第134話 避難訓練でなければ焼死らしい。

 今晩は、久しぶりにルームメイトの3人が大浴場へ行くことになり、僕は1人で部屋風呂に入って体を洗っている。


 アマアマ部屋には「仲間外れ禁止」というルールがあるのだが、これは決して僕が仲間外れにされているという訳ではない。


 オトコには「1人の時間」というものも必要なのだ。


 今の僕にとって、完全にプライベートな時間というのは、風呂とトイレくらいしかない。なぜなら、寮が4人部屋で、しかもワンルームだからである。


 入寮したばかりの頃は、毎日がラッキースケベの連続で、いずれ股間が爆発して死んでしまうのではないかと心配していたのだが、こっそりと賢者モードを保つ方法も覚え、今ではだいぶ楽になった。


 ルームメイト達も既に気付いているはずなのに、そのあたりは「オトコの生理」という事で、3人とも大目に見てくれているようだ。


 体を洗い終え、ゆっくりと浴槽に体を沈める。


 大浴場と比べたら小さな風呂とはいえ、僕の実家の風呂の3倍くらいの広さだ。体を伸ばして入れるだけでも贅沢ぜいたくな気分になれるし、しかも今日は誰も待たせていないので落ち着いて入っていられる――そう思っていたのだが――


只今ただいまより避難訓練を開始します。食堂で火災が発生しました。寮生は全員、速やかに校庭へ避難して下さい――」


 寮の廊下に大音量の緊急放送が入る。


 声の主は、おそらく広報部のヨシノさんだろう。

 どうやら、ゆっくりと風呂に入っていられる状況ではないようだ。


「繰り返します、只今より避難訓練を開始します。食堂で火災が発生しました。寮生は全員、速やかに校庭へ避難して下さい――」


 僕は急いで風呂から上がり、バスタオルで大雑把に体をく。

 パンツを穿き、部屋着代わりの体操着を着て、避難の準備は完了だ。


 室長である僕が、まず考えるべき事は、同室の1年生2人の安否である。

 天ノ川さんが一緒なので問題はないと思うが、一刻も早く合流すべきだろう。


 101号室から廊下に出ると、玄関と食堂を繋ぐロビーが防火シャッターで閉鎖されており、通行止めになっていた。


 食堂で火災という想定なので、ロビーを通過する通常時の経路は使用できないという事らしい。


 玄関にも食堂にも最も近い101号室であるが、こうなってしまうと非常口からは最も遠い部屋という事になる。実は意外と危険な部屋なのかもしれない。


 まあ、本当に危険が迫っていたら、窓から外に出ればいいだけの話なのだが。


「甘井さーん! 非常口はこっちだよ」


 背後から、声を掛けられて振り返ると、お隣102号室のドアの前でジャージ姿の宇佐院うさいんさんが、廊下の奥側――東の方角を指差していた。


 そのまま廊下を進む宇佐院さんの後に、同室の有馬城ありまじょうさんとリーネさんが続く。

 2人とも、かわいらしいパジャマ姿だ。


 普段はお下げ髪の有馬城さんが、今は髪をほどいている。

 リーネさんも風呂上りのようで、長い髪は少しれているようだ。


「ポロリちゃん達は、まだ部屋の中なのですか?」

「僕以外の3人は、今、大浴場にいるはずですけど……」


 有馬城さんからの質問に、歩きながら答える。


 押さない、駆けない、しゃべらない――というのが避難時の教えだが、安否の確認や情報の交換は、しゃべらないと無理だと思う。


「ミチノリさん、ちゃんと髪を乾かさないと風邪かぜをひくわよ」

「リーネさん、それはブーメランです。緊急時なので仕方ないですけどね」


 これは、ただのおしゃべりなので、あまり望ましいことではない。


 寮の廊下は、105号室の前で突き当り、そこで左、つまり北に曲がっている。105号室までが南向きの部屋で、106号室からは東向きである。


 生徒の部屋は109号室までで、110号室が保健室。そして、東側階段を挟んで、111号室が育児室で、112号室が新妻にいづま先生の部屋だ。


 非常口は地下を通るらしく、前を歩く宇佐院さんは東側階段を下りている。

 その後に有馬城さんが続き、リーネさんと僕が、さらにその後に続く。


 階段を降りると、そこから真っすぐに廊下が続いており、大浴場の案内板と非常口の誘導灯が、同じ方向を示していた。


 廊下は途中から幅が広くなっており、左側には紙パック飲料の自販機と大きな乾燥機が設置されている。ネネコさんが大浴場のおみやげとして買ってきてくれた、レモン牛乳の他に、コーヒー牛乳や、いちご牛乳も販売されているようだ。


 そして、右側には大きく「ゆ」と書かれた暖簾のれんが下がっており、ここが大浴場の入口らしい。しかも「非常口」の誘導灯があったのは、その「ゆ」の真上だ。


 つまり、非常口は大浴場の中にあるという事か。


 宇佐院さんと有馬城さんの姉妹は、暖簾をくぐって中に入ってしまった。

 この場合、僕はどうしたらいいのだろうか。


「ミチノリさん、非常口はこの中よ」

「それは分かりますけど、脱衣所に僕が入っていいんですか?」

「リーネはいいと思うけど。ポロリちゃんや、ネコさんも中にいるんでしょ?」

「いや、だから尚更なおさらなんですけど」


 利用者が何人いるのかは不明だが、101号室の3人以外でも、まだ服を着ていない人がいるかもしれない。


 大浴場の暖簾の前で入るのを躊躇ちゅうちょしていると、中からパジャマ姿のポロリちゃんが出て来た。ポロリちゃんも、リーネさん同様、髪の毛が乾いていないようだ。


「お兄ちゃん、ちょっと耳を貸して」

「いいけど、何かあったの?」


 ポロリちゃんは、ナイショの話があるらしい。

 僕は少しかがんで、ポロリちゃんの話を聞く。


「……ネコちゃんがね、パンツを忘れて来ちゃって……お風呂から上がれないの。それでね……ネコちゃんから、お兄ちゃんに伝えるように、お願いされたの」


 つまり、僕に「パンツを取って来て欲しい」という事か。


 ネネコさんとしては、お姉さまやクラスメイトをパシリに使う訳にもいかず、僕が一番頼みやすかったという事だろう。


 そのくらいならお安い御用だ。

 ネネコさんのパンツは、いつも僕が干しているのだから。


「了解。僕は急いで部屋に戻るから、ポロリちゃんは、リーネさんと一緒に、先に避難しててね。――リーネさん、僕はちょっと忘れ物を取ってきます」


 こうして、僕は避難経路を1人逆走し、101号室へ戻ることになった。




「えーと、この引き出しだったかな?」


 誰もいない101号室で、ネネコさんのパンツを物色する。


 ポロリちゃんの着替えが、僕のベッドの下の引き出しに入っているのだから、ネネコさんのパンツは、天ノ川さんのベッドの下の引き出しに入っているはずだ。


「――!」


 最初に開けた引き出しは、天ノ川さんの引き出しだったようだ。


 おそろいの帽子が2つずつ綺麗きれいに並べられており、白、ピンク、スカイブルー、ライトグリーンなど、ぎっしりと詰まっている。スポーツ用と思われるグレーのものは、ヘルメットのようにも見えた。


 そっと引き出しを閉め、深呼吸をしてから隣の引き出しを開ける。


 そこには靴下やTシャツと一緒に、見覚えのあるネコのキャラクターの絵が入った白い布が、何枚も入っていた。


 一応、広げてパンツであることを確認してから、体操着の短パンのお尻のポケットに入れる。なんだかイケナイ事をしている気分だが、「大義名分」はあるのだ。


 部屋を出て、大浴場へと向かう。

 もう全員避難してしまったようで、寮の廊下はとても静かだった。


「ネネコさん、お待たせ」

「やっと来たか~、おそいよ~」


 大浴場の脱衣所では、バスタオルを体に巻いたネネコさんが、僕を待っていた。

 幸いなことに、ネネコさんと天ノ川さんの他には誰もいないようだ。


 僕がパンツを渡すと、ネネコさんはその場で片足を上げて、立ったままパンツを穿き始める。非常に素早いので、ほんの一瞬だけではあったが、何か見えてはいけないものが見えてしまったような気がした。


「ミチノリ先輩のおかげで助かったよ。どうもありがとね」

「いえいえ、どういたしまして」


「ふふふ……私も髪を乾かすのに少し時間が掛かってしまいました。急いで避難しましょう」


 パジャマ姿の天ノ川さんの後に、ネネコさんと僕が続く。

 天ノ川さんは脱衣所から大浴場の露天風呂に出て、さらに奥へ進む。


「非常口は、この坂の上です」


 露天風呂の左側から、裏側に回り込むように、細い道が続いている。

 右にカーブした緩やかな上り坂だ。


 道は露天風呂全体を上から見下ろせる場所で終わっており、そこから梯子はしごのような急な階段を上る。


 階段の上は、寮の1階と塀の間にある通路で、105号室の前あたり。どの部屋も電気がつけっぱなしなので、僕の身長だと、窓から部屋の中が丸見えだ。


 105号室には、たくさんのぬいぐるみと、アップライトピアノが置いてある。

 104号室は、カーテンを閉めているが、薄いので部屋の中は透けて見える。

 103号室は、勉強机の上に、教科書とノートが広げたままである。

 102号室は、壁にコルクボードがあり、いろいろとり紙がしてあるようだ。

 101号室は、他の部屋より物が少なく、綺麗に片付いているように見える。


「こんなところに出るんですね」

「外に避難するときには、靴が必要ですから」


 通路の出口は、寮の玄関の真横だった。


 これって、ここから入れば露天風呂を上からのぞける絶景スポットに行けるという事ではないだろうか。僕は寮の玄関で靴を履きながら、そんなことを考えていた。


 校庭に出ると、僕達以外の生徒は既に整列しており、101号室が最後になってしまったのだが、室長がまだ1年目という事で、特におとがめはなかった。


「ネコちゃんごめんね、ポロリだけリーネちゃん達と一緒に先に逃げちゃって」

「ロリだけでも無事でよかったよ。ボクたち、本当は焼け死んでたんじゃね?」

「僕はパンツを取りに戻って焼死か。それは、ちょっと恥ずかしい死に方だね」

「ふふふ、本当に火事だったら、脱いだパンツをまた穿かないといけませんね」


 寮の避難訓練は、毎年9月11日の夜と3月11日の昼に行われるらしい。


 今日避難訓練がある事を知らなかったのは、1年生達と、入寮1年目の僕だけだったようだ。

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