聖域
小一時間歩いても小動物を何匹か見かける程度で獣に襲われることはなかった。きっとこの森にかけられた法術の効果なんだろう。
かなり細いとはいえ踏み固められたこの道は頻繁に誰かが利用しているのは間違いない。茂った草をかき分ける程度で歩行の妨げになるような障害はなかった。
森の奥に進むほど空気は澄み、清々しい気分になる。力が湧いてくるのは大自然の持つ力なのだろうか。
「もうかなり近付いてきたはずだぞ」
振り向いてそうアムに告げると彼女は少し離れたところで立ち止まっている。
「どうしたんだ?」
駆け寄ってようすをみると顔色が悪い。
「どうやらここは聖域のようだ」
「聖域?」
「森に法術結界を張った者の仕業だろう。地の精霊の力を使って作った精霊聖域法術結界の中に入ったようだ」
なるほど、気分が良く力が漲
みなぎ
るのはそのためか。逆にアムにとっては不快を通り越して苦しささえ感じるはずだ。
「アム、陰力を増幅したら抵抗できるんだろ?」
俺は慌て気味に確認する。
「そうだが敵意があると思われると不味いと思ってな。だが、通常結界領域ならともかくこれほど濃密な聖域結界となるとさすがにつらい」
確かにここなら戦闘を有利にする能力向上や魔獣が弱体化するほどの補助効果が発揮されるはずだから獣は近づこうと思わないだろう。
「しかたない」
アムは片膝をついた状態から立ち上がり少し腰を落とした状態で気合を入れた。
「ふん」
一瞬アムの中から陰圧が発せられ俺を半歩後ろに押しやった。
同時に聖域の空気が波紋のように歪み森の中を広がる。
発せられた心力を体の周りに留める防護術だ。こういった防御法術もあるが今アムがやっているのは法術ではないので法文を唱える必要がない。心力のコントロールによるものだ。
「もう大丈夫だ。結界の主には申し訳ないがしばらくはこのままで進ませてもらおう」
改めて方角を確認してから進もうとしたとき、陰力の波動が俺たちを包んだ。それは微々たるものだったがこの聖域の中でアム以外の何かが発したものだということはあきらかだ。
「ラグナ、今の感じたか?」
「あぁ、あっちからだ」
わずかに踏み固められていた獣道を外れて深い森を進むのだが、まるで森がそこへ至ることを拒むように、草木や枝を張り巡らせ、朽ちた倒木が進路を塞ぎ、ぬかるんだ土が足元をすくう。
陰力の波動はあの一瞬だけで感じなくなった。むしろ、より一層輝力が強くなったようにさえ思える。
覆い隠すような濃い輝力の領域の先にそれはあった。
古めかしく色褪せ黒ずんだ白い大きな建物。見たことのない長方形の四角い壁で囲われたこれこそが、魔女に襲われたという研究施設に違いない。
当然だが建物からは人の気配などは感じられなかった。
「この施設が聖域の中にあるということは、意図的に隠されていたということだろう」
「でもなんで隠す必要があるんだ?」
「なぜ人が近づけないように隠したのかはわからないが、誰が隠したのか見当はつくだろ?」
「あぁ」
これほどの聖域を作り出せるのは聖霊仙人と呼ばれたその者しかあり得ない。人を近づけさせないその理由はこのあとすぐにわかった。
三階建てで横幅三十メートル、奥行きも同じくらいはありそうだ。正面の少し奥まったところにガラス張りの出入り口がある。
「ボロボロだ」
ガラスの扉は穴は空いていないものの多数のヒビが入っていて中の様子は見えにく。
俺は観音開きになる二つの扉の一つに左手を伸ばす。
「待て!」
取っ手を握ろうとした瞬間にうしろから付いてきていたアムが慌てた声で叫んだ。
「え?」
少々驚き振り向いた瞬間に伸ばした左手の指先が扉に触れてしまう。すると、左手から自分に向かてくる眩い光と一緒にバシッという大きな音と衝撃を受けて弾き飛ばされた。
「おわぁ~」
声を上げながらアムにぶつかりもつれて入り口前の石畳に倒れ込む。
「ごめん」
押し倒すようにアムの上に被さっていた体を慌てて持ち上げると、自分の体に起こっていた異変に気が付いた。
「あぁ!」
奇跡の鎧が展開され俺の体を包んでいたのだ。
扉に触れた左腕は何かが弾けた衝撃でビリビリと痺れている。
自分の意思では展開できない鎧が俺を包むなんてただ事ではない。なんらかの攻撃から自動的に護ったということだ。
「なんで鎧が?」
起き上がった俺はゆっくりと扉に近付いて、もう一度左手を伸ばし扉に触れると指先から光の飛沫がサラサラと流れ出す。
「陰力の浸食に対抗しているのか?」
アムの問いに振り向いて頷く。
「陰圧はそれほどでもないけど、密度が凄まじい。普通の人だったらショック死するレベルだな」
「これが聖域の中に隠されていた理由というわけだ」
「その通りです」
俺とアムの会話に割って入ってくる声が古めかしい廃墟と化した研究施設の建つ森の中に響く。そして、その声には聞き覚えがあった。
振り向いて辺りを見回すが姿はないが、この街に来る直前にも同じことがあった。
「あのときの森の妖精だな」
「旅人よ、街に行ってはいけないと忠告したはずです」
可愛らしい声に似つかわしくない真剣な声色がアムの問いに対した返答として返された。
「あの街はこれから戦場となります。いえ、戦場なんて言葉では生ぬるい惨劇の場になるでしょう。しかし、普通なら辿り着くことのできないこの場所ににわざわざ
「そうだ、わたしたちはこの一件に深く首を突っ込むことにしたのだ。そのために過去にどんなことがあったのか知っておきたくて、魔女に襲われたというこの研究施設に来た」
「この建物は聖霊仙人の聖域の力によって陰力が外に漏れないように閉じ込めています。建物の外にはわずかにも漏れ出すことはありませんが、その境界を越えれば誰も生きていられません」
森の妖精の言うことに嘘はないだろう。俺の指先が触れただけで自己防衛的に鎧が猛烈な勢いで展開して俺を護った。常人ならそれだけであの世逝きだったかもしれない。
この輝力に満ちた澄み渡る空間の聖域に隔絶された向こうは、何人も立ち入れない負の領域なのだ。
「これでわかったはずです。あなたたちは少々腕のたつ闘士なのかもしれませんが、この場も、これからあの街で起こるであろうことも手に負えることではありません。早急にこの街の領土から離れるのです」
一層重い口調で告げられた警告に、俺はアムの背中を見る。
二呼吸の間を置いてアムはあっけらかんとした声で森の妖精に返した。
「姿も見せない誰とも知らぬ者の言葉を鵜呑みにできない。わたしたちは街に行き必死に魔女を封印しようとする者たちを見てきた。魔女を倒すと言いながら封印を邪魔するおまえを簡単に信用できるはずがなかろう」
やれやれというような大袈裟な身振りをしながら発せられたアムの言葉に、森の妖精の言葉が止まる。
「それに、わたしたちや街の英雄率いる精鋭部隊ですら手に負えないという魔女を、おまえはいったいどうやって倒そうというんだ? 倒す自信があるとしても、街の者に手を貸して再封印する方が確実なんじゃないのか?」
もっともな意見だろう。成功実績のある封印術があるに危険を冒してまで魔女と闘う必要は無い。魔女を倒すことに失敗すれば街は壊滅。いや、その後も魔女被害が拡大して他国の脅威になることも十分ありえる。
街の人々の邪魔をしてまで封印の儀式を阻止するほどの理由があるのか?
沈黙が続く中あれこれ考えていると、森の妖精が口を開いた。
「街に立ち寄っただけの部外者であるあなたたちに話すことではないと思っていました。それに、姿を見せても信用してもらえるとは思えません。以前街の人々の説得のために姿を見せたことがありましたが、わたしたちの姿を見た者は『呪われる』とか『魔女の使徒』など言い放ち、話を聞いてもらうことさえできませんでした」
『わたしたち?』
「ですが、しかたありません。これ以上深入りすれば命にかかわります」
そこで言葉を切ると俺たちと森の妖精が潜むであろう草むらの中間に小さな光が灯った。
その光は徐々に大きくなって眩さを増していく。
「閃光の法術?!」
小声でアムが呟くと、光の向こうに薄っすらとした影が動いた。
影は逆光の中で大きく揺らめきながら濃くなり人の形をなしていく。
まるで転移門から現れたかのようなその演出を俺たちが見守る中、その影はゆっくり、そして大きく腕を振って舞い、目の前に躍り出る。
その舞はまるで曲に合わせて踊るように優雅だった。そう、曲に合わせるように……。
「演奏しているのはだれだ?」
再びアムが小声で呟いた。
「…………」
数秒の舞が終わり両手を広げ片膝を付いて地に伏せる。
その姿は可憐な少女でありながら、風格は神々しささえ感じさせた。
隠しているとはいえこの滲み出る風格からすると森の妖精の中でも上位の妖精なのだろう。
登場演出にはある意味度肝を抜かれたが、彼女から感じたその風格に心身が引き締まる。
閃光が弱まるにつれて冷汗が出そうな緊張感が沸き上がってくと、森の妖精はまた舞うように回転しながらふわりと跳び上がり優しく着地した。
130cmほどの小柄な体、すらりと伸びたしなやかな四肢、森の木々の隙間から降り注ぐ太陽の光にきらめく短い金の髪。
優しく、そして力強い意志を感じさせる瞳とその瞳をも超える存在感をかもし出す品位溢れる……
「ヒゲーーーー!」
「ぶはっ!!」
可憐なる森の妖精の少女は口ヒゲを蓄えていたのだ。
驚愕の事態に俺は叫び、アムは吹き出しお腹を抱えて笑わらっていた。
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