邪念獣
研究所内は昼間のように明るく照らされていながらも、この不穏さによって四割減程度に感じてしまう。
研究所の広間は入口から見て幅が三十メートル、奥行き四十メートルほどの広い空間で、テーブルや機材がいくつか置かれていた。
壁には扉がありそこは大小様々な部屋となっているようだ。エイザーグの研究室、法具の開発室、新法術の開発室、科学にかんする研究室などなどがあるらしいことが扉のプレートに書かれた名前である程度見当がついた。
話に聞いてはいたけど、地上の博物館くらいの広さはあるようだ。
ガラス張りの部屋や頑丈そうな個室、いくつかの部屋は結界石の埋め込んだ柱で包まれているのだが、扉やガラスは破られてひどく荒らされていた。
「いったい誰がこんなことを」
リナさんは不安をあらわにしている。
俺もどうすればいいかと焦っていると、リナさんは広間の奥の扉に向かって歩き出した。
「待ってリナさん。危険だよ。この向こうにはなにか恐ろしい者がいる」
俺の警戒心も最大の警報を鳴らしている。
「でも、この向こうに重要な研究素材や奇跡の鎧があるの。それにまだ所員が生き残っているかもしれない」
足を止めないリナさんを俺は慌てて追っていく。しかし俺の足は恐怖によって力が入らずフワフワと浮いたような感覚だった。
「リナさん戻ろう。この先にいる奴は俺たちの手には負えない」
小声で伝えながら掴んだリナさんの体は震えていた。だが、リナさんは戻るつもりはないらしく、破壊されて開け放たれている扉の横までやってくる。
「だめ、あの鎧だけは失うわけにはいかないわ」
そっと扉の先を
それは赤黒い体毛で強力な陰力を持つ獣だった。
「なんか見覚えがあるぜ」
アムサリアが現れる前日に地元自警団の野生獣の鎮圧・討伐作戦のときに出会った獣に似ているのだ。ただし、発する陰力と体の大きさは段違いである。
「まさかあれって陰獣?」
『いや、あれは邪念獣だ』
アムサリアがリナさんの疑問に答えた。
「あれは邪念獣だってさ」
俺を通してアムサリアの言葉を伝えると、リナさんはぶるりと体を震わせた。
「邪念獣って。それってエイザーグの分離体のはずじゃ?」
エイザーグが討たれた今、陰獣もさることながら邪念獣は存在するはずがない。反対に考えると邪念獣が存在するということは、やはりエイザーグが……。
ここに来て突然の事態になにをどうすればいいのかわからない。ただひとつ予想できるのは、その邪念獣がここに保管されている奇跡の鎧を狙っているということだ。
「あの部屋は他の部屋よりも強い輝術結界が張られてるけど、この調子じゃ長く持たないかもしれないわ」
それは他の部屋のありさまを見れば俺でもわかる。このまま逃げ出したいのはやまやまなのだが、リナさんとクレイバーさんの大切な研究対象であり、なによりアムサリアの無二の相棒である奇跡の鎧が狙われているとなれば置いていくわけにもいかない。でも、まともな防具もなく真っ向から立ち向かっても太刀打ちできないこともあきらかだ。
葛藤する俺は体も動かなければ言葉も出ない。そんな俺の葛藤を見抜いてか、リナさんは俺に言った。
「わたしに考えがあるの」
その言葉を聞いてようやく俺は葛藤から抜け出した。
「あの部屋にはおじさまが作った緊急用の法具があるの。それを使えばきっとあの邪念獣を抑えることができるわ。そのあいだに奇跡の鎧を持ってまだ生きてる所員と一緒にここを出ましょう」
「つまり、そのためには邪念獣をどうにかしてあの部屋に入らないといけないってことだよね?」
リナさんは困り顔でうなずく。
俺が再び葛藤に入ろうかというとき、
『ラグナが奴の気を引いているあいだにリナが部屋に向かう。これしかない』
アムサリアの言葉で俺は踏みとどまった。
「そうだな……。リナさん、俺が奴の気を引く。だからそのあいだに君があの部屋へ」
俺は鞘から剣を抜いて柄を強く握りしめた。
邪念獣のいる場所は、俺たちが今いる大広間ほどではないがかなり広い。奴を部屋の隅に誘導すればリナさんを安全に奇跡の鎧のある部屋のところに行かせることは可能だろう。あとは俺がどれだけ持ちこたえられるかだ。
「行くよ」
「うん」
リナさんが心配げに返事をするのを聞いてから、俺は素早く扉を抜けて奇跡の鎧がある小部屋と対角線に位置する隅に走った。
「おい、邪念獣!」
その声を聞いて邪念獣の動きが止まる。そして振り向いた。
「くっ」
その視線が向けられただけで俺は一瞬硬直してしまう。言葉が通じるわけはないが、挑発するためになにか叫ぶつもりであったのだが、声を出すことができなかった。
邪念獣と俺の距離は二十メートル以上ある。おそらく二メートルはあるであろう熊のような邪念獣の体が、俺の目には実際よりも大きく見えていた。
その巨体が一歩二歩と踏み出すと、四足歩行となって突進してくる。そして二十メートルという距離はあっという間にゼロになり、その勢いのままに恐ろしい力を
俺が倒れながら横に逃げるその後ろで、壁が大きく損壊した。そのことに驚く時間も与えずに邪念獣は腕を振り回し、そのたびに壁や床が壊れていく。
『こんな奴とどうやって闘えばいいんだ』
もはや俺の頭には闘うという思考は消え、避けることもできずに逃げ回る。法術法技どころか剣術さえも使う余裕もなく、リナさんが部屋にたどり着いたことすら気が付いていない。
『し、死ぬっ!』
俺の背後には死への扉が開かれ、俺がくぐるのを待っているようだ。とにかくひたすら逃げ回る。完全に恐怖に負け、このことを思い返せばこんな自分は闘士として失格だと激しく後悔するであろう。
そんな中で今起こっているような出来事が、以前もあったというような既視感を覚えていた。
それは邪念獣が攻撃を振るうたびにチクチクと頭の奥底を刺激する。
『ラグナっ!』
焦りと不安の感情のこもったアムサリアの声を聞いたとき、その既視感の正体があきらかになる情景がいくつか思い浮かぶ。
『こんなときになんでアムサリアの記憶がっ』
一瞬で頭を駆け巡る記憶がまるで走馬灯のようだと思ったとき、邪念獣の振り回す爪の先が胸当てをかすめる。
「うおっ」
その爪に帯びた陰力の渦に巻き込まれた俺はきりもみ状態で宙を舞い床に倒れた。
薄目を開けた目の前に、邪念獣の足が迫っていた。それを転げてどうにか避けた俺には、もはやひとかけらの闘志も存在していなかった。
「ぐるぅぅぅぅぐあぁぁぁぁ!」
邪念獣の唸りに体が硬直する。振り上げたその手にはこれまで以上の陰力が帯びていた。
『リナ、早く!』
アムサリアの声が聞こえたとき、目の前の邪念獣を電撃が包んで拘束した。
「プラズハ…………ルード」
『その名はっ!』
なかば無意識に出たその言葉にアムサリアが反応したのだけはわかった。
「ぐおぉぉぉぉぉぉ」
電撃に拘束される邪念獣。その情景がさらなる既視感を生む。
「ラグナ君、いまのうちにこっちへ! みんなも無事なら今のうちに外へ!」
リナさんの声。そこでようやく俺は
閉まっていた扉からは十数名の所員が一斉に飛び出して逃げていく。俺も四つん
高鳴る心臓はしばらくのあいだ激しく打ち続け、それに合わせた呼吸を繰り返していた。
「大丈夫?」
それ以外の言葉がないのだろう。リナさんは俺の背中に手を置いて、落ち着くのを待っていた。
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