第105話 生徒と見分けがつかないらしい。

 夏休み期間中は、校舎と体育館の間にある中庭で「モーニングストレッチ」と呼ばれる行事がある。内容は、生徒が朝6時に集まって、一緒に体操をするだけだ。


 ゴールデンウィークと同様に寮の朝食の時間が6時から8時ではなく、7時から8時に短縮されており、朝食前の軽い運動という事になる。


 嫁入り前のお嬢様方にとって、太り過ぎは許されることではない。

 余分な体脂肪を燃焼させるには、朝食前の運動が効果的なのだそうだ。


 中庭に集まった生徒は20名ほど。僕を含めて全員体操着だ。半数以上の生徒は既に帰省してしまっており、参加者は寮に残っている生徒の半数くらいだろうか。


 自由参加なので、朝が苦手なネネコさんは部屋で寝ているし、ポロリちゃんは朝食の準備のほうに参加している。僕も管理部員としての仕事がある場合は、そちらを優先するつもりだ。


「意外と人が少ないですね」 

「強制参加ではありませんから、毎年こんな感じです」


 まだ始まるまでに少し時間があるようなので、天ノ川さんと一緒に開始の時刻を待つ。僕たちの近くでは、小柄なお嬢様2人が会話をしていた。


「リボンちゃんは、まだ実家に帰らなくてもいいの?」

「帰っても地元にカレシとかいないからね。ココロちゃんは、どうなの?」


 リボンちゃんと呼ばれた子は1年生の中吉なかよし梨凡りぼんさんだが、ココロさんという名前のお嬢様は、1年生にはいなかったはずだ。こちらに背を向けていて顔は見えないが、おそらく2年生だろう。


「私もいないの。リボンちゃんに、もしお兄さんとかいたら紹介してくれない?」

「お姉ちゃんなら、あそこにいるけど。私は1人っ子だよ」


 中吉さんのお姉さまである花戸はなどさんは、少し離れたところで同室の馬場ばばさんとおしゃべりしている。そして、中吉さんに兄弟はいないらしい。


「そうよねえ。男性の知り合いとかは?」

「コウクチ先生じゃダメなの?」

「コウクチ先生は、先月結婚しちゃったでしょ?」

「ウソ? マジで? どんな人と?」

「6年生の心野こころのさんと」


 このあたりの話は、ポロリちゃんから聞いているので驚きはないが、やはりこういった話はすぐに広まってしまうようだ。


「ジャイアン先輩って、まだ卒業してないのに担任の先生と結婚しちゃったの?」

「そうなのよ。うらやましすぎるでしょ?」

「ココロちゃん、コウクチ先生のことねらってたんだ。それは、残念だったね」

「狙っていたわけじゃないけど、若いオトコの人はほかにいないから」

「若ければ誰でもいいのなら、ここにいるよ。ネコのカレシだけど」


 中吉さんは突然僕を指差した。見える位置で、こっそり話を聞いていたのだからそれは仕方がないとして、問題は中吉さんの思い込みで、僕の呼び方が「ネコのカレシ」のまま固定されているというところだ。


「えっ? 甘井さんって、ネコちゃんのカレシさんなの?」


 同時に振り返ったのは、ココロちゃんと呼ばれていた長内おさない先生だった。


 1学期の始めのころは全身筋肉質で、ごつい感じであったが、今ではだいぶ筋肉が落ちて、見た感じは1年生たちとほぼ変わらない。


 もともと童顔な上、背の高さは150センチにも満たない中吉さんとほぼ同じ。

 しかも2人で並ぶとわずかに長内先生の方が低く、完全に生徒と同化していた。


「いえ、仲はいいですけど、蟻塚ありづかさんと僕は、そんな関係ではありません」

「寮でエッチなことは、しちゃダメですよ。ネコちゃんは、まだ1年生ですから」


 先生、それだと「2年生以上なら問題なし」という意味にも取れますが……。


「ふふふ……長内先生、そろそろお時間ですよ」


「天ノ川さん、教えてくれてありがとう。もうみんな集まったみたいね。

 はーい、モーニングストレッチ、始めますよー」


 長内先生は集まった生徒たちの前に出て、こちらへ向き直る。

 出席者を確認したりはしないようだ。


「いち、にっ、さん、しー」

『ごー、ろく、しち、はち』


 長内先生の号令に、生徒達が続く。


「にー、にっ、さん、しー」

『ごー、ろく、しち、はち』


 ただの体操なのに、なんとなく楽しい気分になれる。


「いち、にっ、さん、しー」

『ごー、ろく、しち、はち』


 ここには、僕の敵は誰もいない。


「にー、にっ、さん、しー」

『ごー、ろく、しち、はち』


 やはり、環境というものは非常に大事なのだ。


「いち、にっ、さん、しー」

『ごー、ろく、しち、はち』


 3年後の僕がどうなっているか。


「にー、にっ、さん、しー」

『ごー、ろく、しち、はち』


 それは、ここでの努力次第だ。


「いち、にっ、さん、しー」

『ごー、ろく、しち、はち』


(以下略)




「はーい、お疲れさまー、今日はこれで解散でーす」 

『ありがとうございましたー』


 モーニングストレッチが終わると、長内先生に肩を叩かれた。


「甘井さん、ちょっといいかなー?」

「はい。何のご用でしょうか?」

「後で、寮の私の部屋まで来て欲しいの」


 長内先生が、僕に向かって拝むように両手を合わせている。先生からの呼び出しなので逆らえないが、呼び出しというよりは、お願いされているようだ。


「いいですけど、どういったご用件ですか?」

「それは、ちょっとここでは言えない話なの」


「分かりました。ところで、長内先生のお部屋って何号室でしたっけ?」

312さんいちに号室よ。制服に着替えないで、部屋着のままでいいからね」


「何時ごろに伺えばいいですか?」

「朝食の後がいいかな……それじゃ、8時でお願いします」


「では、8時に伺います」


 長内先生に一礼して、中庭を後にする。

 少し離れた所で、天ノ川さんが僕を待っていてくれた。


「ふふふ……もしかして、デートのお誘いでしたか?」

「いや、それはないと思いますけど……」




 天ノ川さんと一緒に101号室に戻り、「ネーちゃん、朝だぞ」と覚醒かくせいの呪文を唱えてネネコさんを起こしてから3人で食堂へ向かった。


「もうさ、ボクの事、ずっとネーちゃんでよくね?」

「僕はトラジくんと違って、ネネコさんの弟じゃないから」


「えーっ、ミチノリ先輩がボクのこと『ネーちゃん』って呼んでくれたら、ボクは『みっちゃん』って呼んであげようと思ったのに」


「それは全然嬉しくないよ。僕にスカトロ趣味は無いからね」

(注釈:意味不明な方は「みっちゃんみちみち」で検索してみて下さい)


「スカトロって何? ネギトロより美味うまそうじゃね?」

「ネネコさん、それは食べ物ではありませんし、食堂でその話題は禁止です」




 食堂でポロリちゃんと合流し、いつものように朝食をとる。

 今日は天ノ川さんと僕が体操着で、ネネコさんとポロリちゃんはパジャマ姿だ。


「お兄ちゃん、モーニングストレッチはどうだった?」

「体育の時間の準備運動を長めにやった感じかな。ただの体操だよ」


「チューキチもいたでしょ? ミチノリ先輩に何か言ってなかった?」

「中吉さんなら、長内先生と楽しそうに会話してたよ。友達同士みたいな感じで」


「リボンちゃんとココロ先生は、とっても仲良しなの」

「ふふふ……、長内先生は1年生達とは本当に仲がいいみたいですね」


「チューキチはカレシを欲しがっててさ、トラジを紹介してくれって言うんだよ」

「トラジくんってまだ小学校の5年生だよね? 中吉さんは年下好みなの?」


「年は上でも下でも、どっちでもいいみたい。トラジは小学生だけど、背も高くてミチノリ先輩よりは、ずっとカッコいいけどね」


「そりゃそうでしょ、ネネコさんの弟さんなんだから」

「ふふふ……ネネコさんの脚も、すらりと長いですよ」

「えへへ、ポロリもトラちゃんには会ってみたいかも」


 ネネコさんが、美少女なのだから、弟さんもイケメンなのは当然のことだろう。

 なぜかネネコさんが静かになったので会話が止まり、そのまま食事を終える。


 その後は、いつもだとこのまま座談会へと移行するのだが――


「甘井さん、長内先生の部屋へ行かれるのでしたら、シャワーを浴びて着替えられてからのほうがいいと思います」


 天ノ川さんからのアドバイスだ。先ほどのストレッチでだいぶ汗をかいてしまったので、このまま先生の部屋へお邪魔するのは失礼かもしれない。


「たしかにそうですね」


「ミチノリ先輩、ココロちゃんに呼び出されたの?」

「呼び出されるような事は、していないつもりなんだけどね」


「えへへ、お兄ちゃん、モテモテなの」

「それじゃ、僕は部屋でシャワーを使わせてもらってから行くことにします」


「いってらっしゃい」

「ふふふ……お気を付けて」

「お兄ちゃん、頑張ってね」


「いってきます」


 ――僕は何に気を付けて、何を頑張ればいいのだろうか。


 部屋でシャワーを浴びた後は、洗濯済みの体操着に着替える。長内先生からは部屋着で来るように言われたが、今の僕にとっては、この体操着が部屋着だ。


 3階の廊下を歩くのは、なんとなく危険な感じがするので、僕は1階の廊下を進み、育児室である111号室の手前にある、東階段を3階まで上る。


 生徒の部屋は309号室までのはずだ。310号室と311号室の用途は不明。

 一番奥の312号室が、長内先生の部屋だ。


 階段を3階まで上りきったところで、311号室のドアがバタンと閉まったような音がしたのだが、気のせいだろうか。


 目的地はその隣の部屋なので、気にせず通過し、312号室を確認する。


【312号室】

【長内 心炉】


 ドアの横には、生徒の部屋と同じように表札が付いていた。新任の先生だからだろうか。子守先生や新妻先生の部屋には表札が付いていなかった気がする。


 長内ココロ先生。保健体育の先生で、1年生の担任だ。

 ココロは漢字で書くと「心炉」らしい。


 トントントン――僕は312号室のドアを軽く3回叩いた。

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