第36話 目を逸らさなくてもいいらしい。

 朝食の後、部屋に戻って洗面所で歯を磨いてから、いつものように脱衣所で制服へ着替える。今日は洗濯物を干していないので、いつもより広く感じた。


「お兄ちゃん、お待たせ。こっちも着替え終わったよ」


 着替え完了の合図を受けて部屋に戻り、自分の机に向かって持ち物を準備する。


 4時間目、つまり午後の最初の時間に体育の授業があるが、僕は昼休みに着替えに戻る事を想定して体操着は持たず、教科書が入るくらいのクリアケースに筆記用具のみ準備する。


 寮が校舎の隣にあるせいか、通学用のカバンに関しては指定されておらず、何の決まりも無い。なので、僕は大きめのクリアケース以外、特に用意していない。


 左隣のポロリちゃんは、入寮日に見た丸くて大きな蜜柑みかん色のリュックではなく、小さな赤いリュックにアルトリコーダーや筆記用具を入れている。新品のアルトリコーダーは先週、校内の売店で買ったそうだ。


 右隣のネネコさんは、男子中学生が使うようなレトロな感じの白い肩掛けカバンを用意している。縁が黒ではなくアイボリーなので女の子が使っていても違和感はない。ネネコさんにはちょっとサイズが大きすぎるような気がしないでもないが。


 天ノ川さんの持ち物は、黒くて薄い皮の学生カバンと、小さな星型の模様がちりばめられた巾着きんちゃく袋。体操服はカバンに入らないので、こうやって巾着袋に入れて別に持つようだ。


 3人とも個性的なカバンを用意しているが、3人並ぶと、やはり天ノ川さんの学生カバンが、この地味なセーラー服に一番似合っている気がする。


 4人で部屋を出てドアを閉める。


 寮の各部屋の入り口のドアにはカギがついていないので、施錠の必要もない。これは表向きには非常時の安全の為と言われているが、非行や引きこもりを防止する為でもあるらしい。


「お先に! いってきまーす!」

「お兄ちゃん、ミユキ先輩、いってきます。――ネコちゃん、待ってよう!」


 ドアの前で左右二手に分かれ、1年生の2人は音楽室へ。僕は天ノ川さんと一緒に新妻にいづま先生の自室である112号室へ向かう。


 教科書運びを頼まれたのは僕だけだったので「1人で行けますよ」とやんわりと同行を断ったのだが、「あら、お嫌でしたか?」と返されたので「いえ、大歓迎です」と正直に答えてしまい、結局一緒に来てもらう事になった。


「トン、トン、トン」


 112号室のドアをノックする。返事は無いが、代わりに赤ちゃんの笑い声が聞こえたような気がした。ドアを少しだけ開けて中に向かって挨拶あいさつする。


「失礼しまーす」

「甘井さん? どうぞ、中に入って下さい」


 新妻先生の許可をもらい、スリッパを脱いで部屋にお邪魔する。

 天ノ川さんはドアの外で待機してくれている。なんだか申し訳ない。


 部屋の作りは101号室と全く同じなので、短い廊下の突き当りにトイレのドアがあって、左を向くとすぐに中の様子が見える。


「ごめんなさいね。もう少しで済むから、ちょっとだけ待っていてね」


 驚いた事に、部屋の真ん中で赤ちゃんを抱いたままソファに座る新妻先生は、授乳中であった。赤ちゃんの頭で先生の胸は見えていないが、ジロジロ見ていいものではなさそうなので目を逸らすと、奥のベッドにもう一人の赤ちゃんが見える。


「べつに、目を逸らさなくてもいいわよ。でも、乳首が黒くてがっかりとか、思っても口に出して言わないようにね」


「いえ、遠慮させていただきます」


 先生の胸に全く興味が無いというわけでもないが、見てしまってがっかりするくらいなら、最初から見ない方がいいだろう。


 もう一人のほうは授乳済みなのだろうか。ベッドの上で大人しく座っている。


「まずマサルを育児室に預けてくるから、その間、ミヤビをちょっと見ていてね」


 授乳を終えた先生は服装を整えて、赤ちゃんを抱いたまま部屋を出てしまった。


 マサルちゃんとミヤビちゃんか。そういえば、ホームルームのときに「男の子と女の子の双子を授かり」っておっしゃっていた。


 ということは、先に連れていかれたほうが男の子で、こっちが女の子か。赤ちゃんの性別は分かりにくいので、僕には全く区別がつかない。


 ミヤビちゃんは僕の顔をじっと見ている。こちらが目を逸らすまで逸らさないつもりらしい。先生から「見ていてね」といわれたから見ているだけなのだが、僕はこの後どうしたらいいのだろう。


「甘井さん、入りますよ」


 しばらくミヤビちゃんと見つめ合っていると、先生ではなく天ノ川さんが部屋の中に入ってきた。


 先生に頼まれたのだろうか。ミヤビちゃんに用があるようなので、僕は天ノ川さんに場所を譲る。


「ミヤビちゃんは私と一緒ね」


 天ノ川さんは自分の荷物を置いて、ミヤビちゃんに声を掛けると、そのまま抱きかかえた。セーラー服を着て赤ちゃんを抱いているにもかかわらず、違和感が全く無いのが天ノ川さんの凄いところだ。


「ばぁ、ばぁ」


 ミヤビちゃんは天ノ川さんに体を預けたまま僕の顔をじっと見て、僕に対して手を振ってくれているように見えたので、僕も軽く手を振り返してみた。


「ふふふ……、それでは、この子は私が運びますから」


 ミヤビちゃんは少し寂しそうな表情で天ノ川さんに抱かれて部屋を出て行った。


「お待たせ。それじゃ、教科書をお願いします」


 入れ替わるように、新妻先生が育児室にマサルちゃんを預けて戻って来た。


 教室まで運ぶ教科書は、現代文と古文で各1冊。18人分なので、全部で36冊だ。重ねて両手で持ってみる……けっこう重いが、このくらいならなんとか1人で持てそうだ。


「ありがとう。さすが男の子ね」

「新妻先生、その褒め方は男女差別ですよ」


 育児室は隣の部屋なので天ノ川さんもすぐに戻って来た。


「そうだったわね。ありがとう、2人とも。さすが甘井さんと天ノ川さんね」

「いえ、僕に出来ることでしたら」


 男女差別か……僕は「さすが男の子ね」と言われて素直に嬉しかったが、たしかに他の子だったら「さすが女の子ね」とは言われないだろう。しかし、これを男女差別というなら力仕事を僕に頼んだ時点で既に男女差別なのではないだろうか。


 そんなことよりも、先生を相手にしてまで僕をかばってくれた天ノ川さんと、生徒の指摘をすぐに認めて訂正してくれた新妻先生に感動してしまった。


 僕は本当に恵まれた環境にいるのだと思う。


 もちろん僕としては、男として認められる事は、喜ばしい事だと受け取っているので、差別されたなんて全く思っていないのだが。


「では、甘井さんの荷物は私が持ちます」


 天ノ川さんは僕のクリアケースを自分のカバンや巾着と一緒に持ってくれた。


「あっ、すみません。僕、自分の荷物を忘れるところでした」


 部屋を出て、3人で寮の廊下を歩いていると、102号室から顔見知りの2人が出てきた。ヨシノさんと宇佐院うさいんさんだ。


「おっはよーミルキー! あれ、先生? おはようございます。ミチノリさんが教科書を運んでいるんだね。――先生、もう教科書頂いてもいいですか?」


「あら、今市いまいちさんはそんなに勉強熱心だったかしら? もちろん、いいですよ」


「ひどいよ先生! じゃ、ミチノリさん、チハヤの分とあたしの分で合わせて2冊ずつもらうね。これで少し軽くなるでしょ?」


 ヨシノさんが少し荷物を減らしてくれた。これはありがたい。


「ご協力ありがとうございます」


「それなら、私は後ろの子たちに配ってあげるよ」


 宇佐院さんは教科書を4冊ずつ取ると、僕たちの後ろにいる他の部屋の子たちに配ってくれた。


 寮を出て昇降口までは1分も掛からないのだが、その時点ですでに教科書は半分くらい。4年生の教室に着くころには、天ノ川さんと僕の分を含めて、残りはほんの数冊になっていた。

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