第152話 いつの間にか生えていたらしい。
10月10日、日曜日の深夜の事。
隣のベッドで眠っている天ノ川さんが、静かな寝息を立てている事を確認した上で、自分のベッドについているカーテンを、そっと閉める。
明日の「甘栗祭」で浮かれない為にも、鎮静の儀式は必要だ。
脳内惣菜を検索しつつ、左手で枕元にあるティッシュの残量を確認する。
僕の脳内辞書が定義する「カノジョ」とは、性欲を満たしてくれる存在である。
今の僕にとって、その条件に該当するのは、己の左手のみ。
お嬢様方に囲まれた環境で、充実した生活は送れているのだが、出すべきものは出しておかないと、いろいろと
左手の指を欲棒に巻き付け、儀式を開始する。
息をひそめ、耳を澄ましながら、ゆっくりと左手を動かし始めると、廊下から足音が聞こえた。警備員のお姉さんだろうか。
スリッパの足音は段々と近付いてきて、101号室の前で止まったようだ。
そして、数秒後――
「……お兄さん……起きてますか?」
カーテンの外からとても小さな声で、ゆっくりと話し掛けられた。
僕は心臓が止まるかと思ったが、誰の声であるのかは、すぐに分かった。
「……ハテナさん、こんな時間に何か御用ですか?」
「……お誕生日……おめでとうございます」
どうやら、もう午前0時を回っているらしい。
ハテナさんは、僕がこの時間まで起きている事を予測して、真っ先にお祝いを言いに来てくれたようだ。これは、喜んでいいのだろうか。
「……ありがとう。でも消灯時間は過ぎているから、すぐ
「……分かっています。これ、よかったら使って下さい」
カーテンの隙間から、見覚えのある白い布を手渡された。どうやらハテナさんのパンツのようだ。しかもゴムが伸び切っていてヨレヨレだった。
「……あの……ハテナさん、これは……?」
「……それは、もう
他の1年生だったら頭の中身を疑うところであるが、この子の場合は特別だ。
僕と同い年のカレシがいて、高1男子の生態や
僕は、ゴールデンウィークにハテナさんに言われた事を思い出した。
――男子って、パンツ好きですよね。
たしかにその通りなので、あの時は否定しなかった気がする。
あの時、否定してあげたほうが、この子の為だったのかもしれない。
「……洗濯は、してありますから……
いや、むしろ洗濯していないほうが……って、それでは、ただの変態である。
ここは
「……ありがとう。大切にします」
「……それはダメです。恥ずかしいので、1回使ったら必ず捨てて下さい」
僕は「使わずに」保管するつもりだったのだが、「何回も使うつもり」だと思われてしまったようだ。恥ずかしいのは僕の方である。
「……了解しました」
「……それでは、お兄さん、おやすみなさい」
「……おやすみなさい」
16歳になって、初めて女の子からもらった記念すべき誕生日プレゼントが、まさか「使い古しのパンツ」だとは……。ハテナさん、恐るべし。
貴重な「
翌朝、枕元にあったハテナさんのパンツを、こっそりと自分の机の引き出しにしまい、何事も無かったように洗面所兼脱衣所へ向かう。
脱衣所の奥では、今日も天ノ川さんが手際よく洗濯物を干してくれていた。
例によって、ポロリちゃんは朝食準備の為に早起きをして先に部屋を出ており、ネネコさんはベッドで熟睡中だ。
「天ノ川さん、おはようございます」
「おはようございます。夜は、ゆっくりと休めましたか?」
「まあまあって、ところです」
「あとちょっとだけ、お待ち下さいね。すぐに干し終わりますから」
「いえ、いつも僕の分まで、ありがとうございます」
「ふふふ、右手が治るまでは仕方ありません。どうぞお気になさらずに」
「早く治ってくれるといいんですけど……」
邪魔にならないよう、少し離れた所から、天ノ川さんの仕事を見学する。
手伝いたいのに手伝えないのは、とても残念な気分だ。
「――お待たせしました。はい、どうぞ」
天ノ川さんは洗濯物を干し終わると、いつものようにお湯で湿らせたタオルを用意してくれた。
「ありがとうございます」
両手が使えないときは顔まで
世話好きな天ノ川さんは、少し残念そうな顔をしていたが、甘えすぎるのも良くないだろう。
僕が顔を拭いている間に、天ノ川さんは自分の
「ふふふ……、今日は甘井さんのお誕生日ですから、私からのプレゼントです。どうぞ、お掛けになってください」
僕が椅子に座ると、天ノ川さんは小さな容器を右手に持ち、左手のひらに向けてシューっとスプレーする。
そして、左手に取ったその泡状のクリームを僕の鼻の下と顎に塗ってくれた。
「床屋さんみたいですね。『
「はい。甘井さんは、気付いていらっしゃらないようでしたから」
「どこか変でしたか?」
「そうですね。甘井さんに、おヒゲは似合わないと思いますよ」
「僕、ヒゲなんて生えてましたっけ?」
「ふふふ……、このあたりです」
鏡をよく見ると、初めてお
ヒゲというには恥ずかしいほどに、頼りない感じだ。
「たしかに、これはカッコ悪いですね」
鼻の下も、ヒゲというよりは、ウブ毛が濃いだけのような気がする。
「このくらいでしたら、女性用のカミソリでも問題ないはずです」
カミソリは女性用らしい。売店には男性用がないので仕方ないだろう。
デザインが女性向けであるだけで、カミソリには違いない。
「カミソリって、ほとんどの人が使っていますよね。僕は、まだ自分で使った事がないです」
女性用のカミソリは、売店の売れ筋商品だ。暑いと特に売れる商品で、今年は前年比200%以上の売れ行きだったらしい。
「甘井さんは、毛深い女性をどう思われますか?」
「そうですね、毛深いお嬢様っていうのは、どうかと思いますけど……」
「ですから、みんなカミソリを使って身だしなみを整えているのです」
お嬢様方の
「そうですか。女の子は大変ですね」
「ふふふ……、甘井さんも、楽なのは、きっと今のうちだけですよ」
「それは、どうしてですか?」
「オトナの男性は、こうして毎日ヒゲを剃らないといけませんから……少し、頭を後ろに倒してみて下さい」
「……こうですか?」
頭を後ろに倒すと、上下逆の天ノ川さんの顔が間近に見える。
僕の頭の下に枕があるのは、おそらく天ノ川さんのおっぱいだろう。
「はい。それでは、始めます。じっとしていてくださいね」
天ノ川さんは、僕の生えかけのヒゲをカミソリで綺麗に剃ってくれた。
いつも自分の肌を手入れしているだけあって、手慣れた感じだ。
剃り終えた後、再度お湯で湿らせたタオルで顔を丁寧に拭いてくれて、最後に肌荒れを防ぐ為の化粧水までつけてくれた。
「はい、ヒゲ剃り終わりました。こちらが私からの、お誕生日プレゼントです」
「ありがとうございます。右手が治ったら、今度は自分でやってみます」
替え刃付きのカミソリとシェービングフォームと化粧水、このヒゲ剃り道具一式を僕にくれるらしい。
16歳になったばかりの僕は、また少しオトナになった気分だった。
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