第49話 寝技の稽古は僕が練習台らしい。

 受け身の稽古けいこが終わり、次は寝技の稽古。立ち技は危険なので後回しらしい。

 最初に習うのは抑え込みの技、「袈裟けさがため」だ。


「今からお手本を見せまーす! 甘井さーん、ご協力お願いしまーす!」


 心の準備が整う前に指名されたが、これは出席番号1番の宿命だ。


「はい、よろしくお願いします」


 相手が先生では断ることもできないので素直に指示に従う。


「今から袈裟固めを掛けますので、甘井さんは掛けられる役をお願いします」

「分かりました。ここに寝ればいいんですか?」


 僕は先生の横で仰向けになった。


「はーい、まず正面から相手の首の後ろに、自分の右腕を回しまーす!」


 いきなり正面から首に抱きつかれた。小柄な女性とは思えない腕の太さだ。


「そのまま相手の右腕を自分の左のわきで挟んで動けなくしまーす!」


 先生と体が密着する。女性に体を押し付けられているはずなのに、筋肉質で固く、全然嬉しくない……というのは長内おさない先生に対して失礼か……あまり嬉しくない。


「そのまま、体重を掛けて抑え込みまーす! 甘井さーん、動けますかー?」


 先生の体重はどう見ても僕よりは軽いはずなのだが、全く動けない。そのうえ、先生と顔が近すぎてとても気まずい。――僕は、脱出をあきらめて畳を3回叩いた。


「降参です。全く動けません」


 一斉に歓声が上がった。僕が降参して笑われている――という感じではない。小柄な先生が男子を抑え込む様子が、単に面白かったのだろう。


 もしかしたら、僕が手加減していると勘違いされたのかもしれないが。


「はーい、ご協力ありがとー。次は1年生が4年生に掛けてみてくださーい!」


「お兄ちゃん、痛くなかった?」


「全く動けなかったけど痛くはなかったよ。はい、どうぞ、次はポロリちゃんの番だよ。先生と同じようにやってみて」


 僕は力を抜き、仰向けに大の字になって寝る。ポロリちゃんなら先生よりずっと軽いはずだから、上に乗られても平気だろう。


「えーとね、こう?」


 ポロリちゃんは右側から僕の顔をのぞき込むような状態で、僕の頭を右手で持ち上げている。


「そう、右腕をもっと首の後ろに入れてみて」

「ここまでしか届かないの……」


「遠慮しないで体の上に乗っていいよ。ポロリちゃんなら全然重くないし」

「えへへ、失礼します」


 ポロリちゃんは僕の胸の上にふわりと体を重ね、首に細い腕を巻き付ける。その体は見た目以上に軽くて温かい。そして、短めのツインテールの片方が僕の顔を優しくでる。


「そう、そのまま僕の右腕を左の脇に挟むんだよ」

「えーっと、……こう?」


 ポロリちゃんは僕の右手首を握って自分のわきの下に当て、熱を測るときの体温計のように僕の手を軽く腋に挟んだ。柔道着越しに伝わるポロリちゃんの腋の感触は、ぷよぷよとしていて、とても柔らかい。


「きゃはっ、くすぐったいよぉ」


「そりゃそうだよ。挟むのは手じゃなくて腕だからね。もっと引っ張って、手首と肘の間あたりを強く挟まないと」


「じゃあ……、このくらい?」


 相手を痛くしないように手加減してしまうところが実にポロリちゃんらしい。


「まあ、さっきよりはいいかな。相手の首と腕を取ったら、後は上半身に体重を掛けて抑え込む。柔道着の袖をしっかり握って相手を動けなくするんだよ」


「あのー、ポロリは、これで精いっぱいなんですけど、どうでしょうか?」


「うん、やりかたはこれで合っているはずだよ。ポロリちゃんの体重があと20キロくらいあったら多分、僕は全く動けないよ」


「えへへ、ポロリはロリだから重さがたりないの」


 体格差がこれだけあると、小動物に懐かれているような感じだ。僕は抑え込まれているにもかかわらず、心がいやされている。きっと、どんなにかわいい小動物が相手でも、かわいさ勝負ならポロリちゃんが世界最強だろう。


「すみません、甘井さん。兄妹水入らずのところ申し訳ないのですが……」


「はい、遠江とおとうみさん、僕に何か用ですか?」


 ポロリちゃんに抱擁された状態で、クラスメイトの遠江さんから声を掛けられた。


「私では姉として力不足なので、甘井さんに代役をお願いしたいのです」


「はい、僕に出来る事でしたら……」


 遠江さんは、4年生の教室では僕の真後ろの席で、大人しくて無口な印象だ。普段の会話はほとんどないし、何かを頼まれるのも、もちろん初めてだった。


「ポロリさん、あなたのお兄様をしばらくお借りします。よろしいですか?」


「はい、ミミ先輩。――えへへ、お兄ちゃん、頑張ってね」


 ポロリちゃんは、そう言って僕を「袈裟固めによく似た抱擁」から解放した。


 ミミ先輩か……。ちなみに遠江さんのフルネームは遠江美耳とおとうみみみみさんだ。その名の通り長くて綺麗な耳をしており、ミミさんと呼ばれている。何故か「ミ」がひとつ省略されているようだが。


「ポロリちゃん、遠江さんと知り合いだったの?」

「うんっ、ミミ先輩は、ナコちゃんのお姉さまだから」


「ナコちゃん?」

「小学校のときからのお友達なの。この子がナコちゃん」


 そう言って紹介してくれた子は、1年生の中でただひとり僕より背が高く、4年生と先生を加えた37名の中で最も背が高い子だった。170センチくらいあるのだろうか。美術部部長の口車くちぐるま先輩と同じぐらいの高さだ。


「よろしくお願いします。大間名子おおまなこです」


 大間さんがゆっくりと頭を下げる。


 発育がいい子なので、全体的にふっくらしている。天ノ川さんには及ばないが胸も大きい。失礼ながら、体重も僕よりあるだろう。


「それでは甘井さん、私の代役をお願いします」


 なるほど、そういう話だったのか。遠江さんはどちらかというと小柄な体形だ。大間さんに抑え込まれたら全く動けず、稽古にならないと判断したのだろう。相手が僕でもあまり変わらない気もするが、引き受けた以上、責任は果たさないといけない。


「大間さん、どうぞ」


 僕は畳の上で大の字で仰向けになる。まな板の上のこいとはこの事か。


「はい……失礼します」


 大間さんは長い右腕を伸ばして僕の首を抱え上げる。


 少し開いた柔道着の胸元から、甘酸っぱい匂いがして、僕は思わず目をつぶった。先生やポロリちゃんからは感じられなかった匂いだ。これが噂に聞くフェロモンというものなのだろうか。なんだかクラクラする。


 そのままの体勢で右腕を取られる。先生のお手本通りに、がっちりと左の脇に挟まれると、そのまま右腕の内側に柔らかいものが押し当てられる。これも先生やポロリちゃんからは感じられなかった感触だ。まるで夢の中にいるようだ。


「先輩……これであっていますか?」


 耳元でささやかれるように呼ばれ、驚いて目を開けると、至近距離に見慣れない、可愛らしい顔があった。体は大きいが、顔はほかの1年生と同様に幼くみえる。


 ――そうだ、今は授業中だった。きちんと後輩を指導してあげないと。


「はい、先生のお手本通りです。このまま体重を掛ければ、僕は動けなくなります」

「分かりました……続けます」


 大間さんは僕の右腕を胸に当てたまま体重を掛けてくる。僕は完全に抑え込まれて全く動けないし、当然立つこともできなかったが、このままでは別のところが立ってしまいそうだったので、慌てて畳を連打した。


「参りました。さすがですね」


 袈裟固めから開放され、大間さんを見上げる。


「ナコちゃん、すごーい!」


 ポロリちゃんは隣で驚きの声を上げていた。


「ありがとう。お兄さまはロリちゃんに返すね」


「甘井さん、ありがとうございました」

「どういたしまして。遠江さんも大間さんも、またいつでも声を掛けてください」




 こうして、今日の柔道の授業が終わった。

 中学の時は柔道が嫌いだったのだが、ここでは次の柔道の時間がとても楽しみだ。

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