ゼロ編 第5話 変身
響くは声、声と言う幾多の声。
声は深き天の底から終わりなく響いている。
煩わしい、うるさい、上るな下れ、潰れろ、這え、見上げるな、触るな、近寄るな、入ってくるな!
――死ね!
「レイちゃん!」
こだまの呼び声に零司は目を覚ます。
「着いたよ」
周囲を見渡した零司は電車のシートに座っているのを思い出した。
「お兄ちゃん、なんかうなされていたけど?」
「あ~多分、これから財布にダメージが入る予知夢を見たからだろうよ」
寝ぼけた頭をかきながら零司はシートから立ち上がった。
「財布にダメージってナニカナ、カナ~?」
声に乾きを与えてこだまが意地悪に聞いてくる。
「そりゃもちろん、耳掻き報酬のケーキバイキングだろうよ」
「あれれ~膝枕耳掻きの報酬はケーキ二つとアイスダブルのはずだけど~?」
「あんら~そうだったかしら~?」
こだまに合わせて零司はすっとぼける。
「ふざけないで行くわよ、二人とも」
壱子に急かされた零司とこだまはそろって肩をすくめた。
「今日はお兄ちゃんのリンクスを買いに来たんでしょう? ケーキバイキングはその後よ」
日曜のこの日、繁華街へと電車でたどり着いた。
目的は零司のパーソナル・リンクスの購入。
なのだが、妹たちにとって購入は前座で本命は何なのか、弾ませる声は楽しみを隠し切れていない。
「はい、これ」
零司は駅員に切符なる乗車券を渡す。
本来ならリンクスの通信機能により、運賃は電子マネー決算される。
だが、スマートフォンを代替機としている零司は乗車前に券売機で現金購入する手間をかけ、切符を駅員に手渡すという更なる手間をかけていた。
「お兄ちゃん、遅い!」
ようやく通り抜ける零司だが、改札口の向こう側で待つ壱子は腰に手を当てご立腹である。
「まあまあ」
そんな壱子をこだまが窘める。
零司は改めて二人の服装を見る。
ジージャンに動きやすいシャツとホットパンツ姿のこだま。
ふんわりと身体のラインを隠すワンピース姿の壱子。
対照的な二人であるが、よく似合っている。
特に、瑞々しく健康的なこだまの太ももは、零司の視線を引き寄せてしまうほど魅力的だ。
いやいや、ワンピースの袖から覗く壱子の二の腕も大変捨てがたいから困る。
「レイちゃん、今私の太もも見たでしょ?」
「おう、今日のランチはフライドチキンにしようと思い立った程にな」
「いやん、セクハラ~」
「バカ言ってないで行くわよ!」
「痛ってて!」
兄が二の腕に視線を集わせていたなど妹には承知の上。
左耳を掴んだ壱子はそのまま零司を引っ張っていく。
「俺だけかよ!」
「ちょうどいいからよ!」
「なら私、反対側摘む!」
「やめんかこら!」
振り払わんとする零司だが、こだまは悪魔を唇に宿しては、右の二の腕に自らの胸を押し当てていた。
「あ、やめんで――痛い痛い!」
柔らかさを堪能する零司は同時に、痛みを味わう天国と地獄に挟まれていた。
パーソナル・リンクスは装着する携帯端末である。
起動認証には網膜、音声、声紋など十重二十重の認証がシステムが施されている。
パーソナル成し得る個人を示す中核のチップには身分証を兼ねた個人情報が内包されている。
新しく機種を購入する場合、中核を為すチップを役所に申請して入手。
機種を変更する場合、チップ移植の書類を役所に届ける必要がある。
双方とも共通して、政府公認のショップで機種にチップを組み込めばならぬこと。
個人情報がインターネットの発達と共に厳重に管理され続けた時代。
簡単に他人に偽られぬための処置とはいえ、アナログ的な手間に対する不満は絶えずにいた。
「終わった!」
店舗から歩行者天国へと一歩出たこだまは万歳と両手を上げる。
「あ~これがリンクスのある当たり前の生活か……広告多い!」
新しい青のリンクスを左耳に装着する零司は、網膜に映るネットワークの風景に感嘆とする。
裸眼で見る光景は殺風景な町並みだが、リンクスを介した光景は町中AR広告で溢れている。
情報量を適度にカットしなければ思考が飽和して停止しそうだ。
「調整っと」
宙空に指を走らせる零司はAR広告の表示を調整する。
食べたいものだけを食べるように、見たいものだけを見る。
それは時代が変わっても変わりはない。
「データはよし、OK」
既に腕時計内のバックアップデータはクラウドサーバーを介してリンクスへの移行は完了していた。
「後一時間はかかるかと思ったわ」
「まあレイちゃんが事前に書類とかチップを用意していたお陰だよ」
「別に店の中で待ってなくてもよかったんだぞ?」
「暇潰しに動画見てたし、ちょっと待つくらい苦でもなんでもないわ」
「それじゃケーキバイキング行こうか」
「いやいやランチが先だろ」
「ランチがなければケーキを食べればいいのよ」
「意味不明だし」
和気藹々と話が弾む中、零司はリンクスで近隣のレストランを検索する。
時代が移ろうと機器を使用して検索、使用者の趣味趣向に沿って要望データを開示するシステムに変化はなかった。
「ん~む、近隣に三カ所か」
男の見栄張りではないが、壱子とこだまの心と胃袋を満足できるだけの予算はばっちりとある。
三年間、両親の仕事を手伝って稼いだ金だ。
今後のために節約は大事だが、三年振りに再会した可愛い妹と幼なじみを喜ばせてあげたいという兄の願望もある。
「ケーキもアイスもあるビュッフェ形式でいいかな?」
五分ほど歩いた場所に対象の店はある。
来店者の評価も高く、和洋中の料理で質、種類良しと文句なし。
零司の網膜には実際に来店した者たちの評価が流れている。
どうやらこの店最大の売りはパティシエが客の前でクレープを調理し提供すること。
フランベによる鮮やかな炎を描き、盛りつけられたフルーツの色彩が見る者を楽しませる。
ケーキやアイスではないが、満足すること間違いなし。
「よし、壱子、こだま、この店に……」
データリンクで各々のリンクスに対象店舗の情報を転送せんとする。
だが、引き寄せられるように動いた目線が、歩行者の中に混じる人物を捉え、転送の手を止めた。
「どうしたのレイちゃん」
緩んだ表情を零司が引き締めたことから、こだまは何かを感じて怪訝そうに聞いてくる。
零司は無意識のまま二人を守るように前へ出ていた。
「……あいつ」
晴天の真っ昼間に不似合いなフード付きコート。
神崎に注意を促されていたことから、リンクスの顔認証システムが自動起動、警告を表示した。
「確か、山田隆だったか」
警官襲撃容疑者の男。
交通事故で死亡していた男。
病院の霊安室から消え、敷地内を一人で闊歩して姿を眩ました男。
その男が今、歩行者天国の真ん中で電柱のように一人立っている。
「おっさんに連絡すべきか」
死人だったとしても一応は警官襲撃の容疑者。
警察に協力するのは市民の勤めである。
「あ、おっさんか、今、壱子とこだまの三人で――だあああああっ! もうおらぶな叫ぶな、いいから映像送るから!」
たかだか娘と出かけただけで怒鳴り叫ぶなど、どれだけ沸点が低いのやら。
零司は呆れるも神崎のリンクスへとカメラ映像の中継を開始する。
「ああ、分かっているよ。今すぐ壱子とこだま連れて離れ、る、から……えっ?」
グシャリと、何かが潰れる生々しい音が響く。
賑わっていた歩行者天国は、この音一つで静寂に奪われ、誰もが視線を一カ所に集わねばならなくなった。
コートの男の両手は真っ赤に染まり、足下には頭部を潰された人間が二人倒れている。
「う、嘘、え、あ、頭が」
「きっ、きゃあああああああああっ!」
恐怖は瞬く間に伝播し、悲鳴は連鎖的に発生する。
誰もが鮮血に染まったコートの男から逃げようとするも、血に染まった手が逃がさない。
まるで紙屑でも潰すかのように、コートの男は軽々と人間の頭部を誰彼構わず無差別に潰していく。
潰すだけではない。
手刀を腹に突き入れれば、中の臓物を抉り出してはぶちまけていた。
「壱子、こだま逃げるぞ!」
零司は悲鳴にかき消されぬよう叫びながら腕時計のベゼルを操作する。
あれは誰だ! あの男は何者だ!
未知と恐怖が入り混じり、本能が足を震えさせて逃げろと叫ぶ。
一人で逃げるのは容易い。
だが、壱子とこだまを置いて逃げるなど論外。
兄としての矜持が意識を震い立たせ、行動を誘発させる。
「ご、ごめん、こ、腰が……」
「あ、あっあっ!」
目の前で起こった惨劇にこだまは腰を抜かし、壱子はショックにより膝をついている。
零司は二人を左右の肩に担いで走り出さんとした。
「へっ?」
一歩踏み出したと同時、零司の左側に赤き影が射す。
血に染まったフードの男が野獣のような目で零司に肉薄していた。
フードの男が口を開くなり零司のリンクスにノイズが走る。
網膜と鼓膜、二つの膜に走るノイズは零司の取るべき行動を阻害していた。
「ぐっ、し、しまっ!」
ノイズの呻きから回復した瞬間、零司は左手首をフードの男に掴まれる。
ただ手首を掴まれているはずが、全身を掴まれているような恐怖が襲う。
そのままへし折られんとした時、どこからか声がした。
『ふんぬっ!』
気合いで引き締めたような声がするなり、フードの男は弾かれるようにして零司から手を離す。
身を翻すように着地したフードの男は、掴んでいた手を震わせながら獣のような目で零司を睨んでいた。
「な、なんか知らんが今の内に!」
漠然とする間などない。
零司は壱子とこだまを担ぎ上げれば、腕時計の効果が継続している間にと駆けだしていた。
(かわいい白! 大人の黒!)
バカだと零司は己を叱りつける。
やむを得ず視界に入ったとはいえ認識するとは何事か。
状況は悪化の一途を辿っている。
リンクスの背面カメラにはフードの男が逃げ惑う人々の頭部を容赦なく潰しては臓物を引きずり出す。
震える肩、噛みしめる歯に苛立ちを抱こうと立ち止まるのを止めない。
「があっ!」
一つの風切り音が響いた時、零司は背後から衝撃に貫かれた。
衝撃により体勢を崩し、壱子とこだまの身体が呆気なくアスファルトの上に落ちる。
原因は頭部のない人間が投げつけられたと倒れ伏す瞬間に把握した。
「壱子、こだま!」
零司の意識は辛うじて残ろうと、激突の衝撃は背骨に痺れを走らせ、起きあがるのを困難とさせる。
ただ壱子とこだまは気を失っているのかピクリとも動かない。
地に這うように唯一動く腕を動かし、二人の元に向かう零司の前に、フードの男が立ち塞がる。
フードの隙間から覗く野獣の目はどこか嘲笑に染まり、地に這う姿こそお似合いだと雄弁に笑う。
男の口が開く。
喉の奥から赤き光が集い、秒単位で膨張していく。
「う、うわあああああああっ!」
フードの男の口から唾のように火球が吐き出された。
無差別に放たれる火球は逃げ惑う人間を骨すら残さず焼き尽くし、アスファルトすら溶解させる。
肌を炙る熱風が苦悶を絞り出させ、放たれし火球の一つが零司たち三人に迫る。
『さあ、君はどうしたい!』
火球が間近に迫った瞬間、周囲の景色が灰色に染まる。
同時、声が零司の中で響いた。
「な、なんだこれ! そ、走馬燈か!」
『近いが違う。君の思考を加速させているだけだ』
声は端的に答えるも、引き締めるようにして問う。
『このままでは君たち三人は焼かれて死ぬだろう』
「お前誰だよ、いきなり現れて! それにあいつはなんだ! 人の頭を握り潰すわ、内臓ばら撒くわ、火を吐くわで、人間じゃねえだろう!」
『今は説明する時間が惜しい! さあ、守りたいなら、助けたいのなら変身するんだ! 叫べ、変身と!』
「変身って、おい!」
声に問おうと答えはない。
既に火球は眼前に迫っている。
この状況で選択など、生に繋がるとされる変身か、無力な死の二つしかない。
「ええい、タダで助かる命はないけど、壱子とこだまが助かるなら――変身!」
世界をあっこっち回ったが、日本のように楽に助かる国はない。
何かしらの手段で自己防衛しなければならず、タダで助かるなど虫がいい話。
零司は訳が分からずとも助かる手段として叫んでいた。
そして、零司の全身は量子の光に包まれる。
では、始めるとしよう。
今より始まるはゼロとイチの血の戦い。
逃げ場など放たれし炎によりすでに無く、生を渇望しようと意味はない。
仮に炎から逃げられようと、奴の手が命を容易く握り潰す。
もし、もしもだ。
この絶体絶命の状況を覆せる手段があるとすれば。
この不条理な状況を打破できる力があるとすれば。
絶望を潰えさせる希望があるとすれば。
行使せぬ理由などない。
「い、生きてる!」
零司は己が生きている状況に困惑と驚きを混じらせる。
「でも、な、そうだ! 壱子、こだま!」
大切な二人を思い出し振り返るも、首を動かす前に視界が動く。
車のバックモニターのように網膜は背後の映像を投影する。
「ほっ」
倒れ伏す二人に擦り傷以外めぼしい傷はなく、零司は胸をなで下ろす。
ただ、胸に当てた手はどこか硬く、身体全体が何かに填められたかのように動きづらい。
「ん?」
ふと幸運にも焼けずに残っていたカーブミラーが零司の姿を映す。
「へ、え、だ、誰? え? なにこのずんぐりむっくりなのは!」
カーブミラーに映るのは零司ではなかった。
映るのは着膨れにより膨れに膨れた白い宇宙服のような着ぐるみを来た人間一人。
頭頂部には側頭部へと伸びる一対の鋭利な角。
顔上半分を覆う半透明のバイザーには丸っこい目が浮かんでいる。
胸部や四肢には凹凸ある金属プレートがはめ込まれ、黒きラインが明滅しながら全身を走る。
「こんなゆるキャラもどきが俺であるわけないだろう。はい、右手、はい、左手……………………………お・れ・だ・こ・れ!」
目の前の現実を受け入れられぬ零司だが、カーブミラーに映る謎の宇宙服は当人の動きを寸分違わず行っている。
『やはりこの姿――ハルアーマーになったか』
頭に声が唐突に響く。
変身するよう零司を促した声だ。
「おい、謎の声、これどういうことだ!」
リンクスを介して通信していると睨み、声高に問う。
『生憎だが、説明している暇はない!』
ばっさりとまた切り捨ててきた。
『奴が来るぞ!』
警戒を孕む謎の声が鋭く言う。
同時、零司の頭の中に別なる声が響いた。
『虚無、虚無、やはり、やはり貴様、貴様、貴様、貴様、生きて、そこにいたかああああああああ!』
発生源はフードの男。
フードの男は怨念積もった声を上げながら自らの顔の皮膚に深く爪を立て、そのまま左右に引き裂いていた。
『殺す、殺す、今度こそ、殺す! 天に血を向く痴れ者が!』
着込んでいた服が、コートが内側から燃える。
男の顔の皮もまた漏れることなく燃え、中より異形の姿を露わとする。
「なっ、なな、なな、んだあいつは!」
零司は舌が絡まる勢いで絶句する。
フードの男など零司の前にいない。
いるのは、人間と獣を掛け合わせた虎の獣人であった。
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