第八章
第八章
玄関のドアがバタアンと開いて、トラーが飛び込んできた。手にはビニールの袋を持っていた。
「お兄ちゃんも杉ちゃんも喜んで。あったわよ!」
同時に、おいおい、いきなり言ってもなんの事だかわからないだろう?と彼女を静止しながらチボーも入ってきた。
「閉店ギリギリでしたけど、どうにかみつかりました。これで何とかなりませんか?」
チボーがそう発言したため。
「あったって、何があっただよ?」
杉三が急いでそう聞き返す。
「そば粉!まさしくこれで良いんでしょう!」
同時にトラーがテーブルの上にビニール袋をドシンとおいた。確かに中には石灰に似たグレーの粉が入っていて、袋にはアルファベットで「SOBA」と書かれていた。
「これで、蕎麦湯というものを作ってあげて頂戴よ!杉ちゃん!」
「ちょっと待て待て。とらちゃん、説明をちゃんと聞こうな。粉だけ用意しても作れないよ。蕎麦湯をとるには、そのためのそばが必要になるわけでしょ。そばを作るには、つなぎのヤマノイモとか、そういうほかの材料がいるんだよ!」
「うん、ここには確かに、ヤマノイモというイモは、どこにも売っていない。そんなイモ、初めて名前を聞いた。」
杉三の話にマークがボソッと言った。
「それにな、道具だって必要になるよ。そばを切るにはそば切り包丁がないとできないだよ。パンはパンきり包丁でないと切れないでしょう?それと一緒なんだ。いつも使っている、文化包丁では、そばは切れないからな!」
「しかし杉ちゃん、他に食べれそうな物が何もないよ。だから、他のものを買いに行かなくちゃ。説明している暇はない。早くしないと、お店が閉まってしまうよ。」
「そうですよ。既に店じまいを始めているお店も少なくないです。」
マークとチボーが相次いで発言したため、改めて、店じまいの時間が早すぎると思ってしまい、大きなため息をつく杉三であった。でも、すぐに立ち直ってこう発言する。これができるのも、杉三の特権かもしれない。
「本当にのんびりしすぎた国家だな!それなら、これを料理するしかなさそうだ。そば粉と水で蕎麦掻を作ろう。」
「なんだい杉ちゃん、そのそばがきとは?」
マークが聞くと、
「うん、蕎麦掻とは、そば粉を水でこねて、水団のような餅にしたものだ。ま、言ってみれば、大昔の非常食だよ。」
杉三はすぐに答えた。日本人の間でも現代ではほとんど知られていないが、確かに江戸時代までは、さかんに食べられていたものである。
「非常食だって?」
「そうだよ。緊急の時に、与えられていたらしいよ。」
「なるほど。それなら、栄養価も多少あるだろう。よし、ここは杉ちゃんに任せよう。」
「おう、任せとけえ!」
杉三は、そば粉をなべにあけた。そこへカップに入れた水を加えてぐるぐるとかき回しはじめた。粉っぽさがなくなって、塊になってくると、六個に分割して団子状に丸めた。その後、別のなべに水を入れて沸騰させ、その中に団子を乱暴に入れる。
「これでよし。あとは煮えれば出来上がり。」
他の人たちは、全員ため息をついた。
数分後。蕎麦掻はよく煮えて、そばのにおいが充満した。杉三は煮汁ごとお皿に盛り付けた。
「ほら、見てみな、これが蕎麦湯というもんよ。正確に言えば、そば粉を煮た時の汁だ。どうしても煮ていると、栄養成分が水に溶けて出ちゃうから、こうやって煮汁を一緒に飲んでしまう。これが日本特有のやり方だよ。」
「確かにそうですねえ。僕たちの文化では、なかなかゆで湯を一緒に食べてしまうということは、少ないですよ。リンゴをはちみつで煮て、それを煮汁ごと飲んでしまうということはありましたが。」
チボーは代表してそう発言したが、マークもトラーも暫くびっくりして黙ったままであった。
「問題は、食べてくれるかだな。」
「肝心なところはそこだが、やってみなければわからないよ。」
「杉ちゃんは、前向きだねえ、、、。」
いつの間にか、西洋人のマークよりも、日本人の杉三の方が前向きになっているのだった。
杉三とマークは、蕎麦掻の入った皿をもって、もう一度客用寝室に入った。水穂は、文字通り横になっていたが、眠っているのとはちょっと雰囲気が違っていた。
「おい、目を覚ませ。いくら食わず嫌いで有名なお前でも、これだけは食べるだろ?そばだぞ、そば!」
と、語りかけて、サイドテーブルに皿を置き、蕎麦掻を一個フォークで突き刺して、口元へもっていってやった。まだ目には力がなかったが、とりあえずあけてくれた。
「よし、先ずにおいをかいでみろ。味もうまいし栄養抜群。きっと何か思い出して、食べたくなると思う。」
「そばのにおい、、、。」
「わかってくれたみたいだな。」
マークは思わずそうつぶやいた。
「よし、じゃあ、においだけではなく、味も体験してみな。絶対食べる気になるよ。」
暫くして、マークにも、静かに蕎麦掻を口にしてくれたのが見て取れた。
「ようし、よくできました!よくできました!はい。もう一個だ!」
こういう時には、杉ちゃんのやるように、大げさなほど喜んでやるのが、一番よいのだった。
「ああ、よかったよかった。これでやっと食べ物を口にしてくれたよ。やっと一件落着かあ、、、。」
マークは、顔中の汗をタオルで拭いたが、これはもしかしたら汗ではなくて、涙と汗を取り違えたのではないかと思った。
暫くして、蕎麦掻の皿は空っぽになった。カラン、と音を立ててフォークがお皿の上におかれたのと、静かに眠りだしたのが、ほぼ同時だった。
「どうだ。旨いもんを腹いっぱい食って、満足できたか?やっぱり旨いもんはいつでもどこでもうまいよな。」
気持ちよさそうに、すやすや眠っているのがその答えだった。
「よかったです。さっき見たときはほんとうに深刻でした。眠っているのと意識が朦朧としているのとは、明らかに違います。息の仕方が違うのが、その証拠ですよ。」
マークはまた頭をかいた。
「そんなことはどうでも良いから、それよりも、次に何を食わせるかを考えよう。」
「う、うん。そうだね。やっぱり、日本人には日本人にあう食品というものが一番良いということか。今回偶々偶然、それが手に入ったから良かったようなもので。確かに、手に入らなかったら、大変なことになった。」
「そうだよ。適材適所という物がある。今は選べる時代でもあるんだし、食えるものは食えるもの、食えないものは食えないもので、しっかり区別すればいいんだ。それでいいのよ、それで。」
杉三だけ一人、解決できてニコニコしていた。
「本当に杉ちゃんは明るいなあ、、、。」
「おう、馬鹿は明るいのさ!でなきゃ、やっていけませんから。どんな時代でも明るさをなくさないってのも、人間らしいんじゃないかなあ?」
一人でカラカラと笑っている杉三と、悩んでいるマークの顔が何とも対照的な光景であった。それを無視するかのように患者は眠った。
そのころ。
「あーあ、全く。ブラームスの交響曲なんて初めて聞いたわ。生まれて初めて初めから終いまで聞かされて、もう、あんなに長いとは思わなかったわ。」
恵子さんは、道路を歩きながら、大きな伸びをした。
「まあ、ブラームスですからね。大曲ばかり作っていますからなあ。」
ブッチャーは急いでそれを訂正したが、恵子さんは、
「それにしても長すぎるわよ。本人も作っていながら、かなり疲れたんじゃないかしら?ブラームスは、根性だけはあるのねえ。」
と、笑っていった。
「まあ確かに、長い交響曲ですよ。ベートーベンの第九にどうしても勝ちたかったようで、完成するまでに、20年もかかってしまったようです。」
ブッチャーが、よく知られている、ブラームスに纏わる逸話を紹介すると、
「なるほどねえ。ベートーベンにどうしても勝ちたいか。それで何だか中途半端な曲だと思ったわ。重たすぎるし硬すぎるし、どっか足りない気がするのよ。結局のところ、何をいいたいんだかわからないってのが正直な感想だったわ。」
恵子さんは一般人らしい感想を言った。
「まあ確かに、そうかもしれませんね。ブラームスは、生きている時代に合わなくて、当時流行っていたおしゃれな音楽とは桁違いで、あまり人気はでなかったそうですよ。逆に面白いと言ってくれる人もいたようですけどねえ。」
ブッチャーはそう解説した。
「あら、じゃあ、人気者ではなく、苦手という人が多かったのねえ。当時の人で、支援してくれた人はあまりいなかったのねえ、ブラームスは。」
「はい。まあ、いたにはいたとしても、ほんの少数だったと思いますね。大体の人は、ベートーベンの物まねをしているだけだとか、時代遅れとか、そういうことばっかり言っていたそうですから。当時としては珍しく、結婚もできなかったそうです。」
「ええー!ブラームスは、一生結婚できなかったの?あっら、珍しいわねえ。昔の人は、嫌でも結婚しなきゃいけなかったのに、それを拒否するなんて、よほど女運が悪かったのねえ。」
恵子さんは素っ頓狂な声を上げた。
「はい。そうですねえ。独身おじさんになったブラームスは、寂しい生活だっただろうなあ、、、。俺も想像できますよ。」
「へえー!一人寂しく独身男かあ。なんだか今風ねえ。でも、どこかかわいそうな男ともいえなくもないわね。ベートーベンに追いつきたくても追いつけなくて、悪評ばっかりで、結婚もできなかったわけでしょう。なんかあの中途半端な交響曲は、そういう気がしたのよ。ベートーベンの第九は、人生の集大成って感じだけど、ブラームスは初めてでしょ。何か研究しすぎて、行き先を間違えた感じ。ほんと、碌な人生じゃなかったんだろうなってのが予測できるわ。」
恵子さんは、なんとも哲学的な話を始めた。
「ベートーベンはあまりにも偉大ってのは誰でも知ってるわ。でも、それに追いつきたくても追い越せない、一人の平凡な男。追いつくなんて、無理ってわかりきってるのに、ベートーベンの音楽に体当たりしている、特攻兵にそっくりだわ。それでも諦められなくて、一人寂しく生きている。そんなかんじかな。」
「恵子さんがそんなこと言うのは妙ですねえ。一体何がそうさせたんですか?」
ブッチャーは、思わずそう聞いてみると、
「知らないわ。演奏を聴いてそう思っただけよ!」
と、つっけんどんに答えが返って来た。
「恵子さん、俺、思うんですけどね。今言った特攻兵、俺たちのそばにも一人いるんじゃありませんかね。」
ブッチャーは不意にそう思いついた。自身でもなぜこのセリフが出たのかわからないけれど、なぜか言わなければいけない気がした。それは、どうしても忘れてはいけないことだと思った。
「はあ?誰のことかしら?あたしはそんなこと知らないわ。」
「そう明るく言うんだったら、やっぱり気がついてないのかあ。まさしく、俺たちが今、一生懸命看病しているじゃありませんか。まあ、ブラームスみたいに、すごい曲を作ったわけでもないから、なかなか気が付いてくれないかなあ?」
恵子さんの顔を見ると、反応しているのかしていないのかよくわからない顔で、鼻歌を歌って道路を歩いていた。
「恵子さん、わかってくれましたかね。」
ブッチャーはそっと呟く。
「わかってるわよ。誰のこと何だか。」
恵子さんは後ろを振り向いてそういった。その顔は、急に明るくなっているような気がした。なんだか吹っ切れたのだろうか?
「もう、いいじゃない。彼が日本に帰ってきたら、おいしいもの作って食べさせてやらなくちゃ。きっと今頃、日本の食事が恋しいな、なんていいながら、咳き込んでいるんじゃないかしら。あれじゃあ、滞在先でも困るわよ。」
そんなことを言いながら恵子さんは歩き出した。
「わかってくれましたか。それじゃあ、恵子さんに、わからせてくれたブラームスも、偉大な作曲家といえるのではないでしょうかね。」
と、頭を振りながらブッチャーは後をついていった。
「恵子さん!駅はこっちですよ!」
「やだ、御免なさい!間違えちゃった!暗くて標識見逃しちゃったわ。」
急いで、元来た道を戻る恵子さんだった。
数日後、パリでは。
「どうもご馳走様です。」
いつもどおり、蕎麦掻をたべおわって、水穂は食器をマークに渡した。
「はい。ありがとうございます。しかし、よかったですね。もうあの後、どうなるのか、不安でたまりませんでしたよ。でも、そばのお陰で、少し体力を取り戻してくれたみたいで、暫く続けたら、こうして座って食べてくれるようにまでなりましたしねえ。」
マークは、また額の汗を拭いた。実は、今の今まで結構緊張していたのだ。
「よかったといいたいところですが、それだけではだめですよ。もっと他のものを、食べてもらうようにならないと。それも考えなくちゃな。」
考えていると、二、三度咳をする音がしたので、これだけはどうしても取れないのかあと、
ある意味失望してしまう。
「食べても、咳をすることだけは治らないのですか、、、。」
と、同時に玄関の戸がガチャンと開く音がした。どうも、いつもと違う、鈍い音だった。いつもなら、バタアンと、壊れそうなくらい乱暴に開けるのが恒例なのだが?
「水穂さん、咳き込むのなら、横になって休みましょう。」
マークは、ドアの音は気にしないで、とりあえずそう指示を出した。
「はい。」
素直にしたがって横になってくれた。マークは先日チボーがもって来てくれて、杉三がガラクタといった毛布をかけてやった。
台所では、トラーが、椅子にすわってしくしく泣いていた。
「あ、もう落ち込むな。他の食材探せばそれで良いから。例えばそうだなあ、そうか、くず粉もなければ、もち米の米粉もないのか。」
杉三は、彼女をそうなだめたが、彼女は泣くばかりだった。
「次に入ってくるのは、一ヶ月以上後だそうです。何でも、近くのケーキ屋が、クリスマスが近づいてきたせいで、そば粉を大量に買い占めていったそうで。クリスマスにそばケーキを出すのも今はブームらしいんですよ。」
チボーはそう解説した。
「は?クリスマスにそばケーキ?」
「そうなんですよ。近頃の健康ブームはそういうところまで来ているらしいです。それに、クリスマスだからこそ、珍しいケーキを食べたいっていう人が多くて。」
「あ、そうだよね。すまんな、こっちはケーキなんて当たり前か。日本ではケーキというと、特別な日のごちそう見たいな感じなんだが、こっちは普段のおやつだよな。だから、特別なケーキも食べたくなるのか。で、せんぽ君、他にそば粉を販売している粉屋さんはないかな?」
「そうですねえ。他にどこにあるんでしょうか。全くしりませんよ。でも、ケーキは頻繁に作っているし、食べる量も多いから、粉屋さんはよくあると思いますけどね。パソコンで調べて、一軒一軒あたって見るしかなさそうですね。」
チボーは困った顔をした。
「でも、一日で調達できるとは限りませんので、その間に他に何か食べられそうなものはありませんか?」
「うーん、そうだねえ。これまでに食べられなかった食品は、100以上だよ。」
杉三がそういうと、
「100個もあるんですか。それは難儀な、、、。」
「そうだよ。100以上というのはな、丁度100じゃなくて、100より多いということだよ。ぴったりじゃないからね。」
「そうですか。僕は、日本語のそこら辺の単位がよくわからないのですが、それなら逆に食べられた食品はなんでしょうか?」
「おう、せんぽ君。唯一あたらなかったのは、かっぱ巻きだよ。」
「なんですか、かっぱ巻きって?」
「かっぱ巻きとは、きゅうりをご飯で巻いて、それを海苔で包んだもののことだよ。でも、ここにあるもので作れるかいなあ?」
杉三とチボーがそんな問答を繰り返していると、
「変な回答はやめて!早く結論をいいなさいよ。とにかく食べるものが何もないんでしょう!」
「落ち着け、おとらちゃん!」
杉三がそう止めたが、トラーはさらに泣き出してしまった。
「まあ仕方ないよ。事情を話せばわかってくれると思うから、暫くクスクスを食べて、我慢してもらおう。」
「クスクス、は高粱のことだね。せんぽ君のいう通りにするしかないな。でも、どうしても、高粱はそばに比べるとねえ、、、。」
「はい、栄養面では劣るのは認めます。」
チボーは、そこをキチンと認めた。
「そうなると、体力がまた弱くなってしまうのではないかと、心配になるよなあ。」
次の食事から、水穂には蕎麦掻ではなく、再びクスクスが出されるようになった。それに関しては、何も文句は言わなかったが、クスクスに切り替えたところ、暫く布団に座ることができていたのが、食べたらすぐにうとうと眠ってしまう方が多くなった。これではまた、日常的に咳き込みだすのではないかと、誰もが不安になった。
でも、そば粉は手に入らないし、日本ではよく作れるかっぱ巻きも、作る材料も道具もどこにもなかった。だから、誰でも皆、これから先どうなるのか、嫌な予感がした。
「どうですか、お兄さん。」
丁度部屋から出てきたマークに、チボーは声をかけた。
「とりあえず、食してはくれました。でもやっぱり、体力はそばの時の方があったのではないかなと思います。すでにもう、すわっていられなくて、うとうと眠っています。」
「そうですか。最悪の事態に陥らなければいいんですけどね。ほかに、食べられる食品、果たしてあるんでしょうかね?」
マークはとりあえずそう報告すると、チボーはそう問いかけた。マークは少し考えて、
「つまり、ここは食べ物があるという事は確かですが、食べられるものは、ないということですね。」
「ありそうでないというのも辛いことですねえ。」
二人は顔を見合わせた。
「やっぱりここは異国ということですねえ。」
「はい。」
結論が見え始めてきた。
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