第七章 転機(2)
エルデニネは御花園の小さな穴が複数穿たれた天然の小岩に腰かけていた。本来は景観の為、或いは観賞用に配置されていることは彼女も知っていた。だが、周囲に腰掛が見当たらない。なれば、と椅子の代わりをさせている。
鮮やかな緑の葉も、囁く風も、咲き誇る花も、彼女の心を癒すには至らなかった。ただ、目の前に悠然と闊歩する緑の宝石のような孔雀だけが塞いだ心を落ち着かせる。
サィンというトゥルナ族の少女のことはあまりよく知らない。己を好敵手と呼ぶドルラルの側仕であること、故に自分に好意を抱いていないこと、そして、オルツィイとは会話をする程度には仲が良好だったことだけは知っている。けれどもそれだけだ。
どういう性格で、何故あのような愚行に走ったのかは分からない。ドルラルに心酔していたのかもしれないが、だからといって危険を冒してまで他人を陥れようとした気持ちも理解できない。
殺されてしまったことは哀れだとは思う。彼女がドルラルの物をエルデニネの部屋に隠し終える前に殺されたことで、逆にエルデニネは身の潔白が証明できてしまった。無論、今上帝やガザルが昨夜の己の言を信用した場合に限るが。
サィンの行為はある種の熱情だろうとエルデニネは考えていたが、どうすれば他人のために心の炎を燃やせるのか不思議だった。それどころか、エルデニネは自身のことでさえあまりよく知らない。
澄ましているので気に食わない、といいがかりをつけられることは先帝、先々帝の時代から何度もあった。故郷にいた時にいわれたことはなかったが、元々労働の手として男児を望んでいた両親に力仕事ばかりを強いられて、まともに顔を突き合わせてもらえなかったのはそういうことだったのかもしれない。
表情を作るということがよく分からない。喜びや悲しみを大げさに表現しなければ、無感動で冷淡で澄ました人間とされてきたのだが、それでも彼女は人に良い印象を与えるためだけに大げさな振る舞いを学ぼうとは思わなかった。そういうところが駄目なのだろうと思うと同時に、何故静かに、穏やかに、凪いだ心で喜び悲しむことを許されないのかと疑問に感じる。
しかし、誰も疑問に応えぬまま異能が開花した。すると、エルデニネは“エルデニネ”という一人の人間ではなく、“予知”という奇跡的な能力を得た“物”として見られることになった。
結局、自身が己とはいかにを考えて一時的な結論を出す前に、異能者という物として売られ、エルデニネは色々なものを諦めてしまったのである。だから、無愛想で取り澄ました喜怒哀楽を表現できない予知能力の
己を出そうと思って一度失敗したことがある。
内密にしていることだが、先々帝の平帝は一度だけエルデニネの元へ通った。彼は臆病な性格なので彼女と床を共にすることはなかった。エルデニネ自身も子を成すか成さぬかは興味がなかった。茶を飲んで音を奏でて話す。それが皇帝が望んだことで、彼女自身も至福の時だと感じた。
彼とは、もしかしたら気が合うのではないだろうか、と彼女は考えていた。しかし、彼は至極臆病なのだ。今宵の礼に望む物はあるか、と尋ねられた時、ついうっかり頼むべきでないことを頼んでしまい、結果、恐怖させてしまった。
――わたくしの側仕のトゥルナが勉学に関心を寄せています。トズだけでなく、トゥルナも教養を身につけられるようお取り計らいいただけませんか。
これは皇帝の政策に口を出すだけではなく、制度を変える能力も自信も持たない平帝にとって心労の種となった。彼が養花殿に通わなくなったのも、無理難題を押し付けられたのが原因かもしれない。真相は分からないが、拒絶されたに違いはない。今になってみれば己のあの言葉は改革のできぬ皇帝を責めたように聞こえたのかもしれないとも思う。
エルデニネは軽く反り上がった飾り羽を揺らして闊歩する孔雀を眺めながらため息を吐いた。
瑞々しい
「孔雀が好きか」
ふいに声をかけられたが、エルデニネは声の主に振り返ることはしなかった。ただ、「はい」と肯定で返す。石畳の床に置かれた木の桶が音を立てた。
「供も連れずに一人で出歩くのは不用心ではないのか」
非難する口調ではなかった。それどころか面白がっている、と彼女は感じた。
「一人の方が自由に動けます。ぞろぞろと連れだって歩くのはあまり好きではありません」
「まあそうだな。聞けばオルツィイ以外は皆お前の側仕に就任してはすぐに辞めてしまうそうだな。一体どうやって苛め抜いている」
そういうことを陰口としていわれることには慣れていたが、面と向かって尋ねられたのは初めてだ。
「いいえ。苛めてなどおりません。ただ、わたくしは世話をされるいわれはないので
ふうん、と納得したように笑う。
「さてはお前は一言足りないやつだな。無愛想も手伝って敵を作るわけだ」
「あなた様にいわれたくはございません、ションホル。あなた様のご忠告をお受けして一言足すとすれば、あなた様はいつも一言多く、直情的な発言も手伝って敵をお作りになられるのでは?」
「その通りだ」
折角の時間を邪魔された意趣返しに嫌味の一つでも投げかけてみれば、桶を置いて孔雀を眺めるションホルはあっさりと認めた。肩透かしを食らって、エルデニネは投げかけた鋭い視線を仕舞い、肩の力を抜いた。
「孔雀が好きかというお話でしたね。故郷の家の近くには野生の孔雀がおりましたもので、昔から何かと心の慰みにしてまいりました。故に懐かしく思います。故郷は好きでも嫌いでもございませんが、孔雀は好きです」
「トズ族ゆえに孔雀を信奉しているのではなく、憧憬ということか」
「そのように捉えていただいて結構です」
「だが、お前は凰都で生まれたのではないのか」
「はい。わたくしはオクトールという曄北東部にある山岳地帯の生まれにございます。異能が顕現して凰都へ売られて参りました」
「親にか……」
「トゥルナ族の隠れ里にはよくあることでございます。養花殿には似たような境遇の者たちも多いでしょう。オクトールに限らずトゥルナの郷は積雪の多い急峻な山岳地帯で、貧しい村々が多いのです。寒冷で土地も痩せており食糧に困ります。ですから、最も高値で取引ができて、最も生産しやすい商品が人間でございます」
羊や山羊、ヤクも飼ってはいるが、他の遊牧民に比べれば微々たるものだ。トゥルナ族は定住の民なのだ。飼っても周辺の山に放てる程度である。寒波にやられると作物ともどもやられてしまい、ひとたまりもない。
「そうか」
ションホルは同情するふうではなかったが、何かを思考しているようだった。
「お前はトゥルナ族についてどう考える、エルデニネ」
突然の問いと名を呼ばれたことでエルデニネはハッとした。養花殿をあからさまに嫌っているこの男が、養花殿の住人の名を覚えているのが意外だった。
「トゥルナ族とトズ族の歪な関係について俺は非常に不健全だと思っている。異能の神だか卜占の神だか知らぬが、それに選ばれなけばトズの世話をして一生を終えるか、或いは年増になったところで百官の誰かに下げられる。まあ、そこで生まれた女がまた後宮に入る制度になっているようだが」
その問いをトズの己にするのは果たして正しいのだろうか。エルデニネは相手がトズであることを露とも気にしていないションホルを見上げた。無論、この問いはトゥルナ族に問うても意見が偏るか返答がないだろうから意味を成さぬだろうが。
エルデニネは曄平帝の時の己の発言が頭をかすめた。
側仕のトゥルナ――オルツィイが勉学に関心を寄せていたので、同じ教養を受けられたらと提案したのは、修練を受け入れる器があるのに人為的に機会を阻まれるのが不当だと感じたからだ。
己だって元はトゥルナ族だ。異能が顕現して銀の姿になる前は黒い髪にこげ茶の目をしていた。伸びしろは人それぞれとはいえ教育による成長は異能に依存しないはずだ。それに、姿が変わったからといって何が偉くなるというのか。それどころか、エルデニネは異能が発動するたび恐怖に襲われる。だからトズなんてものになりたくはなかったのだ。
「すべてのトズは元はトゥルナ族でございます。異能を授かるのは奇跡かもしれませんが、活用の場がなければ無に等しくございます」
「活用の場のない異能も存在するのか」
「はい。現在までに顕現し、報告のあった異能はトゥルナの管理する『
「ならばトゥルナとトズ、或いは書が編纂された時代の為政者による格付けということか」
「多分にその可能性はございましょう」
「時代にそぐわぬかもしれんな」
その一言でエルデニネの心が微かに動いた。己でもなぜかは分からぬが、彼に話してみるかという気になったのだ。彼に話したところで、疎まれようが何ら気にするところがないのも大きい。
「――以前、平帝にお目通りが叶った際にトズの受けている教育をトゥルナにも、と願い出て拒絶されました」
「ふむ。意外に大胆なことをするのだな」
ションホルの反応に、やはり、曄平帝に願うべきことではなかったのだと知る。ただし、彼自身は一蹴する気はないらしい。
「あなた様は何故わたくしにこのようなことをお聞きになるのですか。トゥルナやトズがお嫌いなのでしょう? ――皇上」
「何だ、知っていたのか」
意外そうにエルデニネを見やる。
「いいえ。昨晩、
「それでかまをかけたのだな。だが、よく観察していることだ。異能以外にもそのような特技を持ち合わせていたか」
「恐れながら」
頭を垂れるエルデニネを見て、ションホルは皮肉めいた笑みを口の端に浮かべた。
「恐れてなどおらぬくせによくいう。俺はまだ俺自身の政治を行う立場にないが、将来能力のある女は召し上げて官にしても良いと考えている。瑛には以前から女の武官や文官がいるのだが、どうも曄はそうではないらしい。そこで真っ先に育成しやすい女どもと考えたらトゥルナ族がいると思ったのだ。だが、お前たちは異能の有無という小さな階層社会に身を潜めて頑なに制度を守ろうとしている。だからどうと聞いてみたのだ」
「そのようなお考えはご立派だとは思いますが、残念ながらわたくしは養花殿の異分子にございますれば、皇帝の親政に意見するなどもってのほか……」
「いや、今いっただろう。瑛は曄のように皇帝一人で政治することはできぬのだ。大会議での決定が大事だからな。そもそも、俺は反乱軍の旗印に丁度良い存在だっただけで、ここまで担ぎ上げ上げられた。つまり、反乱が成功しなければただの使い捨ての駒だったのさ。分かるだろう。お前は同様の打診を旧曄臣からされていたのだからな」
「そうであれば一つ。わたくしは能力の有無は貴賤に関係ないと考えております。人それぞれが内に秘めた器の大きさは外見からはかれるものではありません。その器に注ぐものなくしていかに見極めるのでしょう。ですので、広く教育の門戸を開くべきだと、以前お願い申し上げたのです」
聞き届けられなかった過去を思い出して、エルデニネは憂鬱に瞼を伏せた。
「それと、皇上が異能を気味が悪いとお考えになるのは個人的には同意いたします。しかし、養花殿のトズの多くが異能を誇りに思い、魔窟で生きるためのたった一つの心の柱としていることもご理解くださいませ」
「ふん、そういうのは相手の目を見ていうことだな。己の意見に自信がないのか」
ションホルは刺々しくエルデニネを批判した。
「確かに俺は異能を不気味だと思っているがな、真に最も不気味なのは不可思議な能力そのものではない。異能にかまけて己の道を自らの手で切り開こうとせぬ飼いならされた精神だ。神から異能を授かったとて、それはただ、使いようによっては便利な道具を一つ与えられたに過ぎん。だが、お前たちは道具を得たとてそれを活用せず、変革を恐れ鳥籠に籠って運命が変わらぬよう祈っている。そういう態度が気に食わないんだ。それでは宝の持ち腐れだろう」
「下手に悪用されて人心を乱すよりは良いかと思いますが」
「悪用する者はねじ伏せる。己の力を自身が行使しないで甘んじるだけならば愚かに過ぎん。反抗して足掻いても倒されたならば己の能力と運が相手より劣っていただけの話だ」
「野蛮ですこと。――しかし、皇上。万人があなた様のように自らの道を切り開く勇気を持ち合わせているわけではございません」
エルデニネはきっとションホルを睨み付けた。
「大勢が傷つく未来が目に見えているのであれば、大いなる流れに身を任せることも悪ではありません。革新を避けることで得られる幸福もございます。あなた様は蜂起せぬ者を怠惰な弱者とお考えかもしれませんが、それは違います。皆が足掻いているのです。足掻いてなお高みに到達できる人間は人並み以上の強い心、勇気、執念を持っていることに気付いていないのです。そして、始まりからすでに凡人とは別の高みに立っているのです。それはあなた様が我々トズを、異能を持つことで人々を見下し、持たぬ人間を理解しない姿勢でいる女たちだと思い込んでいらっしゃることと同じではありませんか。あなた様もまた己が強者である自覚のないまま、弱者を見下していらっしゃるのではありませんか」
今ここでエルデニネの言葉を真っ向から否定すれば、彼女の言葉はたちまち真実となり、ションホルは弱者の心を掬い上げぬ暴君の烙印を押されてしまうだろう。
「ふん、そういう見方もあるか」
ションホルは面白くなさそうに唇を歪ませた。
「以前であれば両断しかねぬ戯言だが、諫言の吟味くらいはしておいてやる」
エルデニネは毅然とした姿の裏に張りつめていた緊張の糸を解いた。別の身分に身をやつしてはいるが、仮にも今上帝に意見をするには相応の覚悟が必要だった。後日沙汰が来る可能性が否めぬが、ひとまずほっと息を吐く。
「わたくしも今一度考える時期が来たのかもしれません」
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