生だった。人気者の例に漏れず、礼儀正しかった。名前も知らない役者以外には。


「瀬名です。今日はよろしく」と蒼惟が言うと、「セナって言われてもわかんないよ。知らないもの」と素っ気無く答えた。


 何だこの面白いガキは、と思ったけれど、それを顔に出すほど彼も子供ではない。笑ってみせた。


 芸能人の端くれでありながら、芸能音痴の蒼惟は、その子供の顔も名前も知らなかった。なにしろ彼は配役表も台本も見ていなかった。台詞が無いと聞いていたので。


 その場で台本に目を通すと、彼とその子供が川に転落したバスから、レスキュー隊が張ったロープを頼りに脱出する、というシーンだった。


 監督に挨拶に行くと、こう言われた。


「ふーん。普通は女の子の名前だろ。芸名?」

「いえ。本名です」

「ふーん。まあ、どうでも良いけど……」監督は背中を向けた。



 そんなこんな愉快な出来事が二三あった後、撮影は始まった。


 雨は殆どあがっていたが、水滴を含んでいるかのような大気。頭上は真っ白い雲が低く垂れ込め、上流の山は雲に包まれ隠れていた。


 まずはじめに、主人公役のレスキュー隊員が大きなピストルのようなものをかかげて引き金を引くところを撮った。


 蒼惟は隣りの木原美奈に訊いた。


「あれは、何をしてる処?」

「スーパーレスキュー隊がロープを転落したバスに向かって撃ってるの。映画になったらあの辺にバスが沈んでるわ」

「へえ……」

「バスから脱出するアップはプールで撮影」


 蒼惟は内容のイマイチなことはあえて話題にしなかった。気になっていた事を訊いた。


「俺はまず心配ないとしても、小学生にこの川を渡らせるのはどうなの? 大丈夫なのかな」

「うん。命綱附けるから。それに、あの子は準主役だからストーリー上どうしても必要なシーンなの。台本ちゃんと読んだ? あなたは居合わせたバスの乗客、あの子は始めからずっと出てる」

「え? はい……」


 その後船外機附きのゴムボートでスタッフの人が川の対岸に渡り、ロープを張った。


 続いて蒼惟と子役がゴムボートに乗せられ対岸へと運ばれた。足下はぬかるんでいて、急な斜面に鬱蒼と木が茂っていた。スタッフが二人の腰に命綱を結び、紐の端のフック型の金具をロープにカチリと留めた。


 子役がぼやくように言った。


「こんなの付けるとリアリティが無くなっちゃうんだよなぁ」

「でも、危ないから付けないと駄目だよ」


 蒼惟が言うと、子役は不服そうだった。不服そうと言うと可愛らしくも感じるが、ちょっとムッとした様子だった。


 スタッフのゴムボートが対岸へ戻り、監督が合図をした。

 カメラが廻り始めた。

 まず子役が川へ入り、続いて蒼惟も川へ入った。


 見た目よりもかなり流れが強く、ロープをつかむ手が滑りそうだった。加えて川底に大きな岩がゴロゴロ転がっていて、気を附けないと足を取られそうになる。

 蒼惟は胸元まで水に浸かっていたが、前を行く小学生は首まで水に浸かっていた。彼は小声で訊いた。


「おい、大丈夫か?」


 小学生はふり返らず小声で答えた。怒っていた。


「話しかけないでよ。ちゃんとやってよ。NGになるでしょ……」


 確かにもっともだと思った。この子の方がプロだな、と。彼が感心した時、急激に水かさが増した。


 この時雨は上がっていたが、上流では激しく降っていたのだ。突発的に。上流に降った雨で川の水位があがった。


 あっという間に足がつかなくなった。ロープが流れを受けて激しく躍った。つかんだ手が今にも滑って離れそうだった。


 前にいる小学生に「大丈夫か」と訊いたけれど、答える余裕はないようだった。チラリと見えた岸では、皆慌てふためいていた。次の瞬間、小学生の頭が水の中に沈んだ。


 大変だ––、蒼惟は思ったが、彼の想定した事態より、事態はもっと悪かった。


 濁流の中浮かんできたその子の頭は、ロープからかなり離れた処だった。小学生は命綱を外していた。

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