ゼロ編 第4話 学校
「今から二〇年前に起こった事件です」
何一つ書かれていない黒板の前に立つ歴史教師は授業を行っていた。
教師の右耳にはパーソナル・リンクスが装着されている。
教卓の上に教科書は一冊もない。
チョーク代わりに持つタッチペンを黒板に走らせるも黒板には何一つ記されない。
それは生徒たちの机も同じ。
誰もがノートを広げておらず、机の上にタッチペンを直接走らせている。
ただ何一つ書かれていない授業風景があった。
「インターネットの発達によってネット接続された端末さえあれば、ショッピング、スポーツ観戦、ビジネス、納税など行えぬものはありませんでした。ちょっと失礼」
授業を中断した教師は視線を脇に走らせる。
そのままゆっくり、とある生徒の前まで歩を進めれば虚空に指を走らせた。
「起きんか、澤田!」
授業中に居眠りを堂々とかましていた男子生徒はパーソナル・リンクスを装着した右耳を押さえて飛び起きる。
「では授業を進めます」
起きたのを確認するなり教師は授業を再開する。
(昔の学校は普通に居眠りできたとか、お祖父ちゃんが言っていたわね)
壱子は眠気を耐える男子生徒を横目に祖父より語られた学校生活を思い出す。
昔は黒板にチョークと呼ばれる白い棒で授業内容を板書していた。
今はパーソナル・リンクスの拡張現実を利用して黒板に電子情報を表示させる。
昔は居眠りをしようならば教師が直接起こしていた。
今はパーソナル・リンクスの健康管理アプリにより、健康状態を常時把握することで仮病か、睡眠か、本当に体調が悪いのか、正確に把握できるようになった。
ちょっと気分が悪いので保健室で寝ていますとの申告をパーソナル・リンクスは瞬く間に体調の真偽を判断する。
先の男子生徒のように授業中の居眠りならばパーソナル・リンクスが起床アラートを発生させる。
パーソナル・リンクスを外せば良かろうと、学校によってはリンクスあっての授業であり出欠の確認すらこのツールで行う。
学校だけではない。
会社の退勤や労働時間の管理、ショッピング、スポーツ観戦、ビジネス、行政などへの納税や手続きが可能など行えぬものはほとんどない。
一人に一台と生活の基盤そのものがリンクスとそのネットワークによって機能している。
同時にネットワークエラーが仮に起これば機能しないことを意味していた。
(ホント、便利な世の中よね)
ネットワークと深く密接している故に。
購買の支払いもリンクスにより決済される。
食物にアレルギーが含まれていれば即座に警告を発する。
財布や定期を持ち歩くどころか、分厚い教科書を通学鞄に詰め込む必要すらない。
荷物になる一例が部活動で使う用具だ。
今朝、こだまが剣道に必要な道具袋を竹刀ケースで担いで登校した。
「確かに便利なインターネットですが、世界は一度、インターネットを失う事件が発生しました」
今より二〇年前の六月一二日、世界を変えた大規模サイバーテロ事件。
あらゆる基幹ソフトとセキュリティを崩壊させるウィルスがネットワークにばらまかれた。
携帯電話が通話不能になるなど序の口。
空港は管制を行えず飛行機は墜落、船舶はGPSの異常により座礁、自動運転の自動車は制御を狂わされ多重衝突する。
送電も停止したことで入院患者は治療を受けられず死亡する事態が世界各地で起き、火事が起ころうと通信できぬ故に燃焼被害を拡大させる。
敵国のサイバー攻撃だと、大統領が核ミサイルのスイッチを押しかけた。
「利便性に長け、密接すぎた故に仮想の障害は現実の障害へと結びつき、大規模な被害を生み出しました」
人命だけではない。
ネット通信不能により商業が停止したことで、天文学規模の経済被害すらもたらした。
世界大戦が三回は軽く行えるほどの被害総額だと後の経済学者は言う。
「何より世界を破壊したウィルスの開発者はわずか一〇歳の子供でした」
壁に落書きをすれば大人はどう反応するかのように、ただウィルスをばらまけばどのような障害が出るか見たかっただけ。
データを盗むことも、友達に自慢したいわけでもない。
よもや世界を破壊するレベルにまで至ると予測がつかないのは想像力の弱い小さき子供故だ。
「何一つ情報を把握できない中、一二時間後、ネットワークは復興します」
とある発明家の孤軍奮闘の活躍により、闇に閉ざされたネットワークは光を取り戻した。
ウィルスを完全除去するワクチンの開発と、ネットワーク基幹システムの新生。
彼の者がいなければ世界は、今なおネットワークを喪失した不自由で不便な生活を強いられていただろう。
「名前は北斗明治郎。皆さんがつけているパーソナル・リンクスの開発者でもあります」
今日ではインターネット再誕の父と教科書に顔写真が載るほど有名である。
壱子はちらほらと集う視線を流しながら、教師の講義に意識を集中させた。
身内が有名人ならば避けられぬ視線だと壱子は割り切っている。
(世間じゃ生きた偉人とか言われてるけど、お祖父ちゃんがネットワーク治したのって、パパとママの結婚式を邪魔された報復なのよね)
教科書には人々を助けるために奮起したと当人が語るも建前でしかない。
『息子と嫁さんの晴れの日を潰したのは、どこのどいつじゃ! 見つけ出して、晒してやんぞゴラッ!』
本音と真相を知るのは家族のみである。
「んで、壱子~いい加減話しなさいよ~」
授業後、壱子は背後から抱きしめられる形で女子クラスメイトから尋問を受けていた。
「何の話よ?」
「あんた、昨日、こだまとパトカーに乗っていたでしょ? 一人はこだまのパパさんだとしても、頬スリしてきた男って誰よ~」
「だーかーら、あれはお兄ちゃんだって何度も言ったじゃないの?」
何度目の返答か、壱子は辟易としたあまり胸がへこみそうだ。
クラス中の耳、それも男子生徒のほとんどが聞き耳を立てる始末ときた。
「あんた、お兄さんいたの?」
「いたわよ。ちょっと海外でパパたちの仕事手伝ってたのよ。それで昨日戻ってきたの」
正直言って、うっかり弁当を忘れたのは痛恨の極みだ。
自宅の電子ポストにメールは送信済みだが、兄当人が現れるならば話題沸騰は避けられないだろう。
(おじさんが来る期待はゼロよね)
つい先ほど、ネットワーク経由で壱子のパーソナル・リンクスに自宅防衛システムの使用が伝えられた。
どちらが弁当を学校に持って行くかの衝突の末、兄が使用したのなど百も承知。お隣さんの犠牲は致し方ないと割り切るしかない。
『生徒の呼び出しをします。一年B組北斗壱子さん、一年C組神崎こだまさん、お客様がお見えになっています。至急職員室までお越しください』
パーソナル・リンクスが普及しようと、アナログ的な部位はまだ残っていたりする。
今回のような呼び出しは、対象者がリンクスを外していた場合を考慮した故の処置であった。
「それじゃ職員室行ってくる」
校内放送の呼び出しを口実に、壱子はクラスメイトの尋問から脱出した。
「壱子、お兄さんだったら写真撮ってきて~」
「できたら、ね!」
廊下を早歩きで急ぐ中、ドアから顔を出すクラスメイトに壱子は返した。
「あ~もうお腹空いた~!」
隣には同じ速度で歩くこだまが口にクッキーをくわえていた。
クッキーは職員室到着と同時、こだまの胃の中に消える。
「お~来たか、待っていたぞ」
壱子とこだまが職員室に入れば、零司は椅子に座り湯飲み片手に教職員と話を弾ませていた。
そのまま立ち上がれば紙袋に入った弁当箱二つを壱子に渡す。
「ほれ、二人の弁当」
「ありがとう」
「助かった、このままお弁当来ないと空腹のあまり壱子食べちゃいそうだったよ」
「はっはっは、何をぬかすか、こだま、壱子を食うつもりなら俺を倒してからにしろ」
「がお~ん」
白い歯をむき出しにしてこだまは零司をかわいく威嚇する。
「あ、先生気にしないでください。いつものボケとボケのかけあいなんで」
壱子は顔を見合わせながら困惑する教師たちに補足を入れておく。
「いっちゃん、お父さん撃退したんだって?」
「ああ、夜勤明けだってのに無理して届けようとするからな、頑なに譲らないからちょっと休んでもらった」
「うんうん、休息は大事だよね」
大きな胸をこだまはなで下ろしていた。
「お兄ちゃん、リンクスないのによく学校入れたわね?」
「別にリンクスなくたって証明できるものがあれば問題ないさ」
茶を飲み干した零司は、ズボンのポケットから蒲鉾板状の携帯端末を取り出した。
「あ、それ知ってる。スマートフォンっていう昔の端末でしょ?」
「お、こだま。知ってたか」
「さっき授業で知った」
スマートフォンは仮想アイコンもなければ、網膜投影もない。
更には量子ではなく電波で情報をやりとりする。
操作するには直に指先でディスプレイに触れなければならず、稼働時間もパーソナル・リンクスの前世代機であることから短い。
充電方法ですら、リンクスは無線電源による充電が可能に対し、スマートフォンは充電の度、電源プラグにコード付き充電器を差し込む有線充電が必要となる。
電源プラグやコンセントなど家庭内から当に廃れ、今では無線電源供給システムが一般化している。
パーソナル・リンクスの稼働時間が一〇とすればスマートフォンは〇,一と先発機と後発機特有の開きがあった。
「バックアップデータはあったから、必要な身分証明データだけこれに入れてきた」
端末の形はなんであろうと、己の身分を証明できれば良いのだ。
祖父がハード、ソフト共にカスタマイズしてくれたお陰で既存の社会システムに問題なくアクセスできる。
スマートフォンには最低限だが、網膜と指紋認証のシステムが搭載されている。
個人を電子的に証明するシステム故、スマートフォンの使用に何一つ問題はなかった。
「ちなみに今の俺の肩書き」
零司がスマートフォンのディスプレイを指で弾けば、電子名刺が表示された。
<北斗研究所、所長助手、北斗零司>
「ウソ、私の幼なじみ、脱無職してる!」
こだまが演技臭く口元を手で抑えて驚いていた。
「コネじゃん」
対して妹の壱子は冷ややかな反応であった。
「なんか祖父さんがしばらく研究手伝えってさ。働き次第で、どっかの大学に編入試験受けさせる紹介状出してやるって条件付きでね」
「ならお兄ちゃん、どこの大学行くの?」
「それは追々な」
はぐらかすつもりはなかったが、訊ねた壱子は不満顔である。
「可愛い顔で、そんな顔するなって、道は探せば沢山あるんだ。祖父さんのように発明家目指すのもいいし、親父たちのように考古学の道に進むのもいい」
「なら国家公務員目指すと良いよ」
こだまが零司に身を寄せれば、つま先立ちで囁いた。
「公務員だ~?」
零司は演技臭く眉根を潜ませては訊ね返す。
「うんうん、国家公務員試験の上級甲種試験、I種試験に合格するの」
「要はキャリア組になれってか?」
「そうして、私を養いなさい。永久就職させなさい。専業主婦にさせなさい。ほ~らレイちゃん、今から勉強がんばって、痛ったた~」
「確かに将来性はあるが、自分が楽したいために人の将来勝手に決めてんじゃね~よ」
暗示をかけるように囁き続けるこだまの小鼻を零司は摘む。
「え、えっと、二人はそういう、関係なのかな?」
教師の一人が困惑顔を浮かべている。
「「いえ、ただの幼なじみです」」
幼なじみ二人は阿吽の呼吸で言葉を重ねるだけでなく、互いの手と手を重ねては身体を向き合わせていた。
「先生、まともに相手するだけで徒労ですよ」
ほんの少し目を離した間に、零司とこだまは器用に踊っている。
ダンスの経験と知識はないのだが、テレビドラマに出る舞踏会で踊っていそうなダンスである。
「お~れとしては、もう少し身長あって~料理できる相手がいいな~」
「わ~たしだって~もう少し将来性があって~甲斐性のある相手がいいな~」
零司はこだまの手を引き、胸元へと抱き寄せれば、踏み出される足をぶつけることなくステップを踏み舞う。
「というわけで、ベストマッチではなく」
「ミスマッチということで」
こだまの腰に手を当てた零司はくるりと一回転。
改めて向かい合えば、こだまは言う。
「ならレイちゃん、料理できるの?」
「当然、キャンプ料理はお手の物。ちなみに得意料理は現地のトカゲを使った煮込みカレーだ」
爬虫類を使用した料理だと知るなり、職員室の何名かが苦い顔をする。
「美味しいの?」
「肉質は鳥に似て淡泊で美味いぞ」
逆に顔を喜ばせたのはこだまだ。
「壱子、作――っ!」
「作らないし、もし作ったならキッチン出入り禁止どころか、食事抜き!」
「「が~ん」」
釘どころか杭を刺してきた壱子に零司とこだまは手を繋いだまま、がっくりと肩を落としていた。
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