第106話 知らないと教えられないらしい。

「はーい!」


 312号室のドアをノックすると、部屋の中から、廊下まで響くような大きな声が聞こえた。間もなくドアが開いて、長内おさない先生が出迎えてくれる。


「甘井さん、いらっしゃい。中へどうぞ」

「お邪魔します」


 僕は部屋の入り口でスリッパを脱いで、先生の後へ続く。

 部屋の作りはどの部屋も同じなので、101号室と全く同じだ。


「どうぞ、こちらへ座って」

「失礼します」


 リビングの小さなテーブルに向って、座布団代わりのクッションに腰を下ろす。

 テーブルもクッションも101号室にあるものと、ほぼ同じである。


 長内先生は氷入りの飲み物を2杯用意してから、僕の正面に座る。


 2人とも体操着なので奇妙な光景だ。しかも、先生の胸には大きく「おさない」と書かれた名札が付いている。僕の体操着は部屋着代わりに売店で追加購入した古着で、購入時に付いていた元所有者の名札は外してある。


「冷たい麦茶ですよ」

「ありがとうございます。いただきます」


 僕は礼を言ってから、麦茶を一口いただく。先生は僕の顔をチラチラと見ながら、麦茶をチビチビと飲んでいる。無言なので少し気まずい雰囲気だ。


「えーと、どうかなさいましたか?」


 この緊張感に耐え切れずに、僕から質問する。


「ごめんね。男子を自分の部屋に入れるのは初めてだから、緊張しちゃって……」


 僕自身は子守こもり先生の部屋にも新妻にいづま先生の部屋にも入ったことがあり、今回も職員室に呼び出されているのとあまり変わらない気分なのだが、長内先生からしてみれば、自室に若いオトコを連れ込んだような気分なのだろうか。


「いえ、男子生徒は僕だけですし、緊張しているのは、僕も同じですから」


「ホントに私と一緒だと緊張する?」

「はい。もちろんです」


 先生に呼び出されて緊張しない生徒なんて、存在するのだろうか。


「よかったー。私だけじゃなかったんだー」


 なんだかよく分からないが、先生はご機嫌なようだ。


「先生と2人きりですから、それは緊張しますよ」


 しかも、呼び出されるような心当たりが全くないのだから。


「甘井さんは、ネコちゃんと付き合っていないって言ってたけど、ホントなの?」

「はい。同じ部屋なので、食事はいつも一緒ですけど」


「ポロリちゃんとは?」

「妹と付き合ってしまったら、兄失格だと思います」


「天ノ川さんとは?」


総理大臣の嫁ファーストレディを目指しているような雲の上の人が、僕なんかと釣り合うわけがないじゃないですか」


 天ノ川さんはもちろんのこと、ネネコさんもポロリちゃんも、僕なんかではとうてい釣り合わないレベルの女の子で、たまたま僕と部屋が同じであったから家族のように接してくれているだけだ。


同棲どうせいしているのに、誰ともお付き合いはしていないのね?」

「同棲という表現は誤解を生みそうですが、まあ、その通りです」


「ほかの部屋の子と付き合っていたりもしないの?」

「残念ながら今のところ、その予定もありません」


「甘井さんには、好きな子とか、いないの?」

「両手に余るほどいます。僕は、この寮の人たちは、みんな好きですから」


「それって、もしかして、私も入っているの?」


 この人、本当にオトナなのだろうか。中学1年生のお嬢様方と馴染なじんでしまった結果、中身まで中学1年生に戻ってしまっているみたいだ。


「当然です。明るくて、優しくて、生徒想いで、ダンスの授業はかなりハードですし、柔道の授業でも投げられたり抑え込まれたりしましたけど、僕は好きですよ」


 見た目に関しては、この学園のお嬢様方と比べてしまうと多少見劣りするかもしれないが、小柄で童顔なので、若く見えるし、可愛らしい女性ではあると思う。


「ありがとう。じゃあ、私も勇気を出してみるから、ちゃんと返事してね」


 先生は少し赤い顔で、僕の目を見上げる。


「甘井さん……もしあなたがイヤでなければ……私と……お付き合いして下さい」


 衝撃の告白を耳にしたにもかかわらず、僕自身は意外と冷静だった。

 中庭での中吉なかよしさんとの会話を聞いてしまっていたからかもしれない。


「あの……嬉しいお誘いではありますが、それって犯罪行為なのでは?」


 これが、もし男女逆だったら、先生の教師としての人生は終わっていただろう。もちろん、こんなふうに告白されたのは生まれて初めてだし、本来ならば嬉しくて眠れなくなってしまうほどの出来事であるはずなのだが、複雑な気分だ。


「どうして? 先生がオバサンだから? 私まだ22歳なのよ!」


 たしかに「22歳と15歳ではダメ」というのは僕としても納得はいかない。

 だが「先生と生徒」というのは、いくらなんでもまずいだろう。


「先生の場合は、むしろ逆です。とても22歳には思えません」

「じゃあ、どうして?」


「先生の告白が一時的な気の迷いではなく、将来のことを真剣に考えて、結婚を前提としたお付き合いをしてくださるというのでしたら、僕も考えますけど」


 長内先生が僕を一生養ってくれるというのならば、これは千載一遇のチャンスかもしれない。婚活は若ければ若いほど有利。それは男性も同じだそうだ。


「結婚? 甘井さん、私の事を、そこまで考えてくれるの?」

「いえ、自分自身のためです。養ってもらうのは、僕の方ですから」


「えーっ? 結婚したら寿退職できるかと思ったのに!」

「僕は、将来に備えて誰かに養ってもらうために、この学園に入学したのですよ」


「うー、たしかにそうね」

「長内先生は、先生を定年まで続ける気はないのですか?」


「今は楽しいけど、ずっと続けられる仕事じゃない気がするの。20代のうちに素敵な男性を見つけて寿退職できれば理想的かな」


「長内先生でしたら、今から婚活すれば、すぐにいい人が見つかると思いますよ。何年も先の事は分かりませんけど」


「私、もしかして振られちゃったの?」

「交渉が決裂したという意味では、僕も同じです」


 僕の場合は「プロポーズ失敗」ではあるが、僕のせいで長内先生がクビになってしまうよりは、ずっとましだ。


「お互い結婚は無理みたいだけど、アレならどう? 何て言ったっけ? エッチな事だけするお相手」


「もしかして、セフレの事ですか?」

「そうそう、セフレ。それならどう?」


 この人、本気で言っているのだろうか。

 発覚したら人生終了ではないだろうか。


「僕としては非常に嬉しいお誘いですけど、そんなことが学園に知られたら、先生はクビになってしまいますよ」


「でも、甘井さんなら黙っていてくれるでしょ?」


「僕が黙っていても、先生の方が、例えば中吉さんとかにしゃべってしまったら、人生終了ですし、そもそも、全員が同じ屋根の下に住んでいる以上、そんなことをしたらすぐにバレそうな気がしますけど……」


「そうよねー。それなら、私はどうしたらいいの?」

「いったいどうしちゃったんですか? もしかして欲求不満なんですか?」


 女性にも性欲はあるのだろうが、みんなどうやって処理しているのだろうか。

 僕は「賢者モード」を維持するためだけに、毎晩ムダに発散しているのだが。


「それもあるかもしれないけど、一番困っているのは、性交演習の授業なの」

「5年生の授業だそうですね。うわさには聞いています」


「そうなのよ。2学期の始めにあってね、私が教えなきゃいけないの」


 性交演習の授業は、家庭科ではなくて、保健体育の授業らしい。


「それで、何か問題があるのですか?」


「どうしたら配偶者パートナーから無理なく子種をもらえるのかを、5年生の生徒達に分かりやすく教えてあげないといけないのに、私、まだ一度も経験がないの」


「今までの授業では、どうしていたのですか?」


「去年までは出産経験のあるベテランの先生が、かなり詳しく教えてあげていたらしくて……。引継ぎも無く、いきなり『セックスのやり方を生徒に教えろ』って言われても、そんなの今の私には無理よ」


 そういえば、天ノ川さんが、去年までの保健体育の先生は定年退職されたと言っていた気がする。たしかに新任の先生には、荷が重そうだ。


「先生のための研修とかは、ないのですか?」


「こんな授業があるのはうちの学園くらいだし、6年生の子たちから、どんな感じだったのかは教わったんだけど、もう少し男性側の知識が欲しくて……」


「動画を見て研究する……とかはどうですか?」

「うちの学園では、個人情報の漏洩ろうえいを防ぐ為に、自由にネットが使えないのよー」


「そうでしたね。他に使えるものはないんですか?」

「演習で使う着ぐるみくらい。ディープなんとかっていうお馬さんの」


「ディープインサート号ですね」

「甘井さんは知っているの?」


「僕、お借りして着た事がありますから」

「ホントに? サイズは合うの?」


「少し大きめでしたけど、普通に着れましたよ」

「そうかー、それならいけるかも」


「何がいけるんですか?」

「性交演習の予行演習よ。甘井さんに予行演習をしてもらえばいいのよ」


「演習の予行演習?」


「私が、甘井さんと一緒に予行演習をするの。それなら結婚を前提にお付き合いしなくてもいいし、セフレになってもらう必要もないでしょ?」


「あの……、僕も童貞なんですけど……」


「それでいいのよ。処女と童貞が、どうしたら上手く結合できるかを一緒に考えてくれるだけも参考になるでしょ?」


「結合って……生々しくないですか?」


「じゃあ、交尾? それとも種付け?」

「それは、もっと生々しくないですか?」


「だから、お馬さんの着ぐるみを着てやるんでしょ?」

「まあ、たしかにそうですね」


「じゃあ、早速演習室から借りてくるから、甘井さんはここで待っていてね」


「ちょっと待ってください。僕が先生の部屋に1人でいるところを誰かに見つかったらどうするんですか? それに、僕がここに長居したらみんなに怪しまれます」


「甘井さんは気にしすぎよ。誰もなんとも思わないから」


 長内先生が部屋を出ようとしたそのとき、


 ――ドンドンドンドン。


 312号室のドアを外から連打する音がした。

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