コウクチ先生の裏話 その5

第143話 あれから1年が経過したらしい。

 今日は9月23日の木曜日。秋分の日なので、学園の授業も休みだ。


 当然、我々教師も休みだが、俺の場合は日曜日にスクールバスの運転があって、もともと木曜日が休日なので、祝日であっても実はあまり嬉しくない。


 それに、休みだからといって家に居ても、人使いの荒い姉にき使われ、体を休めている暇もあまりないのである。


 今日もランチタイムは、かなり忙しかった。手伝いが必要となるほど、うちの店が繁盛しているのならば、それは俺にとってもいい事ではあるのだが。


「オナちゃん、お疲れ様。いつもありがとなあ」

「お疲れ。昼はここまでってところか」


 俺の姉が経営している「ぽろり食堂」は、お昼の客が引くと、夕方まで店を閉めてしまう。ずっと開けていても、ほとんど客が来ないからだ。基本的に姉が1人でやっている店なので、営業時間はかなりアバウトである。


 店の入口に掛けてある「営業中」の札を裏返して「準備中」にする。

 今日のランチタイムは、これで終了だ。


「じゃ、俺は学園に顔を出してくるから。夕方には戻るよ」

「いってらっしゃい。気いつけてなあ」


 店の手伝いが終わったので、近くの駐車場に停めてある「ぽろり食堂」と店名の入った車で学園へ向かう。これは仕事ではなく、プライベートな用事だ。


 今日は学園で「寮の運動会」が行われており、競技に参加しない「俺の嫁」が暇つぶしに俺を呼んだのだ。


 去年の俺は運動会が寮の行事であると知らなかった為、祝日なのにわざわざ朝早くから学園まで様子を見に行ってしまった。


 寮の運動会は姉妹学年同士で3つのチームで争われ、俺の受け持っていた5年生は2年生と一緒に黄色い鉢巻をしており、見事優勝を果たした。


 あれから、もう1年も経つというのか。あっという間だった。




 曲がりくねった坂道を30分ほど上り、裏門の前に車を止める。


 裏門の扉は、4桁の番号で開く自転車用のチェーンロックで施錠されており、番号を知っている関係者なら簡単に入る事が出来るようになっている。


 大きな扉を開けて車ごと中に入り、再びチェーンロックで施錠すればOKだ。


 嫁との待ち合わせ場所は、いつもと同じ理科準備室。俺は1日くらい嫁と顔を合わせなくてもいいと思っていたのだが、嫁のほうは、そうではないらしい。


 誰もいない廊下を歩き、理科準備室の前まで来ると、隣の理科室から何やら話し声が聞こえる。


 盗み聞きするのは気が引けるので、ここは堂々と様子を見に行くことにしよう。


「よう、こんなところで2人で何してるんだ?」


 理科室の中には、競技不参加なのに体操着を着ている俺の嫁と、セーラー服の上に割烹着かっぽうぎを着ている生徒がいた。


「2人で、せんせを待ってたに決まってるじゃない」


「はい。トモヨさんから先生がいらっしゃると聞いて、ワタクシも同席させていただこうと思いまして、お待ち申し上げておりました」


 この、やたら堅苦しいヤツは、俺の担当する6年の生徒で百川ももかわ肚身はらみ

 割烹着が良く似合い、後輩達からは「女将おかみ先輩」と呼ばれている。

 うちのロリが所属する料理部の部長で、趣味は「皿洗い」だそうだ。


「まだ約束の時間よりだいぶ早いだろう。チームの応援はしなくていいのか?」

「行ったら競技に参加させられちゃうかもしれないでしょ?」


「そうですね。ハカリさんに誘われて、得意の口車でトモヨさんも参加させられてしまっていたかも知れませんね」


「嫌なら断ればいいんじゃないのか?」

「嫌なわけじゃないから困るの! うっかりOKしちゃったらまずいでしょ?」


 体操着を着ているのは、砂埃すなぼこりがセーラー服に着くのがイヤだからという理由ではなく、参加への未練があるからなのだろうか。


「転んだりしなければ平気なんじゃないのか?」

「それは、転んじゃったらダメって事でしょ?」


 嫁の見た目は、今までと何も変わっていない。普通に運動できそうな感じだ。

 だが、それは俺個人の感想であり、参加するかどうかの判断は本人任せだ。


「そうだな、悪かった。百川も最後の運動会に参加できなくて残念だな」

「ワタクシは、もともと運動音痴ですから、未練は一切ございません」

「そうか。それならよかった」

「せんせは、お昼まだでしょ? ハラミがおにぎり作ってきてくれたんだって」

「どうぞ、僭越せんえつながらワタクシがトモヨさんに代わって握らせていただきました」

「おお、悪いな。それじゃ、遠慮なく」


 これは、昆布おにぎりか。

 百川らしい、なかなか渋いチョイスだ。


「お茶は、私のを分けてあげるからね」


 チームカラーに合わせた黄色い水筒の中身は、冷たい緑茶だった。

 去年も校庭で、この黄色い水筒の冷たい緑茶を一杯もらった覚えがある。


 こいつの笑顔は去年と全く同じように見えるが、まさか1年後に俺が妊娠させてしまうことになるとは、当時は夢にも思わなかった。


「今年は2人だけか?」

「多分ね。あと、新妻にいづま先生もだけど」


 新妻先生が3人目をご懐妊という話は、既に聞いているので驚かないが、目の前にいる2人の教え子がそろって妊娠しているという事実は、未だに信じがたい。


 しかも、1人は俺の嫁である。


「先生方のお子様と、ワタクシの子が同い年になるというのも、なんだか不思議なご縁でございますね」


「ハラミ! その言い方だと、まるで新妻先生の子のパパが『うちの旦那』みたいじゃない!」


「あらやだ、赤ちゃんは3人ですわよ」

「誰かが双子を産んだら、もっとだけどね」


「ところでコウクチ先生、今年は運動会の応援には、いかれないのですか?」

「去年は寮の行事だと知らなくてな。部外者は見に行かないほうがいいだろう」


「そんな事いっちゃって、本当は見に行きたかったんでしょ? 去年はミユキの胸ばっかり見ていたくせに!」


「あれは、仕方ないだろう。天ノ川が体操着で外を出歩いていたら、振り向かないオトコは多分いないと思うぞ」


 天ノ川は、当時まだ3年生、つまり中学生だ。

 俺にとっては、あんなに乳のでかいJCが存在する事自体が驚きだった。


「コウクチ先生、昨年度の5年生では、どなたが好みだったのですか?」


「あっ、それ私も知りたい。多分、ゾンビかネルネルでしょ? 2人とも、私よりずっとかわいいよね?」


 こいつの言っている「ゾンビ」とは陸上部の部長を務める鹿跳しかばね存美ありみの事だ。


 鹿跳はグラビアアイドル顔負けのルックスで、性格も明るく、この学園の6年生に男子生徒がいれば、男子からの人気はおそらく一番だろう。


 手芸部の部長である針生はりうねるは「ネルネル」の愛称で呼ばれており、やや天然ボケな性格で、男女問わずに人気を集めそうなタイプだ。


 だが、ここで俺に求められている答えとしては、どちらも不正解である。

 こんな簡単な問題に引っ掛かってしまうようでは、女子校の教師にはなれない。


「何をバカな事を言っているんだ。そんなの、お前に決まっているだろう」


 恥ずかしがったら負けだ。

 ここは、嫁に向かって真顔で答えるのが正解である。


 百川が俺の答えに満足して、嫁の反応を嬉しそうにうかがっている。

 嫁は顔を赤くして、何も反論できなくなる。


 これこそが、俺が見たかった嫁の表情だ。




 その後しばらく談笑して得た情報は、俺の想像をはるかに超えたものだった。


 百川は県内の温泉街に住んでおり、自宅近辺の温泉旅館に片っ端から営業を掛けた結果、大きな旅館を丸ごと手に入れたそうだ。


 観光地の旅館は、どこも人手不足で、労働者はおろか、後継者すらいないところも少なくない。百川はそこに目を付け、後継者不在の旅館に「後継者を産む事」を条件に自分を高く売り込んだらしい。


 そして、その子供が成長するまでの間は旅館の「女将」として働き、経営者夫婦は隠居して、百川の仕事と子育てをサポートする。


 書類上では旅館のオーナーと再婚したことになっているが、オーナーの前妻は見捨てられることもなく、事実婚として共に生活するのだそうだ。


 そんな事が出来るのも、百川の能力が秀でているからに他ならない。

 俺の嫁は「私には無理ね」の一言で、資産の無い俺を笑って許してくれた。


 その話を聞いた直後の事だ。

 廊下を走る大きな足音がして、体操着姿の生徒が入ってきた。


「お姉さま! 大変です!」


 この生徒は3年生の藤屋ふじやいこ君。俺の嫁の妹分だ。


「そんなに慌てて、どうしたの?」


「コウクチ先生と女将先輩もいらしてたのですね。失礼いたしました。ダビデ先輩が転んじゃって、イエローチームが負けちゃったんです」


「イコ、まずは落ち着いて。ミチノリくんはピンクチームでしょ? なんで彼が転んだのに、うちのチームが負けるわけ?」


「すみません。キズナ先輩とワオンちゃんがゴール前で転んじゃって、それを避けたダビデ先輩が、ゴールインしてすぐに転んじゃったんです!」


 こういう事故があったときに、妊婦は大変危険だ。

 転んだ生徒達には悪いが、俺の嫁の判断は正しかったようだ。


「姉妹リレー⁉ ポロリちゃんは無事なの?」


「はい、ポロリちゃんは無事です。キズナ先輩もワオンちゃんも無事です。でも、ダビデ先輩は両手を怪我して保健室です」


 うちのロリも競技に参加していたらしい。無事でなによりだ。


 甘井君が怪我をしてしまったそうだが、所属するチームが優勝できたのならば、名誉の負傷と言える。おそらく、彼としても本望だろう。

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