第142話 多目的トイレが使用可能らしい。

「ダビデく~ん! 起きてる~?」


 運動会翌日の朝、遠くから僕を呼ぶ、聞き覚えのある声で目覚めた。

 朝6時のチャイムが鳴る前の事だ。


「甘井さん、早朝から、お客様がいらしているようですが、いかがされますか?」


 パジャマ姿の天ノ川さんが、洗面所から来客を知らせに来てくれた。

 今日も僕より先に起きて、洗濯を始めてくれていたらしい。


 ポロリちゃんは、朝食準備で不在。

 ネネコさんは、まだ熟睡中という状況だ。


「天ノ川さん、おはようございます。呼ばれているみたいなので、出てみます」


 僕は、誰の声だったのかを思い出しながら、部屋の入口へ向かう。


 両手が使えない僕が困らないように、昨日の夜から101号室のドアは開けたままの状態に固定されており、部屋の外の声も聞こえやすくなっているようだ。


「おはよう。ごめんね、いきなり呼び出しちゃって」

「おはようございます。こんなに朝早く、僕に何か御用ですか?」


 廊下から僕を呼んでいたのは、5年生の乙入おといりちか先輩だった。

 学園指定のワインレッドのジャージを着て、両手にゴムの手袋をめている。


子守こもり先生に頼まれてね。掃除が終わったから、早めに案内してあげようと思ってさ。今からちょっといいかな?」


「いいですけど、どちらまでですか?」

「多目的トイレだよ。食堂の奥の普通のトイレの隣にあったでしょ?」

「ああ、あの車椅子くるまいすのマークがいてある扉ですね?」

「そうそう。そこを使えるようにしておいたから」


 なるほど、一時的とはいえ、僕は身障者扱いという事か。

 今の僕には介助者が必要で、健常者とはいえない状態だ。


 昨晩ネネコさんと一緒に入ったトイレは、101号室のトイレと個室の広さは同じで、2人で同じ個室に入るのは、かなり無理があった。


 広いトイレなら、きっと昨晩よりは快適に用が足せるだろう。


「チカ先輩、私も一緒に行ってもよろしいですか?」

「ミユキちゃんも一緒だと助かるよ。ダビデ君1人じゃ、まだ無理だろうから」

「では、すぐに支度しますね」


 後ろで話を聞いていた天ノ川さんも、僕に同行してくれるようだ。

 天ノ川さんは一度洗面所に戻り、すぐに戻って来た。


「甘井さん、ちょっと失礼します。目は閉じていて下さい」


 温かく、湿ったタオルをいきなり顔に当てられたので驚いたが、どうやら僕の顔をく為に、わざわざタオルをお湯で湿らせて持って来てくれたらしい。


「……はい、支度が終わりました」

「ありがとうございます。顔が、さっぱりしました」


 寝る前には歯を磨いてくれて、朝起きたら顔も拭いてくれる。

 天ノ川さんは、まるで小さい子供を育てている優しいお母さんのようだ。


「ミユキちゃんとダビデ君は、そんなに仲がいいんだ。ちょっとうらやましいよ」 

「ふふふ……甘井さんは、私のかわいい妹のカレシさんですから」

「あー、そうか。そうだったね」


 天ノ川さんの説明に、乙入先輩も納得する。

 僕は余計な口を挟まずに、黙って2人の会話を聞いている。


「チカ先輩にも、素敵なカレシさんがいらっしゃると、うわさに聞いていますよ」

「そうだけどさ、遠距離恋愛だからね。今のままだと、多分自然消滅だよ」


 寮のお嬢様方は「甘いお菓子」と「この手の話」が大好物だ。


 僕自身は人によって見解の異なる「カレシの定義」に疑問を抱いており、ネネコさんとの関係も特に変わっていない。なので、肯定も否定も出来ない状態だ。


 2人の会話を聞きながら、部屋の前の廊下を奥に向かって歩き、突き当りを左に曲がる。


 保健室と育児室の間にある東階段の、向かい側にある通路が食堂からの出口で、昨晩使った普通のトイレの入口の横に、車椅子のマークの入った大きな扉がある。


 乙入先輩がセンサーに手をかざすと、その扉が自動的に開いた。


「今日から、ダビデ君専用のトイレだから、使ってみてね」

「ありがとうございます。とても助かります」

「部屋のトイレと違って、3人で入っても狭くありませんね」


 3人でトイレに入ると、扉は自動的に閉まり「施錠中」のランプが点灯する。


「このトイレだったら、お尻を洗う機能もついているから、ミユキちゃんが拭いてあげる必要も無いでしょ?」


「でも、洗ったられてしまいますから、甘井さんのお尻を拭いて差し上げる必要はあると思いますけど……」


 自分でパンツを下ろす事が出来ない僕は、当然、お尻を拭くことも出来ない。

 転んだときは、ここまでひどい状態になるとは想像すら出来なかったのだが……。


「温風が出て、乾燥までしてくれるから、問題ないと思うよ」


「それは良かったです。お尻を拭いてもらうのは僕でも恥ずかしいですし、天ノ川さんにそんな事をさせてしまう訳にはいきませんから」


「それじゃ、あとはミユキちゃんに任せるから、困ったことがあったら言ってね」

「はい。任されました」


 乙入先輩はセンサーに手をかざして自動扉を開け、トイレから出て行った。


 僕は、いつも今と同じくらいの時刻にトイレに行く習慣がついているので、実は既に便意を催している。


 とても恥ずかしい事ではあるが、2人きりであるこのタイミングでなら、僕でも天ノ川さんにお願い出来そうだ。――というか、お願いしないと漏らしてしまう。


「すみません、早速使わせてもらってもいいですか?」

「もちろん、いいですよ。そのために一緒に来たのですから」

「パンツをひざまで下ろしてもらえると助かります」

「――はい。これでよろしいですか?」

「ありがとうございます」


 お礼を言って、広いトイレの便座に腰を下ろす。


 天ノ川さんはネネコさんと違って、からかったり、じっと見たりはせず、あくまでも事務的な感じで、なんだか看護師さんみたいだ。


 トイレの壁には、いくつか大きなボタンが付いており、その中に「音」というボタンがあったので、左手で押してみると、ジョボジョボと水の流れる音が続く。


 これなら天ノ川さんに排泄音はいせつおんを聞かれずに済む。僕自身が恥ずかしいというのももちろんあるが、ネネコさんにならともかく、天ノ川さんにそんな音を聞かせてしまっては失礼だろう。


 無事に用を足し終えたので、次に「おしり」とかかれたボタンを押してみる。

 ギュイーンという機械音の後、お尻を洗ってもらえるはずだったのだが――


「うわっ! うおおっ、おおおおっ!」

「甘井さん! いかがされましたか?」


 かなりの水圧の温水が僕のゴールデンボールを直撃し、おいなりさんをみほぐすように洗っている。これはいったいどういう事だろう。


「ちょっと、ねらいが合ってないような気がしますけど……」

「そうでしたか。これならいかがですか?」


 天ノ川さんは「止」ボタンで1度温水を止め、再度「おしり」ボタンを押す。

 しばらく待つと、今度は正しい位置にお湯が当たっているようだ。


「はい。これなら、いい感じですね」


「おそらく、隣のボタンに手が触れてしまったのだと思います。隣のボタンは女性器を洗うためのボタンで、男性は普段使わないはずですから」


 なるほど。僕は指が使えないので左のゲンコツでボタンを押したのだが、その際に隣のボタンを押してしまったというわけか。


 隣のボタンの上には「ビデ」と書かれていた。

 ダビデさんと名前が似ているが、何か関係があるのだろうか。

 世の中には、まだまだ僕の知らない事がたくさんあるようだ。


 お尻を洗い終えたので、「乾燥」と書かれたボタンを押す。


 これでお尻を乾かしてもらえるはずだったのだが、こちらは反応なし。

 どうやら壊れているようだ。


「あの……乾燥のボタンが使えないようなんですけど……」


 天ノ川さんが何度かボタンを押してみたが、やはり反応はなかった。


「これは……故障してしまっているみたいですね」

「すみません、少しこのまま乾かしていてもいいですか?」


「甘井さんのお気持ちはよく分かりますが、そろそろネネコさんが起きる頃ですから、私たちも早く戻らないと『あらぬ疑い』を持たれてしまうかもしれません」


 たしかに、2人で一緒にトイレに入るという行為は、かなりいかがわしいような気もするが、両手が使えない僕に、いったい何が出来るというのだろうか。


「このままパンツを穿かせてもらったほうがいい――という事ですか?」

「そうではありません。私も『陰部洗浄』の仕方は授業で教わっていますから」


 天ノ川さんは、先ほど僕の顔を拭いてくれたタオルを、僕の股間に近づける――


「天ノ川さん、それはまずいですって!」

「……甘井さん、あまり大声を出すと、外の人に聞かれてしまいますよ」

「それは、そうなんですけど……」

「これは、私にとって介護の実習なのですから、遠慮はいりません」

「あっ……」


 ――そして、僕のおいなりさんを下から軽く握るように優しく拭いてくれた。


 僕の両手は不自由なのに、下半身はとても元気で、血液はすぐに集まった。


「ふふふ……お気になさらずに。このほうが、お尻まで拭きやすいですから」


 こんな状態になってしまったにもかかわらず、天ノ川さんはトイレットペーパーを手に取り、お尻の穴と、その辺りまで優しく丁寧に拭いてくれる。


 これは非常にありがたい事であるはずなのに、僕は天ノ川さんに「させてはいけない事をさせてしまった」気がして、とても申し訳ない気分だった。

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