第9話 友人の手記:与えて奪う「干し馬」

 夜の都内で食べるのであれば、夜景が楽しめる高層ビルの上層階がいい。眼下に有名なスクランブル交差点を見下ろせるタワーや、東京スカイツリーと東京タワーを一方向から見ることのできる絶景スポット、ルーフトップになっていて、冬はやや肌寒いが自然の空気が心地いいタワーなど、様々な高層ビルのレストランで食事を楽しむ。


 「干し馬」は変わらずついてくるし、空腹感も、ちょっと油断すればすぐに私を追いかけてくるが、少しだけ慣れて、それすらも楽しもうという気になってきた。


「少なくとも、綺麗な夜景は私を裏切らないようね」


 ガラス面に映る「干し馬」越しに、なお輝いて見える東京の夜景を見て、ふと、そう呟いた。


 だが、そんなこと、呟かなければよかったのかもしれない。


「奪うことは、与えるだけ与えてから実行した方が、落差が大きいからね」

「…えっ!?」


 声が聞こえた気がした。あのカラオケで聞いた、私じゃない私の声。


「だから、せいぜい、今を楽しむといい」


 全てのガラス面から、「干し馬」の姿が消えていく。

 まるで、嵐の前の静けさのように。


「ただいまより、ザ・ラジオスターズによる、ジャズの演奏を開始します」


 アナウンスが流れ、レストランの明かりが落ちる。


 ジャズが流れ始める。


 美しいが、どこか寂しい、孤高の音楽。


 ザー、ザー。


 まるで、ラジオを聞く時のような、微かな雑音が耳に入る。


 ザー、ザー。


 雑音が大きくなっていく。


 ザー、ザー。


 うるさいな、と思う。


 ザー、ザザー、ザー。


 雑音は、ジャズの音をかき消し始める。


 ザザー、ザザー、ザザザー。


 気付くと、霧に覆われたのか、外の夜景もぼやけ始めている。


 ザザザザザザザザザザー。


 雑音は、いよいよひっきりなしになる。


「何かしら?」


 私はひとりごちる。


 ザザザー、ザザー、ザー、…、ザー、……。


 雑音が、収まってくる。


 しかし、目の前で奏者がジャズを演奏しているにもかかわらず、私はそれを聞くことができない。

 人々のたわいもない雑談は聞こえるので、まるで音声にフィルターでもかけられたかのようだ。


「言ったでしょ?与えてから奪った方が、その絶望感は大きくなる、と」


 私じゃない、私の声が響く。


 「干し馬」は、私が慣れることすら、許してはくれないらしい。


 不気味だが、泣き出す気力すら起こらない。もう、疲れたよ。


「だが、まだ奪い足りない」


 声が響く。


----


 私は、その友人の手記をめくる。


 職業だけではない。

 様々なもの、僅かな楽しみさえも、徹底的に追い詰めて、人を干し上げていく「干し馬」。


 どうやら、その存在が奪いたいものは、人生におけるあらゆる幸せらしい。


 職業を与えないことで生きる術を奪い、残された時間をどう使おうとしてもそれすら妨害して、生きる希望を奪う。


 そして、最終的には、恐らく生そのものをも奪うのだろう。


 その被害に遭った友人が、慣れたとしても感じ続けたであろう恐怖を想うと、加えているメビウスの先が、ぶるぶると震える。


 だが、私は、読む必要がある。「干し馬」の謎を解き明かすために、そして、得られた知識によって、「干し馬」に立ち向かうために。


----


 夜景もジャズも奪われ、疲れ果てた私は、早々と夕食を切り上げると、レストランを出た。

 何も見えないのであれば、高層階にいることは、ただ疲れるだけである。


 楽しみを奪われた私は、家に帰り、ベッドの上に倒れ込み、泥のように眠る。


「まだ奪い足りないようだね。明日が楽しみだわ」


 うるさい。


 とうとう夢の中にまで入り込み始めた「干し馬」が、安眠すら許してくれないのを予感する。


 寝ても覚めても「干し馬」は追いかけてくるであろう。夢の中で、深い安眠に入れずにさまよう私は、そう思う。


 時間は、ただ徒に経過していく。


 どれぐらいの時間、私は精神的なスリープウォークを続けていたのであろうか。


「む…」


 差し込んできた朝の光を感じて、私は目を開ける。


「今は…」


 既に、朝の10時になっていた。今日は、13時から、一応残している本命企業の筆記試験が始まる。


「急がなくては」


 一見時間に余裕はありそうなのだが、会場までの道が複雑で、移動時間を結構取られる。それなりの身だしなみを整える必要もあるから、身支度にも意外と時間がかかる。


 既に、10時という時間は、急がないと試験に間に合わなくなる、ギリギリのライン上であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る