第四章 授業(3)
機織りを終えると今日の予定は終了だった。まだ日は高かったが、アルマは張りつめた背と肩を自室の寝台に凭れかけて、床に座り込んだ。
「ふわー。疲れた。肩が凝ったよ」
自室の中ではオルツィイの視線しかないので怠惰になりがちである。
「お嬢様、お疲れなのは理解いたしますが、靴を脱いで寝台に座るか横になられては? さすがに床に座るのはお召し物が汚れますしはしたないですよ」
オルツィイはすかさず注意する。
「いつ
見初められませんよ、と続くのが最近のお決まりである。アルマは生返事をして身を起こし、そのまま寝台に寝そべった。護衛で一戦交えた時と同じくらい疲れた気がする。
うとうとと船を漕いでいると、かすかに声が聞こえた。
「もし……」
アルマは疲労による幻聴かと思って返事をしなかったが、オルツィイは急に背筋をしゃっきりと伸ばして素早く部屋の扉を開けた。
扉の向こう側には側仕一人を連れたエルデニネが立っていた。今度は音楽は鳴っていない。エルデニネ様、とオルツィイの驚く声に、アルマもすぐに寝台から降りて背筋を伸ばした。
「アルマ様、先程は機織りの儀、大変お疲れ様でした。不慣れな生活でお疲れのところ申し訳ございませんが少しお話をしてもよろしいでしょうか」
「はい! こんなあたしで宜しければ……!」
オルツィイが絨毯の上に房付の座布団を敷き、玻璃の杯に飲み水を注いで二人に差し出した。
エルデニネはオルツィイに、よく励んでいますね、と仕事ぶりを褒める。オルツィイは目に星を浮かべて嬉しそうに返事した。
「オルツィイ、わたくしはアルマ様とお話がしたいので人払いをお願いいたします。外にいるトーラェと憩っていらっしゃい」
いわれるや否や、彼女は肘を張って右手の甲に左の手のひらをつけると頭を垂れて部屋から退出した。元からきびきびとしてはいたが、エルデニネの前での速やかさを見れば、アルマの前での仕事ぶりはのびのびとしているよう思われた。
「それで、エルデニネ様、一体どういったご用件でしょうか」
アルマが尋ねた。
間近で対峙するとエルデニネは改めて息を飲む美しさをしている。白磁の肌に水晶の瞳、絹の髪。ふっくらとした小さな唇だけがほんのり杏色をしている。着衣も白地が多いため、雪か水晶の結晶で造形されているかに思えた。アルマは己がもし皇帝であれば彼女に一目惚れする自信があった。
「あなたにお尋ねしたいことがいくつかございます」
「何でしょうか。あたしに答えられることかな」
エルデニネは白皙の面を微動だにさせないまま幾つか質問を述べる。
「まず、アルマ様はこれまで天還祭にご参加されたことはございますか」
「ありません。小さい頃にあったらしいってことは知ってるんですけど、それだけです」
「そうですか。では、オルツィイから王宮を出たいと伺っておりますがその点はいかがですか」
「そうなんです。あたしウシュケ族と勘違いされて連れてこられたんです。兄に何も言わずにここへ来てしまったから、きっと心配しているだろうし、早く帰りたいんです」
エルデニネは何かを考える様子で逡巡し、一拍おいて再びアルマを見据えた。
「アルマ様、ウシュケでなければあなた様は何族であられますか」
「エイク族、ですけど……?」
質問の意図が分からず、アルマは焦りを感じた。
「そうですか」
「……何かあるんですか」
エルデニネは眉を曇らせた。
「わたくしは昨晩予知を視ました」
「えっ」
「わたくしの予知は断片的な絵が数枚見えるような、夢のように不確かなものです」
エルデニネは自身の予知は記憶の断片が目の前を通り過ぎるような程度でしか視えないと前置きをした上で、但し、予知した断片は必ず実現しているという。視られるものは未来のみで長くとも一年未満に起きるそうだ。
「結論からいわせて頂きますと、王宮を出る意思があれば、今すぐにでも実行されたほうがよろしいです」
彼女は白い拳をぎゅっと握って瞼を伏して予知夢を語る。
「あなた様は天還祭で白絹を纏い、舞われていらっしゃいました。突然どなたかがあなた様に武器を向けていました。また別のどなたかが“また奪われてなるものか”と叫んでおりました。しかし、願いむなしくあなた様の体から血が……。とてもぞっとする一幕でした。また、とどなたかが叫んでいらしたのであなた様は過去に天還祭に参加されていると考えたのです。本当にご参加されたことがないので?」
不気味な予知夢にアルマは言葉を失って当惑する。
(あたしが死ぬ……?)
俄かには信じられなかった。鼓動が早まる。
新手の冗談、否、新手の嫌がらせかと尋ねたくなる。皇帝の寵を受けさせぬために古参で王妃候補筆頭の彼女がアルマを排除しようと脅迫しているのではないだろうか。
逡巡するも、目の前の麗人の乏しい表情の裏側は読み取れない。しかし、嘘をついているようにも見えない。
アルマはしばしの沈黙ののち、正直に否定した。
「ない、です……。それにあたしは天還祭自体、さっきオルツィイに教えてもらって知ったばかりですから。でも、もし予知夢が本当なら、それあたしじゃなくって皇帝に伝えたほうがいいんじゃないですか?」
予知が真に当たるのであれば由々しき問題だ。断片的な予知であれ伝えれば対策を練れるはずだ。
「いえ……。皇帝はわたくしの予知を聞き入れないでしょう。ご政務にお忙しいようですし、お噂では異能をお嫌いのようです。その証拠に一度も養花殿を訪れていらっしゃらないのでわたくしたちはまだ玉顔を存じません。それに、予知の証拠を問われても出せるはずもございませんし」
それは尤もだった。
「ただ、天還祭は前回もひと騒動ございましたので、心配ではございます」
「何かあったんですか?」
「はい。前回、曄武帝の天還祭は瑕疵残る祭祀でした。皇帝は激怒し、多くの血で祭祀の瑕疵を贖うこととなりました」
「多くの血……?」
「そうです。祭祀の妨害を企み、謀反を企てたとしてブルキュット族が粛正されました」
ブルキュット族。この名を聞いてアルマは臓腑が急に冷える気持だった。
(あたしの一族……。あたしが元居た場所……)
部族には楽しい思い出よりも苦い思い出のほうが多い。家族の記憶は歳の離れた実の兄がいたらしきこと以外、冷遇された思い出しかない。
シャマルと出会って数か月後に部族全滅の報を風の噂で知り、何らかの理由で曄国が殲滅に関わっていることもうっすらと耳にしている。故に、残党狩りや人買いに遭わぬようシャマルに出自を口外するなと口酸っぱく禁じられ、ボティルが非正規の手段でエイク族としての旅券を手に入れてくれた。
報を聞いた時、侘しさや衝撃はあったが絶望しなかったのは、シャマルが傍にいたからだ。ブルキュット族は最早己の帰るところではなかった。
だが、その要因が天還祭という国家祭祀にあると聞いて、突然、いかなる理由で殲滅の憂いにあったのかという疑問が頭をもたげた。当時は子供で疑問に思わなかったのだろう。そして、祭祀の瑕疵によりブルキュット族が滅びたように、次の天還祭にも瑕疵があると悪いことが起きるのだろうか。
咄嗟に言葉が紡げず、アルマは独りでに両手で口元を押さえていた。自覚がなかったが手が震えている。動揺しているのだろうかと自問するも答えは出なかった。
「そのお話、もっと聞かせてもらえませんか」
ようやくひねり出した言葉に、エルデニネは首を振る。
「“ブルキュットの悲劇”についてはわたくしもあまり詳しくは存じ上げません。ですが、曄時代の資料は破棄されておらず、まだ書庫にあると聞きます。伝手があればそちらを頼ってみてはいかがでしょう。しかし、あまり気味の良いお話ではございません」
「書庫は養花殿の人間でも自由に行き来できるんですか?」
「いいえ。ですから伝手を頼るのです。オルツィイにお聞きなさい」
エルデニネは袖の中から小さな手鈴を取り出して鳴らした。りーんと澄んだ音が部屋中に大きく響く。すぐにオルツィイとトーラェが戻ってきた。
「あの、もしあたしが王様に会えたら、予知のこと、伝えてもいいですか」
エルデニネはやや逡巡したのちに頷いた。
「よろしいですよ。皇帝が信じるというのであれば」
「有難う、エルデニネ様」
アルマの礼の言葉に、彼女は少しだけ表情を和らげて部屋を去って行った。
これから己と天還祭は一体どうなっていくのだろう。ブルキュット族はどうして滅びてしまったのだろうと考えると、背中に風が吹く心地がして不安がよぎり薄ら寒かった。そして、シャマルは今どこで何をしているのだろうと思うと、急に人肌恋しくなってきたのだった。
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