第5話 友人の手記:空腹感と生存願望、そして後悔
私の人生でも、これまで、ここまで激しい空腹感に襲われたことはなかった。
医学の知識のない素人でもわかる。これは、異常だ。
食べたい。猛烈に食べたい。底なしに食べたい。
そう思った私は、衝動的に家の冷蔵庫を開けた。
中に入っている生肉のパッケージを掻きむしり、衝動的にかじりつく。
調理されていない生肉は噛み切りにくいが、それをも気にせず、私はひたすらに食らいつく。
肉で腹は満たされると思った。
だが、まだ足りない。
まだ足りない、猛烈に腹が減る。
私は、入れてあった1.5リットルのペットボトルのコーラをも飲み干す。
それでもまだ足りない。今度は、…。
ひたすら食べまくっているうちに、冷蔵庫は空になってしまった。
普通であれば辛すぎてそのままでは食べられないはずのタバスコや、業務サイズで1kg入りのもので、まだ8割ぐらい残りがあったマヨネーズですら、もはや私の腹の中に消えてしまった。
結果として、私の腹は辛うじて満たされたが、すぐにまた空腹に襲われる予感がして、その予感ゆえに気分的には満たされなかった。
そして、あれだけ食したにもかかわらず、私の体は、むしろ軽くなっている気がした。
「どういうことなのよ」
私は、そう漏らして、恐る恐る体重計に乗った。
体重が、1キロ減っていた。
「あれだけ食べればむしろ増えるはず。質量保存則はどうなってしまったのよ…」
もはや、呆れて言葉も出なかった。
ひとまずは、これだけ食い散らかしても何も言う人がいない一人暮らしの環境だったことを喜ぶとしようか。
この上同居者がいて、彼らにがみがみ言われたんじゃたまったものではない。一人で良かった。
しかし、これは間違いなく、あの「干し馬」の影響だろう。
何とかしない限り、私は死んでしまうに違いない、
お祓い、自己暗示の解除、謎のウィルスの特定…。
ダメだ、こんな時なのに、何故か漫画のような発想をしてしまう。
何となくうまく生きてきた。そんな私が、何となく読んできた漫画のアイディアばかりが脳裏をよぎる。
しかし、多くの呪いは、その正体を解き明かしてもなお、解除できない。
たとえ解除できたとしても、それまでの間に犠牲が生まれてしまう。取り返しのつかない、大きな犠牲が。
「でも、この世界は漫画の世界じゃない。現実世界だ。である以上、漫画のような結末になるとも限らないわ」
口に出していってみて、それがいかに虚しい言葉かに気付かされる。
悔しい。
これまで、何となく生きてしまった自分が悔しい。
こんなことになるのなら、何事にも本気を出しておけばよかった。そうすれば、あるいはこんな状況でも糸口はつかめたかもしれないのに。
そう考えると、枯れていた涙が再び溢れてくる。
「ううう、あーーーん、えーーーーん」
声が聞こえる。よく考えると、それは、自分の声だった。
何もかもがあふれ出す感覚。力が抜ける。
私は、いつしか、身もふたもなく、床に膝をついて泣き崩れていた。
昨今では、ただ涙を流すだけで「号泣」と表現する人もいるが、そうではなく、こうして声も身体の底から溢れ出す泣き方、真の号泣は、いつ以来だろうか。
傷付くのが怖くて、いつしか本気の感情を出さず、出す感情すら制御してきた自分。
高校の部活の大会で負けたときも、中学の彼氏に振られたときも、泣いたけど、それでもその涙は抑えられたものだった。
人前だから、人並みに。それ以上は、どんなに叫びたくても、抑えてきた。
いや、そもそも、ここまで叫びたくなることもなかった。
何となく生きてきたから。
そうして、傷付くということすら、ごまかしてきたから。
それなのに。
この時、私は、心の底から生きたいと叫んでいた。涙が鼻に流れ込んで詰まった声で、見苦しいぐらいに叫んでいた。
書いていて、この時のことを思い出すと、今は不思議と冷めている。それでも…少しだけ、また涙が出てくる。
どんなに絶望的な状況であっても、人は生きたいと願うものなのかもしれない。
否、いつか死ぬという意味では、人生は最初から絶望的な状況だ。生きることを望めば望むほどそうなるのに、それでも生きたいと願ってしまうのだろう。
私は、こうなる前に、もっと早くに、この心の奥底を流れるたった一つの願いに耳を傾けるべきであった。
しかし、もう遅いのかもしれない。あるいは、遅すぎはないのかもしれない。
いずれにしても、私は、自分の生き方を見直して、残された時間を生きようと、その時思ったのだった。
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