第8話 友人の手記:母の死と、満たされない食べ歩き

 一人カラオケの時間を「干し馬」に壊された私は、家に帰って、ひとまずは寝る。


 まだ、寝ている時間は、何とか「干し馬」に奪われずに済んでいるらしい。


 だが、うつらうつらとしかけて、気付く。


 ここに来ているはずの母が、どこにもいないのだ。


 奇妙に思った私は、再起動させたスマホの画面を確認する。


 画面こそ割れてしまったが、一応は動作していることにホッとしつつ、通話履歴や、母からのラインを確認しようとして、ぞっとした。


 電話など、そもそも来ていなかったからだ。


 代わりに入っていたのは、父からの通話履歴だった。異常な数の履歴。


 不審に思った私は、父に電話をかけてみる。


「もしもし、お父さん」

「やっと出たか。昨日はどうしていたんだ?」


 電話越しの父の声は、狼狽していた。微かに怒りを含んでいるようにも見えた。


「寝てたのよ。夜中にかけられても困るから、スマホは鳴らさないようにしていたわ」

「そうか…。まあ、いい。すぐに帰ってきて欲しい。お母さんが…」


 言い淀む父の声に、不審な予感を覚えて、私は先を促す。


「ん?」

「落ち着いて聞いて欲しい。昨日、心臓発作を起こして、亡くなったんだ」

「えっ?」

「うん、信じがたいが、本当なんだ。急性心不全で、搬送されたときにはすでに手遅れだった」

「そうなの…」


 偶然にしては出来過ぎている。これもまた、「干し馬」の仕業かもしれない。


「だから、すぐ帰ってきて欲しい」


 私は、それに応じたかった。が、私自身残された時間がどれだけあるか分からないのだ。


「えっと、悪いけど、今はこっちも立て込んでるから、厳しいかも」

「就活、休めないのか?」

「冠婚葬祭によるダブルチャンスなんて、試験や面接では認められないのよ」

「でも、確か、内々定があったはずじゃ…」

「そっちは本命じゃないのは、お父さんも知っているでしょ?これからが本命の勝負だから」

「うん、分かった。それなら、仕方ないな。生きている人の人生の時間は、無理してまで死んでしまった人のために使うべきじゃないからね。

 頑張ってな」

「うん」

「じゃあ、また今度」


 父は、この辺理解がある人で助かる。


 本当は、もう就活は、万一の時に備えた本命など、二、三に絞って、遊ぶだけ遊ぼうと持っているんだけどね。

 どっちにしろ、今は母が死んだからと言って、湿っぽくなっている場合ではなかった。


 いずれにしても、死を前にすると、自分の望むものに対して素直になれるのはよいことだ。皮肉なことでもあるが。


 そして、今は…。


「とりあえず、お腹すいたな」


 あの猛烈な飢餓感であるが、慣れると少しはそれでも落ち着ける。


 冷蔵庫は空だ。そうなると、外食しかない。


「ひとまず、一度行ってみたかったお店を一通り回るか」


 私は、通帳を持って、出かける。残された時間が少ない以上、今日は大胆に下ろそうと思う。


----


 メビウスの火が消える。


 私は、おもむろにもう一本取りだして、火を点ける。


 手記は続いていく。


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 銀行に向かう途中で、またスマホが鳴り出した。


「また、なのね」


 二度目になると、もう最初ほどのショックはない。でも、やっぱり、悔しいや。


 ちょっとばかりこぼれる涙を素早く拭って、私は電話に出る。


「もしもし」

「ああ、悪いけど、君の内々定は取り消したから。理由は自覚あるよね?じゃ」


 ツー、ツー。


 いくらなんでも、あっけなすぎるわ、と思いつつ、私は、気を取り直して銀行に向かう。


 銀行のATMに並んでいる人は少なく、私は、スムーズに、とりあえずそれなりの額を下ろすことができた。


 さて、と。前々から行きたかったホテルのフレンチにでも行くか。


 こうして、私は都心の環状線のとある駅の近くに建っている、日本有数の老舗ホテルの前に足を運んだ。


 そこから先は、楽しい時間になるはずだった。


 だが、「干し馬」は、それを許してくれはしなかった。


 グラスの水に、スープの上に、更には、フォークやナイフにまで、反射して、私を追ってくる。


 加えて、猛烈に私を追い立てる飢餓感が、料理を味わうことを許さない。


 朝食のセットをすっかり平らげても、私は全く楽しめなかった。


「でも、満腹に近くなるころには、慣れるはずだわ。もう一軒…」


 そう思い直して、私は、大使館などが集中する街の近くの、小高い丘の上に建っているホテルや、回転展望台が特徴的なホテルなどの高級店をめぐって、それでももなお湧きあがる飢餓感を、繁華街の穴場の大衆レストランのボリューム宇宙人なる2キロほどの超大盛ナポリタンで何とか埋め、更にいくつかの有名な商業施設の中にあるレストランを何店か回る。


 やっと少しは空腹感も収まり、「干し馬」にも慣れ、少しは味を楽しめるようになったのは、既に日が落ちかけた頃であった。


 毎日こんな生活はできないので、これからはもう少し飢餓感を我慢しつつ出費を抑えざるを得ないかもしれない。


 が、ここまで来てしまった以上、今日はディナーもおしゃれにはしごしようかしら。

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