第一章 護衛(2)
山道の麓を抜けると、道は徐々に広くなり、木々を切り開いて作った大街道に出た。
大街道は三本の道路から成っており、即ち、民道二本――歩道と車道、そして往路と復路に分かれている――と皇道一本である。町中のように石畳や
ここは交易が盛んになって、
画期的なのは曄が武帝時代に試みた車輪幅の統一事業を瑛が引き継いだため、車両の交通が格段に便利になったことだ。加えて駅制も徐々に充実させていくつもりらしい。瑛にも国の中央から同盟の各都市へ道を敷くことで集権する狙いがあるのかもしれないとシャマルなどは考えている。
大街道を行き交う車の流れの乗る。
馬だけでなく牛や驢馬、それに駱駝など様々な動物が人や荷を運んでいる。
さすが叩き均された道なだけあって、さっきまでの山道とは随分違う。轍の凹凸しかないせいで、しがみつかなくても体が大きく揺れる心配がない。ここにきて幕の中の全員はやっと安堵の息を吐いた。
「もうすぐハシャルの町に着くぞ」
皆が残した轍に沿って馬を操るシャマルが言った。短弓はすっかり幕の中に放り込まれている。
シャマルとアルマには馴染み深いこの周辺の治安は安定しているので、もう襲われる心配はない。万が一襲われるとしたら、この場が突如戦場になった時ぐらいであろう。
馬車の窓から板を外す。周囲を見ると低木や草が地を這うように広がっていた。
所々に小高い丘があり、場所によっては麓に村があったりなかったりする。慎ましい村々で、家は数えるほどだ。馬車に乗って眺めると互いの村は一刻もあれば十分につきそうな距離に見える。
暫くすると一際高く、広い丘が見えてきた。とはいえ山ほどの高さは持ち合わせておらない。
黄土色の煉瓦で造られた外壁が丘をぐるりと一周囲んでいて、沢山の煙突が立ち並んでいる。煙突からは雲のように煙が吐き出されていて、周辺の村々と比較するといかにも賑やかそうであった。
背後には山頂にわずかな万年雪を残した神山サモ・タグが急峻な青嶺を左右に伸ばしている。サモ・タグにかかったちぎった綿のような雲と町の煙は混ざり合って見え、遠目にはどちらが雲でどちらが煙なのか境界を見分けがたい。日が暮れてきて尚更だった。
この周辺はエイク族の自治領である。
エイク族は熊を祖霊と崇めていて、力を善とする部族だ。だから、剣士や傭兵が多く、また彼らが扱う為武器の鍛冶師が多い。煙突は武器職人たちの工房であろう。
外壁の迫持をくぐる。瑛の
指定された商工所はハシャルの町の中腹にある。朱色の丸瓦が石灰で繋ぎ止められた異国風の建物だ。エイクの建物は殆どが山で採れる灰褐色の岩を大きめに加工し、石積みしたもので、屋根は竹などの木材を敷いて上から泥や粘土で固めており、平らである。なので、商工所の傾斜のある朱色の瓦屋根は特異に映る。目印には良いのだろう。
「ふう、何とか無事着いたな」
荷駄を下ろし終えると、商人は当初の約束通りの金をシャマルに手渡した。シャマルはしっかりと報酬を数えて不足ないと分かると一息ついて馬を撫でた。鹿毛が夕闇で黒色に映る。
「お前たちもよく頑張ったな」
馬というのは意外にも重い荷を引いたまま長距離を歩ききれない生き物なのだ。だから駅で馬を変える。今回は大量の交易品を積んだ馬車を牽引するどころか山間の悪路だった。言葉が通じなくとも馬たちを労うべきであろう。
商人たちが商工所に消えるのを見送って、シャマルとアルマはこの場を去った。徒歩である。
石灰岩の石畳を二人は慣れた足取りで歩く。というのも、二人はこの町を拠点にしている。拠点と言っても家はない。定宿があるだけだ。
傭兵と鍛冶屋があふれるハシャルの町で、シャマルとアルマも例に漏れず傭兵であった。ただ、二人は戦には志願しない。護衛や護送が主な仕事なので自分たちでは用心棒だと言っている。
「アルマ」
先を歩くシャマルが背を見せたまま呼びかけた。アルマはどきっとして短く刈ったシャマルの赤茶色の頭から目を伏せた。
「分かっていると思うけど」
「う、うん……。ごめんってば」
か細い声で先手を打って謝る。多分シャマルは怒っている、と思った。そして呆れている。或いは両方かもしれない。だからといってアルマができることといえば、ただ気まずそうに表面だけでもしおらしく反省するだけだった。
「何がごめんなのか言ってみなさい」
「え、えーと……」
やはり怒っているなと確信して、アルマは視線を泳がせた。即答しない妙な間に、シャマルはアルマが心の底から悪いことをしたと考えていないのだろうと嘆息した。
「分かってないっていうのかい? なら言うけどね、まずこんな時間に依頼を受けない」
日暮れにさしかかる山越えは野生動物にも山賊にも出会い危ない。下手すれば城壁の門が閉まって町に入れないかもしれないのだ。それに目立つ通りを通らず、旅券すら持っているか怪しい商人を暗がりにこそこそと護送している場面を役人に見つかりでもすれば、シャマルたちも嫌疑にかけられてしまうかもしれない。罪人が商人に身をやつしていたり、商人が金欲しさに匿うことも少なくないからだ。だから、日中でない場合、シャマルは依頼を断ることにしている。
「う、うん、でもどうしても今日中に納品しないといけないって困ってたし、行先も同じだったから……」
「次に勝手に受けない」
「相談せずにあの人たちを連れてきたのは悪かったってば」
「相談はしなさい。それで、護衛と馬借の依頼を混ぜて受けない。受けるにしても僕たちはボティルからの斡旋じゃないと基本的には受けないようにしているんだ。勝手に依頼を受けるとこれまでの恩義に反する」
「はい……」
「こんな時間に受けて、しかも相手の言いなりに道も指定されているし、危険要素が山積みだったって、それくらいはさすがに分かるよね?」
「でもあたしとシャマルならなんとかなるかなって……」
アルマが髪をいじり始めた。都合が悪くなるとそわそわして毛先を弄んで気を紛らわせてしまう。悪い癖だ。
シャマルが立ち止った。振り返った剣幕はアルマが想像していた以上に怒っている。
「何とかなったけど、いつも何とかなるわけじゃないぞ! ボティルからの斡旋じゃない場合、僕たちの身元が明るみに出るのはまずいってアルマも分かっているよね」
「ごっ、ごめんって――、あ……」
シャマルの右耳をかすめるように傷がついていた。もう血は乾いていて、深手ではなかったが、さっき山賊に射られた矢傷だろう。
「ごめんなさい。もう勝手しません。今度は先にシャマルと相談する。……耳、ごめんなさい」
毒が塗ってなくて良かった、とアルマは思った。
もしも毒薬を塗った矢であったなら、掠るだけで最悪死に至るかもしれない。そうでなくとも即効性の痺れや痛みで起き上がれないうちに金品を奪い取られて身を傷つけられるかもしれない。
傷があるのは耳だけではない。シャマルの顔には二つの消えない傷がある。
一つは左頬に。もう一つは右頬から鼻っ柱に向かっての斜めの大きな傷だ。どれもアルマを守ろうとしてついたものだ。赤みがかった茶色の前髪が短いせいで傷がより目立つ。
「別にこんな傷はどうでもいいんだ。あかぎれみたいなもんだし」
急に涙がこみ上げてきそうになった。あかぎれみたいだということは少しは痛むのだ。それを察したのかシャマルはアルマの肩を叩く。
「僕一人ならいいけども、君にも危害が及ぶかもしれないから言っているんだ。夜の護送っていうのは日中とは違う。過信は禁物だ。妹に何かあったらって考えるのは兄なら普通のことだろ。さ、ボティルのところに帰ろう」
シャマルはアルマの隣に並んだ。シャマルのほうが頭半分背が高い。歳も十離れている。傭兵たちの中では細身なほうだが、引き締まった筋肉をしている。アルマの背を押す掌は固い
肉刺はアルマを守るために形成されたものだ。元々弓術に優れた才能を発揮していたシャマルは、接近戦でアルマが襲われた時に弓では近すぎて打てなかったことを反省して剣術を習い始めた。右頬の鼻っ柱にかけての大きな傷はその時のものだ。
放浪していた二人に剣や棒を教え、用心棒としての生き方を示し、定宿を作ってくれたのがボティルだ。
ボティルはエイク族の男で四十三の壮年である。
斡旋所は名を『
斡旋所の木の扉をくぐると、五色の紐に連なった鈴が鈍く鳴る。
「ボティル!」
木製の勘定台の奥で書きものをしていた男が顔をあげた。赤銅色をした太い眉の下の小さな瞳がシャマルとアルマを認めて見開いた。四つんばいの熊が透かし彫りが施された従業員用の細い扉から、筋肉と脂肪を蓄えた巨体を横向けにして出て来る。
「シャマル! アルマ! えらく遅かったじゃないか!」
ボティルは鍋つかみのような大きく分厚い手でシャマルとアルマの肩を交互に抱く。気を抜けば押し負けてしまいそうな力だが、彼の挨拶だ。
「部屋は開けているからへセルに鍵をもらってくれ。疲れたろ」
ボティルが左側の出入り口を親指で示した。この出入り口は宿屋兼食堂と繋がっている。勘定台を覗けば彼の妻であるへセルが店番をしているだろう。
「しっかし、なんだってこんなに遅くなった? お前たちに大事な仕事を頼みたいんだが今日はもう話す時間じゃないな」
彼は責めるわけではない。長年二人を見てきたせいもあるし、アルマが娘のチランに歳が近いせいで父親気分らしい。予定が不調和になると心配もあって訳を尋ねてくるのだ。
「ごめんなさい、師匠。あたしがシャマルに無断で依頼を受けてしまったの。それで予定が狂ってしまって」
「すまない、ボティル。あなたからの依頼しか受けないと言っていたのに裏切る形となってしまった。依頼書のない仕事だが経緯は説明できる。この金額も妥当だと思うから
シャマルが報酬にもらった金をボティルに渡す。ボティルは麻袋に入れられた硬貨を数えた。訝しげな顔をして、
「アルマ、一体何の依頼を受けたんだ?」
「一山向こうの村から荷の護送と峠越えと……」
「馬借だ」
シャマルは冷たい視線をアルマに送る。怒りは既に治まっているのだが、こうやってアルマに次がないよう促すのだ。
「そう、本来の依頼にはなかったんだけど、シャマルの馬の扱いを見て馬借も追加で……」
「なるほど」
ボティルは麻袋をシャマルに突き返した。
「なら、それは
彼はにっこりと笑った。
「シャマル。別に俺に義理立てする必要はねえさ。お前たちは今や
いつまでも勝手なことをして、と叱るんじゃねえぞ、とボティルはシャマルに言った。もう既にアルマの勝手な行動を叱ったことが見透かされている。父親気分で過保護かと思えば、一丁前扱いをする。シャマル自身も妹に対しては過保護ぎみなので、どういうふうな匙加減でアルマを導けば良いのか戸惑う。
アルマはボティルの言葉に感激した。
「師匠ぅ!」
筋肉の盛り上がった胸に抱きつく。彼は子供時代にしたように、今でもがしがしとアルマの頭を撫でる。ただ、加減が出来ないのでアルマの総髪はみるみるうちにぐしゃぐしゃの回転草のようになってしまった。まるで獅子の親子だ。
「もうアルマも十八なんだ。親がいればそろそろ嫁に行って、早けりゃ子を産む歳頃だ。シャマルにとっちゃいつまでも小さい妹かもしれんが、そろそろ大人の扱いをしてやらねえとな」
「心がけるよ……」
シャマルは気落ちした様子でため息を吐いた。
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