第140話 かわいい妹は無事だったらしい。

 ゴール前の最後の直線で、前を走る犬飼いぬかい鯉沼こいぬま姉妹を射程に収めた。

 向こうはバテ気味で、徐々に遅くなっているようだが、僕のほうは逆である。


 僕が今背負っているものは荷物ではなく、力の源だ。

 かわいい妹と、ピンクチーム全員の願い。ここで僕が負けるわけにはいかない。


「ポロリちゃん、手を離すから、しっかりつかまっててね」

「うんっ!」


 合図して、両手をポロリちゃんのひざの下から外す。


 ポロリちゃんは僕の両肩にしっかりと両わきを乗せ、体の重心を前にずらす。両脚も使って落ちないように、僕の背中にぴったりと体を合わせてくれている。


 僕は、ポロリちゃんが落ちない事を信じて、両手を振って、懸命に走る。


 ――よし、これで勝てる!


 小さくてかわいい妹の、ささやかな胸のふくらみを背中に感じながら、前を行くイエローチームの犬飼・鯉沼姉妹に並びかけた、その時だった――


「お兄ちゃん! 危ないっ‼」


 耳元で妹が叫んだ。

 バランスを崩した犬飼・鯉沼姉妹がこちら側に転倒したのだ。


 鯉沼さんを踏みつけそうになった僕は、前傾姿勢でジャンプした。

 そのまま、前回り受け身――僕は反射的に、柔道で教わった体勢を取る。


 そして、両手を前に出してから気付く――そんなことをしたら、ポロリちゃんが大怪我けがをしてしまう――ならばどうしたらいい?


 ほんの数秒の時間が、僕にはとても長く感じられた。


 結局、そのまま全体重を両手のひらで受けるような形で着地し、しかも、右ひじに自分の右膝をぶつけてしまった。ヘッドスライディングとしては、あまりにも下手へたくそで、手のひらが痛いはずなのに、痛すぎて痛みを感じない。


 僕の体は、ぎりぎりゴールラインを超えていたようで、校庭には歓声が沸いている。なんとかイエローチームには勝てたらしい。


「ポロリちゃん、怪我は無い?」

「うんっ、ポロリは大丈夫だいじだよ。でも、お兄ちゃんが……」


 僕の背中から下りた小さくてかわいい妹が、泣きそうな顔で僕の顔をのぞき込む。僕を信じて最後までしっかりとつかまってくれていたので、無事だったようだ。僕はピンクチームが優勝できた事よりも、かわいい妹が無傷である事に安堵あんどした。


「ダビデ先輩、ごめんなさい。最後でバランスをくずしてしまいました」


「それは、ワオンだけのせいじゃなくて、私も悪いの。ありがとう、ワオンを上手うまく避けてくれて……それより、早く保健室へ行かないと」


 鯉沼さんが頭を下げ、犬飼先輩からは感謝され、そして心配された。

 2人とも、ただ転んだだけで、怪我は無いようだ。


「いえ、これくらいなら……あだだ……平気ではないみたいですね」


 両手の指を動かして見せようとしたのだが、痛くて動かせなかった。

 両手のひらの皮もけていて、これは、かなりヤバそうだ。


 間もなく、ブルーチームの最終走者アンカー2人がゴールインして、競技は終了した。


「お待たせー! みんな転んじゃって、ちょっと頑張り過ぎじゃないの?」

「うわ! お姉ちゃん、ダビデ先輩が大変なことに!」


 乙入おといり先輩はかなり呑気のんきな感じだったが、尾中おなかさんは僕の手を見て驚いていた。


「歩ける?」

「脚の方は問題なさそうです」


 両手の痛みをこらえ、後輩達に笑顔を見せて落ち着かせてから、犬飼先輩に付き添ってもらい、寮の保健室へ向かう。


 保健室では、子守こもり先生が手のひらの傷の手当をしてくれた。


 子守先生による応急処置が済むと、念のために新妻にいづま先生の車で、祝日でもてもらえる救急指定の整形外科まで送ってもらう事になった。


 閉会式を終え、制服に着替えた天ノ川さんが病院まで同行してくれる事になり、後部座席の僕の隣に乗ってシートベルトを着けてくれた。


 僕自身は、もちろん体操着のまま。普通に歩くことは出来るが、両手が使えないので、シートベルトを着けるどころか車のドアも開けられない状態だ。


「すみません、ご迷惑をお掛けしてしまって」 

「ふふふ……甘井さんは今日のMVPですから、迷惑ではなく名誉な事ですよ」

「MVPですか?」

「閉会式で、満場一致でピンクチームの総大将がMVPに選出されました」

「最後は『棚ぼた』でしたけどね」

「そうでしょうか? ワオンさんが転ばなくても、きっと勝てていたはずですよ」

「それは、どうでしょう」


 僕がMVPだなんて、普通の環境なら絶対に無理な事は、分かり切っている。

 この怪我は、恵まれた環境の中で調子に乗っていた僕への、神様からの戒めだ。




 救急病院までは車で1時間近くかかったが、急患扱いなので、すぐに先生に診てもらえた。


「これは、かなりひどいね」

「転んだときは、そうでもなかったんですけど。今はとても痛いです」


 両手も痛いのだが、今、一番痛いのは、右の膝だった。


「膝がれているのは内出血だから、血を抜いてしまえば、だいぶ楽になるよ。ちょっと痛いけど我慢してね」


 膝に注射器の針を刺され、中の血を抜いてもらう。

 ものすごく痛いが、元から凄く痛いので、痛みがちょっと増えただけである。


「手は動かせる?」

「痛くて無理です。動かせるのは、右手の親指だけです」

「他に痛むところは?」

「手のひらと右の肘のあたりです」

「擦り剝いた傷は痛くてもしょうがないね。では、レントゲンを撮りましょう」

「よろしくお願いします」


 レントゲン撮影の結果は――


「両手の骨に何か所か、ヒビが入っているね。ここと、ここと、ここと、ここと。あと右腕の肘のここも。膝のほうは骨には異常がないようだね」


 どうやら、両手の指の骨と右腕の骨にヒビが入っているようだ。


「これって、全部骨折って事ですか?」

「そうだね。でも、若いからしばらく固定しておけば、すぐに治るよ」

「しばらくって、どのくらいですか?」


「全治1か月から2か月ってところかな、今から骨折箇所を固定してあげるから、ちょっと我慢してね」


 ――というわけで、右腕は首からるされた状態。これは、よくある骨折患者のスタイルだ。それに加えて両手をぐるぐる巻きにテーピングされている。


 無事なのは、右手の親指1本だけというひどい状況だ。


 右膝にも包帯が巻かれているが、こちらは、内出血していた箇所の血を抜いてもらったお陰で腫れも痛みも引き、だいぶ楽である。


 診察が終わると、新妻先生と天ノ川さんも診察室に呼ばれ、今後についての簡単な打ち合わせが行われた。


「どうしますか? 何日か入院します? ご家族の方が常に一緒じゃないと、普通に生活するのは難しいと思いますけど」


「いえ、うちの学園の生徒は全員が介護を学ぶ事になっていて、既に半数の生徒が介護演習の授業も受けていますから、このまま寮に戻っても特に問題ありません」


 外科の先生からの入院の提案は、新妻先生が即座に断った。


「普通に生活するのは難しい」という言葉の意味が、僕にはまだよく分かっていなかったので、反対する気も全く起こらなかった。


「そうですか。それなら安心だね。今晩は入浴をひかえて、出来るだけ安静にして下さい。明日以降は、痛みさえ無ければ、お風呂に入っても問題ないでしょう」


「はい。ありがとうございます」


 まだ手も脚もかなり痛いが、先生の様子から判断すると、それほど深刻な怪我ではなさそうだ。


「付き添いの方、お風呂に入れてあげるときは、患部をらさないように注意してあげてください」


「はい。分かりました」


 明日以降は、天ノ川さんが僕をお風呂に入れてくれるらしい。

 自分だけで入れそうな気もするが、体を洗うのは無理だろう。


 ここで僕はようやく「普通に生活するのが難しい」の意味が分かり「深刻な怪我ではなさそうだ」という考えを改めた。


 しばらく両手が使えないというのは、かなりヤバそうである。

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