第五章

第五章

「だから、また煮過ぎだよ。もっと注意深くなってよ。ご飯というものは、炊くのが難しくてさ、しばらくガスコンロの前で張り付いて、火加減とかよく観察しなきゃいかん。いいか、ご飯を炊くときに、日本ではこんな合言葉があるんだ。はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣いても蓋取るな。つまり、それだけ、火加減というものが大事なんだよ。ガスコンロにまかせっきりにしないで、時折中身を確認する。これを忘れてはならんぞ。」

杉三が鍋の蓋を開けると、また中身は全粥に近いものになっていた。

「もう一回、やり直しね。」

「は、はい。ごめんなさい。」

トラーは、先日兄が買って来てくれた米を取り出して、また洗い始めたが、これを開始したのは、実は三度目であった。この家には、というかこの地域ではあるほうが珍しいが、炊飯器が設置されていないので、ご飯を炊くとなると、鍋で煮込んで炊く方法をとるしかなかった。もちろん、できないことはないのだが、先ほどの合言葉に言われるように、実に炊き方が難しかった。

「まあいい、三度目の正直で今度こそしっかりやれよ。日本人には、ご飯というもんが一番いいんだ。健康な奴ならな、多少口に合わないもんを食わされても、多少は我慢できるが、弱ってるやつには無理だからな。そこをしっかり考慮してやってよ。」

それは確かにそうだとわかる。風邪をひいたときに、嫌いなものを食べさせられても、食べる気にはならない。

「しっかりな。今度こそ煮過ぎをしないようにしてね。」

「はい。」

米を洗った後は、お約束通り具材を切る作業を始めた。包丁を持つのは大分様になってきたが、まだ、切る作業は遅かった。

「そうそう、いいぞ。まだテンポは遅いが、だいぶ慣れてきたようだな。こうして考えれば、失敗も無駄にはならんぞ。一回失敗して全部おしまいなんて、上のやつらが馬鹿なことを教えるから失敗に対して、損害が大きくなるが、もう初めのころは、これで当り前だと思ってな。何回も繰り返していれば、そのうちわかってくるさ。」

そういってくれて、よかったなと思った。

「もうな、上のやつらがなんと言おうと、平気な顔して失敗していいんだぜ。慣れてなかったら、失敗して当たり前なんだからよ。それを変な理屈をつけて、食べ物を粗末にすると罰が当たるなんてかっこいいこと言いふらしてさあ、二度と挑戦できないようにさせている上のやつらが悪いのさ。」

「杉ちゃん、ありがとうね。あたし、今までそんなこと言われたこと一度もないわよ。」

彼女はぼそりとそうつぶやいた。そここそ、彼女が一番足りていない部分なのかと思った。

「一度もないっていうか、馬鹿の一つ覚えを口にしただけだよ。喜ぶことじゃないんだけどなあ。」

丁度その時。マークが台所にやってきた。

「おい、まだ完成しないのか。」

「あ、すまんすまん。三度目の正直で今度こそうまくやるから、もうちょっとだけ待ってくれるように言ってくれよ。」

杉三が、マークにそう説明したが、

「おい、これじゃあ、いつまでたっても食べられなくて、結局また薬だけの食事になっちゃうよ。チャレンジするのはいいけれど、少し考慮しなくちゃ。このままでは、時間がなくなって、何も食べなくなってしまうぞ。」

マークはトラーに、少し説教するように言った。

「あ、ごめん。そりゃ僕が悪いんだ。料理の指導の仕方がまずかったんだな。それじゃあ、もうちょっとわかりやすく説明しなければいかんなあ。おとらちゃんね、一生懸命やってるんだけどねえ。どうしても煮過ぎちゃって、雑炊にならんのよ。まあ、全粥にしちゃっても構わんのだが、ご飯は煮過ぎると、栄養価が落ちるという欠点もあるからな。日本では、全粥というもんは、よほど大変な時にしか食べさせないんだ。こっちに比べると、かゆの種類が多くて困るという苦情が寄せられることもあるが、それだけ、相手に気を使うということだからな。」

「杉ちゃん、杉ちゃんが謝る必要はないよ。できの悪いトラーが悪いんだ。杉ちゃんが一生懸命教えてくれてるのに、ちっとも覚えようとしないから。もうな、お前もな、教えてもらってるんだから、少し応えようとしろよ。教えてもらうには、こっちが努力することも必要なんだぞ。」

杉三は軽く笑ってそう話すが、マークは申し訳なさそうに言った。この言葉に悪気はないのだが、

「出来が悪くて悪かったわね!お兄ちゃんはいつも一生懸命努力してっていうけど、あたしは、一生懸命やろうとすればするほど、その顔のくせに出来が悪くて、馬鹿じゃないって、笑われるだけよ!」

トラーはがんと鍋をコンロの上にたたきつけて、台所から飛び出してしまった。

「おい、まて!中途半端は一番いけないぞ!」

マークが呼び止めても、彼女は戻ってこなかった。

「ほんとに、気性の激しいというか、怒るとすぐああなるから困るよ。あとのことについては、全く無責任で、後始末はいつも僕。」

マークは、ため息をついて、作りかけのご飯で汚れてしまった床を、雑巾で拭き始めた。

「そうだねえ。兄ちゃんは辛いな。ごめんねえ。床拭くの、手伝えなくて。歩けないから、申し訳ないよ。」

「杉ちゃんが謝ることはないよ。もう、あれはあきらめるしかないんだ。出来が悪いとか、そういう台詞は、いくら日本語でも口にしてはいけないのを忘れていた。」

マークはまた、床拭き掃除を続けた。ということは、かなり前から、このセリフは言ってはいけないということになっているのだとわかった。

「それより、早く水穂さんの晩御飯作ってやらなくちゃ。さっき様子見に行ったら、またせき込んで辛そうだったからな。薬飲んで暫くはまだいいが、切れるとすぐそうなるから。でも、薬飲む前には、食べなくちゃいけないからな。食べなかったら、体に悪くなるから。それは、守らなくちゃいけないから。」

マークは杉三に言うというより、自分にいい聞かせるように言った。

「もう、我慢するか。どうしようもないからな。誰か、外の人でも来てくれれば、違うかなと思ったが。」

「あ、なるほど。それで僕たちにこっちへ来いと、手紙送ってよこしたのか。」

杉三が、そうつぶやくと、

「あ、気にしないで頂戴ね。今のは、文法的に間違えたんだと思う。」

と、マークは訂正した。

「いや、間違いはしてないぞ。文法的なことは、僕はまるでしらないが、何を言いたいのかは大体わかったぞ。」

杉三がそういうので、もうわかってしまったらしい。

「杉ちゃんごめん。気にしないでくれ。とりあえず、ご飯を作らなきゃ。」

「作りながらでいいからさあ。何でもいいからしゃべってみな。」

「ごめんねえ。まったく、どうしようもないんだよ。少なくとも、十年前であれば、こうではなかったんだけどね。それまでは、あいつも明るくおもしろい女の子という感じの子だったんだが、父もなくなって、高校へ行き始めて少しづつ変わったみたいで。」

マークは、つぶやきながら、床掃除を続けた。

「はじめはよかったんだけどね。父のしたことが間違いだったのかな。父が、多額の寄付金であいつを私立学校へ入らせたんだが、そこをほかの生徒さんにからかわれたらしくてね。次第に学校にも行かなくなって、初めはバカロレアでも受けさせるかと思ってね、通信講座とか一生懸命やっていたが、それもやらなくなっちゃってさ。結局今は、何もしないで、うちにいるだけだよ。」

「よくあるこっちゃな。日本でもフランスでも変わらんのだな。そういうものはさ。きっかけはどうであれ、ちょっとしたことから、急にいじめられたんだろうよ。気にしないでいけというのも、無理だったんだろうね。こっちにもそういう子はいっぱいいるよ。まあ、確かに、外に出したり、逆に外の人を連れてきて、構成させようというのも一つの手だよね。それは間違いではないぜ。ただ、効果が表れるかは、別の話。」

杉三はマークの話に同調した。

「そうかあ。別の話か。そこも知っておかないと、ダメだったかな?」

「うーん。それは、連れてきた人の、判断によるかな?人間のすごいところっていうのかな、よくわからんが、機械と違って、いつも同じ方向ばかり向いているとは限らないぞ。青柳教授が、そういってた。そこが決定的に違うところだってさ。でも、最近はそれができなくなっている人間も多くて困ってるってさ。」

「そう、、、だねえ。」

マークは急いで返答したが、答えを考える前に、

「あ、水穂さんにご飯を作らなきゃ。わあ、急げ急げ。」

と、急いで立ち上がって冷蔵庫の中身を探し始めた。

「こうなると、一番得をしたのは誰だろう。」

杉三も、そのさまを見て、考えてしまうのだった。


数日後。

杉三が、マークの家の玄関先で、ぼんやり外を眺めていると、

「こんにちは。」

でかい紙袋をもってやってきたのはチボーだった。

「あ、どうも。えーと、君は確か、おとらちゃんの仲良しさんだったよな。名前は確か、」

「チボーです。お兄さんからはチボ君と。」

杉三は、名前を覚えるのが苦手で、しっかり思い出せず、頭をかじったが、チボーは特に訂正しなかった。

「何か、あんまり口に出していいにくいような名前だね。よし、じゃあこうしよう。せんぽくんってのはどうだ?」

「お兄さんから聞きましたけど、本当にあだ名をつけるのが得意なんですね。変なあだ名をつけられると聞いていましたが、では何で、磯野さんだけは、本名なんですかね?」

「は?そんなこと気にしないでくれ。あの人は事情があるんだよ。だから変にあだ名をつけるとかえってかわいそうだからさ。それじゃあまずいということで、本名と敬称をつけるのさ。僕の名前は影山杉三だが、どうも本名を口に出して言われるのは嫌いなので、杉ちゃんと呼んでくれ。それに、馬鹿だから敬称も何もいらんぞ。」

「はあ、、、そうですか。」

チボーは、ちょっと面食らってそういった。

「へへん。日本語は話せるが、日本人にはさほど免疫はないんかいね。その顔でよくわかるなあ。」

「そうじゃありませんよ。大体学校なんかで聞かされた、日本人というと、」

「あー、いうな言うな。日本人は頭が固くて真面目で一本気なやつが多い筈なのに、こんな風来坊ははじめてみたといいたいんだろう。感想もつのは自由だし、それでいいんだよ。感じたままに、正直にいいな。」

「は、はい。」

「図星か。」

杉三がからかうように言うと、チボーは又返答に困ってしまったようである。

「それより杉ちゃん。そんな格好でさむくないんですか?上着も何も着ないでさむいでしょう?もう少ししたら、こっちは雪も降りますよ。そのときにそんな薄着でいたら、風邪を引いてしまうのではないでしょうか?」

チボーはとりあえず気遣ってそういってみたが、

「ああ、そんなこと聞かなくていい。馬鹿は風邪引かない。」

と、一蹴されてしまった。

「あのですねえ、そんなことありえないはなしですよ。人間であれば誰でも風邪は引きます。せめて上着くらい着たらどうですか?ちょっと名前を忘れてしまったんですけど、あるんでしょう?半コートみたいな上着。」

思わずそう言い返すと、

「うるさい。羽織なんか着るもんかよ。着流しが一番気楽でいいんだよ。それに、どこに行くにも黒大島で行くのが一番いいんだ。いつでも大好きな黒大島を、当り前のように着られるってのは、頭も体も健康そのものだからな!」

杉三はそういってからからと笑った。

「そうですか。健康そのものですか。確かに、どこへ行っても変わらないというのは、そういえるかも知れませんね。」

「ははは。そうだよ。健康だから、いつまでも家の中にいるってのは好きじゃないのさ。こうして、ふらっと外へ出て、街見物でもするのが楽しみなのよ。水穂さんみたいに、いつまでも布団の上で寝っぱなしなんて、最悪だよ。ま、あの人はそれでいいというから、そのままにしているだけで、ほんとはさ、だれでも外へは出たいと思うよ。健康な人間ならね。閉じこもりなんて不健康そのものだあ。」

「確かにそうですね。話は変わりますが、その水穂さんなんですけど、あれから具合どうですか。先日、演奏してきたので、暫くこっちにこられなかったんですけどね、やっと暇をもらってこれました。」

チボーは、やっと用件をいう事ができた。彼の意思では、前置きが長いなあと、感じていたのだった。

「あ、そうだねえ。まあ、よくなったとはいいがたい。そういうことだ。」

「は?そうじゃなくて、ちゃんと答えてください。肝心の時に日本人は答えをそらすけど、そういうはっきりしないところ、どうして平気なのか、よくわかりません。日本でも重大な事件がよくあるそうですが、それって、悪いところを曖昧なままにして放置するというのも原因だと思うんですけどね。」

「そうかそうか。それもそうだよな。うん、じゃあ言う。今日の朝方からずっと咳き込み始めてもう止まらんかった。酷いもんだったぜ。薬のんでな、やっと眠ってもらっただよ。で、僕は声をかけるとかわいそうだなと思ったので、外へ出た。だからただの物好きで外へ出たというわけでもない。そのあたりはわかるかな?ちょっと口に出していうのは、難しいなあ。」

また曖昧な答えが出たが、こっちのほうは追求する気にはならなかった。

「そうですか。そういうことはいえないのは仕方ありませんね。杉ちゃん、日本に比べると、こっちはさむいですからね、いつまでも寝かしておくだけではかわいそうですから、せめてエアコンでもつけてやってくれませんかね。」

「でもさ、他人様のエアコンかってにつかうなんて、そんなもったいない事はできるかな。どうも電気代を食ってしまって申し訳ないな。」

「電気代なんてどうでもいいんですけどね。何でまたそんなこと言うんですか?事実、体の弱っているわけですから、電気代がどうのこうのなんて議論するべきではないんじゃないでしょうか?そんなおかしな倫理観は持ち出すべきではないですよ。そんなこと持ち出すから、安心して療養する事もできないんじゃないですか?日本人は余分なことばっかり

考えすぎなのではないですかね。」

「そうだねえ。僕は良くても、彼のほうが、困ると思うぞ。そういうことは、何よりも苦手だからなあ。人にやさしくしてもらうとか、親切にしてもらうとか、そういうもんは、ほんとに苦手なんだぜ、あの人。電気代なんて気にしなくていいぞ、なんていってみなあ?もっのすごい恐縮して、裏で何かたくらみがあるって、怖がるんじゃないのか。」

「そんなことはどうでもいい話なんだけど、何で日本人はそういうところに拘るんだろう。」

チボーはよくわからないという顔をして、杉三をみた。しかし、しばらく考えて、こう切り出した。

「もう少し聞かせてください。しつこいかもしれないけど、もしかしたら、彼を何とかできるかも知れないんです。それを覚悟で、正確に答えてください。一体彼はどこにというか、どういう環境にすんでましたか?家族構成は?」

「そんな言い方は、検問するみたいでやだよ。」

「教えてください。犯罪者を逮捕するのとはわけが違いますから。それよりも人助けです。人助けの時だって、詰問することはありますよ。ちゃんと、結果を出すためにね。」

「じゃあ言う。家族なんて誰もおりません。住んでる所は、製鉄所。そこで、ずっと住み込みで暮してるのさ。四畳半の部屋を与えられてな。」

「製鉄所だって?製鉄所というと鉄を作る工場みたいなところですね。そこの従業員

寮にでも住ませてもらっているのかな。じゃあ、誰か看病してくれる人はいるんですか?」

どうもその製鉄所というのが理解できなかったが、そう解釈することにした。

「あ、恵子さんという名前の、食堂のおばちゃんが世話をしていたが。」

「けいこさん?」

「そう。食堂のおばちゃんだ。何でも料理して食べさせる食堂のおばちゃんだよ。」

つまり、従業員寮の調理員のおばさん、と解釈すればいいのだろうか。

しかし、その製鉄所というのもどうかしている。杉ちゃんの話に間違いがなければ、水穂は製鉄所に住み込みで働いていて、現在その従業員寮で、他の従業員に食事を提供する調理員の、恵子さんという人に看病してもらって暮している、ということになる。

どうも不自然だなあ。と思った。

あんな綺麗な人で、あのときシャンゼリゼ通りで言った事が間違いでなければ、ピアニストとして、もう少し、生活は保障されているはずなのだが、、、?

よし、これは絶対に何とかしなければならんと、チボーは決断した。と、同時に、パリ市内に設置されていた大時計が、三回なった。

「おっと、そろそろご飯の支度をしなきゃならんな。もう、戻って良いかな?」

時計も忘れて、考え事をしていると、杉三が不意にそんなことをつぶやいた。

「それだけはよく覚えているんですね。じゃあ、部屋に戻る前にこれ、水穂さんに渡してくれませんかね。昨日、物置の整理をしていたら、出てきました。いつ買ったのか忘れていましたが、多分、すぐに新しいのを買ってきて、しまっておいたんでしょ。」

と、チボーは、杉三にでかい袋を渡した。

「なんだいこれ。ガラクタか。」

「日本語ではそういうんですか。」

「あ、ガラクタとして処分するわけじゃないのね。要らなくなって、他人にくれたくなるものを、ガラクタというのだが?」

「そうじゃありません。いらなくて処分どころか、心配になって持ってきたんです。」

「すまんすまん。じゃあ、渡しとくよ。今日は、もうご飯のしたくだから、これでな。あんまりな、こそこそ他人の家を嗅ぎまわるのは、日本ではよくないこととされることもあるから、そこらへんちょっと気を付けてやってくれや。」

と言って杉三は玄関ドアから中に戻っていった。

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