第九章

第九章

「本人はそばが入ってくるまで高粱で良いと言っていましたけどねえ、しかしあまりにも人が良すぎるというか、自身が逆戻りしても良いという口ぶりで。」

「そうですよね。もうちょっと、わがままに成っても良いのではないでしょうか。高粱はやめてくれ。そばがほしい。そのくらい主張してもおかしくないんですけどねえ。不平不満も何もいわない。勿論日本人は不満を口にするのは苦手だという事は知っていますよ。それでも酷すぎます。いくら苦手でも、自分の体調がかかってくれば、何か口にすると思うんですけど、一回もないんですよ。おかしいじゃありませんか。」

マークがそう愚痴をもらすと、チボーはすぐに彼の話に同調した。

「それにですね、昨日から少しですけど、せき込む様になりました。多かれ少なかれ苦しいとかなんとか訴えるはずなんですが、何も言わない。まるで言ってはいけないと思っているように見える。」

「はい、お兄さん。僕もそこがおかしいと思うんです。単に遠慮しているのかなあと思っていましたが、それにしては度が過ぎてます。何もしないでただ眠っているだけでは、どうにもならないことくらい、本人もわかっていると思うんですがねえ。」

「そうですよ。あそこまで進んでしまった時も、本人が体が辛いと泣いて訴えてもいいはずなのに、それが一度もなかった。トラーが見つけてくれて、やっとおかしくなっていたのに、気が付いたでしょう。あの時の顔は、ガス室送られるユダヤ人にそっくり。」

「お兄さん、彼ももしかしたらそういう過去を持っていたのではありませんかね。日本にいるけれど、いてはいけないような。日本にもそういう人がいたでしょう。アイヌとか。あ、まてよ、映画で見たけど、アイヌとは顔つきが違うなあ。そんな武骨な顔ではありませんしねえ、、、。これはどういうことかなあ。」

二人が、顔を見合わせて、お茶を飲みながらそう話していると、玄関のドアがバタンと開いて、杉三とトラーが入ってきた。

「おう、杉ちゃんおかえり。で、粉屋さんは当たってみた?」

「うん、おとらちゃんにうまく通訳してもらって、聞いてみたが、そばをこねて麺にして、ずるずる食べるという文化はないらしい。わかってくれなかったよ。こっちではそば粉というと、ただのケーキの材料なんだね。主食にして食わせたいというと、店長さんポカンとしてさあ。通訳のおとらちゃんのほうがかわいそうだったぜ。」

杉三が、結果報告すると、

「ほんと、しまいにはけんか売ってるみたいになっちゃったわ。」

トラーがそういうため、マークもチボーもがっかりした。

「お兄さん、杉ちゃんが一生懸命探しているのに、ああいう態度では、水穂さんのほうが全否定ですね。」

「確かに、いくら病気のために食欲がないとしても、相方がやっていることに全く応えないのは、確かに問題かもしれないな。」

「おいおい、二人とも、変な勘違いはやめてくれよ。僕も、水穂さんも一回もケンカしたことないし、根っからの親友だと思ってるからな。」

「杉ちゃん、親友にしてはさ、水穂さんのほうが拒絶しすぎているような気がしてならないんだけどなあ?」

マークがそう聞くと、杉三は少し黙った。

「そういうこともあるよ。僕もそこは少し知っているが、それは解決のしようがないので、我慢しているよ。」

「我慢?」

マークもチボーも顔を見合わせた。

「仕方ないんだよ。もう、日本の社会ではどこでもそうなっちゃっているんだから。日本人は、あんたらみたいに、政府にすぐ反抗しようなんて体力はないからな。黙ってるのさ。」

「杉ちゃん。もう、こうなったらちゃんと聞かせてくれないかなあ?僕たちはなにも言わないから。こっちは、日本と違って、ちゃんと事実を知るまで聞きださないと、気が済まないんだよ。」

「だけどねえ、マークさん。本人が、言ったらここに置いてもらえなくなっちゃうから、黙っててくれというんだよ。それを破るわけにはいかんでしょ?わかる?」

「じゃあ、杉ちゃん。僕たちは誰にも言いませんから、話してくれませんかね。どんなにひどいことでも、僕たちは追い出すことはしませんから。事実、そんな事したら、間違いなくあの人、餓死してしまうでしょう。それじゃあ、逆に僕たちが殺人者になってしまいます。」

「せんぽくんも、マークさんも誰にも言わないと、約束してくれるか?」

杉三はもう一度念を押した。

「わかりました。」

「約束するよ。」

マークもチボーもしっかり頷いて、杉三の話を聞き始めた。しかし、トラーだけは違っていて、、、。


そのころ。

水穂は、今日はどうもかったるいなあと思いながら、ベッドに座って窓の外の風景を眺めていたが、急にせき込んでしまい、これでは横になるしかないな、と思い、ベッドに横になった。ちょうどその時。

ガチャン、と音を立ててドアが開いた。入ってきたのはトラーだった。

「どうしたんです?」

と、彼女を見るが、その顔つきは深刻だった。そして急に何かを確信したらしく、不意に横になっている水穂の隣にすり寄ってきた。

「何をするんですか?」

返答はなかった。代わりに、すりすりと音を立てながら、水穂に顔を近づけて、その体の上にふっとかぶさってきた。

「よしてくださいよ。」

そういっても、離れなかった。

「ダメ!」

自分の肩の上にトラーの頭が乗ったことに気が付いて、水穂はぎょっとした。

「杉ちゃんに聞いちゃったの。あなた、若いときにワルシャワゲットーに近いところに住んでいて、そのせいでずいぶんひどい目にあってきたんですってね。」

とうとうばれちゃったかと思った。

「でも安心して。こっちはゲットーも何もないわよ。戦争が終わった後に撤去されてるから。」

と、いう発言を始めたため、なんのことかとさらに驚いた。

「だったら、ずっとこっちにいてよ。日本に帰っても、そんなところがあるんだったら、辛いだけでしょ?だったら、こっちのほうが、何もないし、悪い人もいないから、安全に暮らせるわよ。」

「やめてください。そんなところあるわけが。」

もう少し体力があれば、そんな夢物語を聞かされても意味がなく、いい迷惑なだけだということを言えたのにと思ったが、疲れ切っていて、というかかったるくて、そんなことはできなかった。

「ずっとこっちにいて!ゲットーのないところにずっといて!お願い!」

だから無理なものは無理だ、と言いたいが、言う前に激しくせき込み、魚の骨でも無理やり出すような感じで、生臭い液体が口からあふれた。

それでも彼女は離れなかった。水穂も、血液を吐き出すことをやめられなかった。

「こら、バカ者!」

頭上から急にでかい声がして、トラーははっとする。

「馬鹿なことやってないで、暇があったら介抱しろ!」

「すみません、マークさん。悪いのは彼女ではなく、」

と、水穂は言いかけるが、最後まで発言できないのが皮肉なところだった。

「いや、大丈夫です。こちらでは、本当に叱責するときでないと、馬鹿とは言いませんから。それにあんまりしゃべらないでじっとしてください。」

マークは手際よくサイドテーブルに置いてある、薬の山の中から、いつもと違う色の薬を取り出して、

「これでいいんでしたっけ?」

水穂はせき込みながらうなずいた。

「ゆっくり飲んでくださいね。」

マークは、そばに置いてあったマグカップの水で、水穂にその薬を飲ませた。これを飲むと確かに吐き気はなくなるが、猛烈に眠くなって寝てしまった。

「やーれれ。又やったのかい。はるばるフランスまできてここまで派手にやるとは、少なくとも本人にとっては、いい滞在にはなっていないということかなあ。」

もし、ここに蘭がいたら、外国の人たちに対してなんて失礼なことを言うんだと、叱責するはずだったが、だれもがそういうことだとわかっていたので、杉三の発言を止める人はいなかった。

「そういうことになりますね。」

マークは大きくため息をついた。

「そうだねえ。まず、食べ物が問題だよ。食べ物屋さんに行けば、食べ物があるというわけではないからね。肉や魚は凶器になるから、絶対だめだし。比較的安全な納豆だって、手に入らないでしょ。」

「ごめんね、杉ちゃん。何も手に入らなくて。」

マークは思わず黙ってしまった。

「マークさんが謝ることないよ。国民性ってのがあるだろうがよ。」

杉三が言う通り、国民性で納豆は好きな人がいないということもあった。

「お兄さんが謝って済む問題じゃないですよ。その納豆だって手に入らないわけでしょう。それならいったいこの人、何を食べれば助かるんですか。この辺り、納豆を販売しているところは全くないですし。」

チボーが現実的な意見を述べたので、マークは結論を出さなければならなかった。

「わかったよ。つまり水穂さんは、ヨーロッパには住めないということだな。理由は、食べ物がないから。」

杉三もチボーも同じことを確信した。暫く何とも言えない、重苦しい空気になった。

「いや、絶対にあたしはいやだから!」

急に和紙を切り裂くように、トラーが叫んだ。

「いやって何が嫌なんだよ。」

杉三が思わずそう聞くと、

「あたしはゲットーがまだあるところに、この人を戻すのは絶対に嫌だから!」

と、怒鳴りつけた。

「だけど、食べものがないんだよ。食べ物がなかったら、どうなるかくらいわかるでしょ、わかる!」

「お兄ちゃん、食べものくらい何とかなるわよ。それより、ゲットーのある所にまた住まわせるほうがもっとかわいそうじゃないの。あたし、戦場のピアニストの映画を見たことあるけど、すっごいひどいところだった。そんなところに、この人を、戻す気にはならないわ!」

「まあ、あそこほどひどいところではないがな。でも、映画一本見ただけで、そういう連想できるんだから、君も感性のいい女だね。それってある意味優しいってことだよ。とらちゃんは。」

杉三がそうつぶやくと、

「だからそういうわけだから、日本には絶対に帰らせないわ!あたしは、なにがあっても、この人をワルシャワゲットーに近い場所に戻すなんて、絶対にさせない!」

トラーは水穂に縋りついた。

「ほんとに、人の話を最後まで聞かないからこまるよ。杉ちゃんの話によれば、ゲットーは取り壊されて、ゴルフ場になっているそうだよ。」

マークがそう解説を加えてもトラーは受け入れないようだった。

「お兄さん、ゴルフ場になった時、住んでいた住民はどこにいったんですかね。収容所のようなものがあったんですか?」

チボーがそう聞くと、

「わからない。消息不明だって。皆どこかへ離散して行っちゃったってさ。子供みたいな弱い人は、マフィアが引き取ったようだが。」

杉三が答えを出した。

「なるほど、マフィアですか。日本人は、そういう歴史的な失敗をして、まずそこをやり直してからではなくて、いきなり次のステップにいってしまうから、そういう人のもとへいくんでしょうね。例えば第二次世界大戦の後片付けもちゃんとしてから、経済発展に移れば、思想がしっちゃかめっちゃかになることも、なかったのではないですか?」

チボーは、また外国人らしい発言をした。

「とにかくね。あたしは、この人を絶対に日本には戻さない。食べ物だったら、いろんなところを探してかき集めてくる!それで何とかなると思う。蕎麦粉だって単に今ないだけでしょ。一月経てば、また入って来るんでしょう?それを待っていればそれでいいわ!」

でかい声でトラーがそういうと、

「お前もな、口から出まかせを言うな。きちんと考えてから発言しなさい。いいか、この人は、健康ではないんだよ。体の弱っていることを、忘れてはいかん!そして、体が少しずつ衰弱していくことも、忘れてはいけないよ。」

マークは、お兄さんらしくそういった。

「お兄さん。あんまり感情的になって怒鳴ってはなりませんよ。仕方ないこともあるでしょう。トラーは、水穂さんの事が心配だからそういうことを言うんでしょうし。」

と、いうチボーであるが、そういいながらなんだか自分の頭がなんとなく切なくなっていくのが感じられた。このまま水穂さんのほうへ行ってしまうのだろうか、、、?と思う疑問がわいてしまうのである。

なんだか、悔しかった。

「とらちゃん。あんまり思い詰めてはいかんぞ。もっと冷静になってかんがえてくれないだろうか。」

杉三が一生懸命彼女をなだめたが、チボーはそういう気にはなれなかった。

「よく考えなさい。いいか、食べ物が手に入らなかったらどうなると思う?ここでは、そば粉だってなかなかてに入らないし、納豆は全く手に入らないでしょ。クスクスでは栄養価が足りなすぎるのは一目瞭然じゃないか。だから、この人には、食べられるものがないんだよ。それがないのに、住まわせるなんて、ワルシャワゲットーと似たようなものだよ!」

「お兄ちゃん。でも、少なくともこっちにいれば、日本の悪い人にいじめられたり、馬鹿にされたり、八百長を持ち掛けられて拷問されることもないのよ!日本から離れれば、そういう人たちとさようならできるでしょ!だからこそ、日本の人たちは、この人をここへ連れてきたんじゃないの?いっぱいいるじゃないの!日本社会になじめなくて、海外に出ちゃう人たち。それと同じだと思えばいいわよ。そういうことを思えば、アメリカなんて、どうなるのよ?あそこはそういう人たちだけでできている国家みたいなもんでしょう!そういうところもあるから、それと同じだと思えばいいじゃないの!違うの!」

「だけど、それではいけないんだ。いくらいじめる人もいないと言っても、食べるものがないほうが、もっと危険だよ。この人は、食べていかなくちゃ。食べるものがないんだったら生きていかれないんだよ。まず第一に、生きていくことを優先させるのが大切だ!」

「あたしは、お兄ちゃんのほうが絶対間違っていると思う。食べ物なんて、最悪食べなくてもいいのよ。食べ物の代わりに、栄養を何とかしてくれる薬品だってあるわ。そうじゃなくて、馬鹿にされることがないほうが、よほど楽しいんじゃないかしら。なんでまた、そういう悪い人たちのいるところに帰らせるの、お兄ちゃん。なんでまた同じように苦しませる生活を強いられるところに戻すのよ!」

「とらちゃん。例えばさあ、捕まえてきた黒豹を、動物園で飼って、一生懸命世話をしても、結局、死んでしまったという話を聞いたことはないかな。どこの動物園でもある話だよな。それに、朱鷺の繁殖だって、人間がいくら育ててもうまくいかないし、野生に戻しても、すぐに動物園に戻ってきてしまって、困るそうじゃないか。人間も、そういうもんなんだよ。そう思ってくれ。だから、水穂さんだって、そうなるんだ。いくら、こっちで一生懸命看病してもな、これでは無理だよな。やっぱり、人間は、ご飯を食べることで生きているっていう実感をさせてもらういきものだからな。」

杉三が、一生懸命そう説得したが、トラーは泣くばかりであった。

「だから、受け入れてな。それでいいかな?人間だもの。やっぱり、新しいところになじむというのは、難しいものがあるよ。それが、こんな重たい病気の人にできるかな?」

またそうトラーに言うと、声がした。

「おい。大丈夫かお前!」

声を掛けたが、大きく唸る声がなり響いた。

「寝言にしては怖いなあ、、、。」

「苦しいだろうな。たぶん、睡眠薬のせいだと思うんだが、そういう強力な幻覚が見えたりするんだよな。恐ろしい薬だ。」

欧米人らしいのだが、これでないと、血は止められないよ、と杉三はそう言いかけてやめておいた。

暫くすると、唸り声は止んでまた眠りに戻っていったのだが、だれもが、かわいそうだと思っていた。

「じゃあ、あたしたちには、どうしようもないってことなのね。いくら、手をだしても、この人には通じないんだ。なんだか、私、寂しいなあ。」

さいごの台詞が、やけに生々しかった。

そこが彼女の最も言いたかったところだったのかもしれない。

「ごめん、あたし、ちょっと、頭冷やしてくる。なんか、かっと燃えすぎちゃったんだと思う。ごめん、馬鹿な女で。」

トラーは不意に立ち上がり部屋から出て行った。

「おい、ちょっとまて!」

杉三が、でかい声で呼び止めても彼女は出て行ってしまった。

「気にしないでくれ。あいつは一回爆発すると、止められないから。もう、気にしないでくれよ。」

マークが、杉三に声をかけた。チボーは残念そうというか、ある意味悔しそうにがっかりと自分の握りこぶしを眺めていた。

「せんぽくん。」

不意に声を掛けられてはっとする。

「男らしく、告白しろ。」

杉三がそういったのであった。

「このままだと、とらちゃん、彼を追いかけて日本に行こうとか思いつくぞ。それはまずいだろ。君にとって。」

「そうだねえ、、、。」

チボーは顔を真っ赤にして、一生懸命次の対策を考えようとするが、全く思いつかなかった。

同時にまた、唸る声が聞こえてきた。たぶんこれ、薬が切れるまで、何回か繰り返されるんだろうなとだれでも予測できた。

「日本ではこれを使わないといけないんですかね?」

チボーは告白の文句の前にこれを口にした。

「いや、本人は辛くとも周りが使わないと文句言うだろう。でないと、永久に止められないから。日本は、本人の為なのか、周りが楽したいためなのか、どっちの為に薬を出しているか、わからないからな。」

杉三のいう言葉こそ、日本特有の「あいまいさ」なのかもしれなかった。

「そういうひどいところなのかもしれないが、それでも、食べ物があるということが、一番だからね。食べ物があるということが、何よりも幸せだよ。日本でも、どこの国でも。」

マークは、だれに言い聞かせているのかわからないが、それでもきっぱりと言った。

杉三もそれに頷いた。

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