第一章 護衛(1)
山岳の隘路は足場が悪い。道、というにはあまりにも拙く、ここを行き交いした馬車の轍は大波に酔ったかのように揺らいだ軌跡を描いている。小石なら車輪が弾いたが、中には小石というには些か可愛げないものもある。それらをうまいこと躱さねば馬車が横転し、最悪の場合、荷駄ともども崖に転落してしまう。
そもそも、この崖っぷちを馬車で渡ることが間違っているのだ。大きさに道幅が釣り合っていない。それ以前に山を二頭立ての四輪馬車で走行したいというのが間違っている。精々
シャマルは思うものの、そう悠長にできぬほどに東西の交易は盛んらしい。互いの需要が多いということだ。
手綱を握って気を引き締める。憂鬱になっている場合ではなかった。さまざまな懸念が胸を曇らせる。早く目的地に着いてしまわねばいけない。初夏に差しかかったとはいえ、まだ日が落ちるのは早い。空がかげってきたからには、いよいよ急がねばなるまい。
用心棒のはずの己が馬借として駆り出されるのは不本意ではあった。だが、腕の見せ所でもあった。シャマルは馬を駆るのが得意だからだ。
耳を澄ませる。明るい新緑を感じるのは山肌の表面だけである。手前の木々を除けば、山の内側は暗くて深い。山路から一見して奥まで探るのは不可能だ。鳥や獣の音、馬車の車輪の音、幌の中のかしましい話し声。それらに混じって招かれざる者の音がしないか五感を研ぎ澄ます。
ざざっと木々が鳴る。手綱を締めて警戒する。
尖った角のある灰褐色の四肢が茂みから躍り出た。
「何だ、チルーか」
腰に携えた剣を取ろうとした左手を手綱に戻す。
チルーは山岳によくいる野生動物で、牛や羊の仲間らしいが、シャマルには鹿に見える。まだ年若そうなチルーは健脚で地面を蹴って巧みに崖を下っていく。岩肌の小さな突起を動物たちは危なげもなく歩くが、人はこうも行くまい。シャマルは野生の優れた能力にいつもながら感嘆させられる。
だが、安堵したのも束の間、曲がり角を過ぎるとシャマルは途端に馬車を速める。木々の枝葉の隙間を縫って身を潜める、複数の人影を認めたからだ。
「乱暴に動くからしっかり掴まっておいてくれ!」
後輪の弾いた石がぱらぱらと乾いた音を立てて崖下に落ちる。馬車の幕から髪を頭頂でひとまとめにした女が顔を出す。
「ちょっと! どうなってんのよシャマル」
「しっかり掴まって! 君、顔を出すのはこっちじゃない。後ろだ!」
「もうっ!」
女はまとめた髪から頬に流れてきた三つ編みを背中に追い払いながら顔を引っ込めた。幕の中に戻り、口脇を下ぎながらごそごそと自分の荷物を漁る。段々と馬車の揺れが激しさを増してきたが、曲がり道を走っていても車体は安定している。さすがはシャマルの技術だ、と女は思ったが、同乗の商人たちはそうではないらしい。沢山の木箱や麻袋の間から不安げな顔を出す。
「大丈夫だろうなお嬢ちゃん」
「無事にたどり着けるんだろうな」
いずれも中年の髭を蓄えた男だ。そろって不安を色濃く映した眼差しを向けている。女とは親子ほど歳が離れた両者だが肝の据わり方は正反対だ。商人なので仕方あるまい。その妻と子供たちはいずれも荷の間に身を寄せて抱き合っていた。馬車の中の全員がまだ成熟にはまだ満たない女に庇護を求めていた。
「まーかせて!」
女は頭頂でまとめた三つ編み混じりの髪を揺らして白い歯を見せ、手に取った短弓の弦を空のまま引いて鳴らす。弦の音がびんっと空を震わせる。馬車の後部へ移動すると、矢筒を一つは足元に、もう一つは背に結んで、その中から茶色の矢羽のついた矢を取る。
「あっ、そこの弓矢、もしシャマルが欲しいって言ったら渡してもらえます?」
彼女は振り返らず、荷物の横に置かれたもう一本の弓を示した。
女は後方の幕の隙間からじっと外を狙う。
「来るぞ! 山賊だ! 挟まれているから気をつけろよ、アルマ」
シャマルが大声を張った。
「了解! 前は任せたわよ、シャマル!」
返事と同時にアルマと呼ばれた女が矢を射る。素早く二本。馬の悲愴ないななきが聞こえ、どっと何者かが悲鳴を上げて倒れる。
また矢をつがえる。
「まずは一人。ふふっ、土煙が目くらましには丁度いい感じじゃない」
不敵な笑みを浮かべて車輪が巻き上げる土煙の向こう側に矢を放つ。再び悲鳴がこだまする。よし、と呟くとアルマはからくり人形のように次々と矢をつがえていった。
「何て技だ……」
アルマの弓技を見て男が感嘆した。馬車を追う山賊たちが一人また一人とアルマの弓矢の前に倒れていく。彼らは皆鉈や剣を持っていて、弓を携えていないのが幸いだった。
「有難う。あなたたち、雇った用心棒があたしたちで運がいいわ」
アルマは馬車の中に顔を隠す。矢を補充すると、また外の様子を幌の切れ目から覗く。馬車がシャマルに倒されたであろう山賊を追い抜いて行く。刀傷を負って血を流している。地面に臥せって動かないが、シャマルのことなので命を取ってはいないのだろう。
「そっちはどうだ、アルマ!」
「土煙で正確な数は分からないけど、あと四五人ってとこかな。追って来ずに仲間を回収してくれれば良いんだけど」
「どうだろうな」
山賊が追って来ないよう祈ったが、シャマルは気を抜いていないようだった。馬車が走る速さもまだ落としてはいない。このまま夜を迎えて山に取り残されることになってはまずいからだ。
蛇行した道が続く。馬車はいよいよ凹凸の激しい地面に揺れ動いた。
商人たちが指定したこの道は山中の悪路であるが、依頼を受けた町から運送先まで一日の短縮ができる近道でもあった。なにより、
とは言ってもエイク族の旅券さえあれば通行料は減額、または免除される。シャマルとアルマの旅券があれば大きな負担にはならないのだ。だが、そのことを仕事を引き受けたアルマが伝えていないのか、或いは商人に敢えてこの道を選ぶ理由があるのか、今となってはシャマルにはどうでも良いことだ。そも、役所に面倒な旅券を取らずに好き勝手各地の関所を通過する無法者は珍しくないのだから。
地図によればこの道を抜けると山道は終わり、エイク族が二年前に新興したばかりの瑛国に助力を乞うて施工した道・大街道に出る。そこまで行けば目的の町・ハシャルまでは目と鼻の先だ。反対に、山道を下り終えるまでは山賊たちの自在の領域と言えた。
「もう少々このままの速さで走るから皆気を付けて」
剣を腰の鞘に戻しながら、シャマルが言った。瞬間、馬車前方の壁に矢が突き刺さる。
「シャマル!? ――うわっ!」
馬車が今までになく蛇行する。アルマは体勢を崩して香辛料の入った麻袋に顔を打ち付けた。黄色い粉が舞って、香辛料独特の強い香りが鼻を突きぬける。同時にむず痒い。
これまで速度を上げても横転という言葉が頭をよぎらないほどに安定した走りだったが、ここにきて狭い道幅を左右に激しく動く。シャマルが山賊の矢を避けて走っているのだろう。二本目の矢が今度は亀の甲羅のような屋根に突き刺さった。傷の隙間から鏃が覗いて薄い光が床板を照らした。
「ねえ! シャマル! 無事?」
シャマルの舌打ちが聞こえた。
「アルマ、弓を!」
「はい!」
アルマは重ねられた香辛料の麻袋が崩れないよう細心の注意を払って身を起こすと、すぐにシャマルの短弓を取って彼に渡した。最初、商人の男たちに頼んでいたが、彼らは身がすくんで動けそうになかった。
「すまない」
シャマルは弓矢を受け取ると、手綱から手を放し、馬の背に飛び乗った。矢が射かけられる方向から相手方の居場所は予測できている。足で馬の腹を挟んで動きを操りながら、弓を構える。相手との距離を詰める。
ひゅんと相手の矢がシャマルの耳をかすめる。と、同時にシャマルも矢を放った。
短い悲鳴がして樹上から男が転落する。手応えを感じたものの、シャマルはもう一度矢をつがえた。
「アルマ、後方の追手は?」
アルマは後方の幕をめくって様子を伺う。下方でまだ土煙が舞っているが、馬の蹄の音も男たちの声もしない。後方にいた残りの山賊たちはアルマの願い通り追うのをやめて矢に倒れた仲間たちを回収したのだろう。死んでいれば金目の物以外回収する必要もないが、彼らは怪我人である。傷を癒せばまた労働力や戦力になりうる。
「来てない!」
「ならこれで終わりだな」
シャマルがまた矢を放った。前方の小高い崖の上で男が悲鳴を上げる。山賊の男は馬車が通過すると同時にこの隘路に転落した。
アルマは馬車の後輪が男を轢かずに済んでほっとした。だが命が無事かは分からなかった。打ち所が悪ければ命運が尽きるかもしれない。シャマルはこの男で終わりだと言ったが、念のため馬車の後方で哨戒する。商人たちもアルマが敵襲に気を張っているようすを目にしたほうが幾分か安心するだろう。
一刻もかからずに山道は終焉を迎えた。
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