第37話 前から後ろに優しく拭くらしい。
1時間目の現国の授業が終わり、2時間目は育児実習だ。
家庭科の授業は内容によって被服室、調理室、演習室、及び育児室で行われる。今回の集合場所は寮内にある育児室だ。みな4年生の教室から出て、ぞろぞろと寮へと移動する。
注意事項は「裁縫道具の持ち込みは禁止」だそうだ。僕にとっては思いもよらない注意事項だが、ここでは裁縫道具を常に携帯している子も多いらしい。言われてみれば赤ちゃんの
僕は17人のクラスメイトの後ろ姿を眺めながら、みんなの後についていく。
昇降口で靴を履き替えて校舎の外へ出たところで、僕の前を歩く
「ね? 昨日言った通りでしょ?」
「たしかに、そうみたいですね」
後ろからクラスメイト全員を眺めると、宇佐院さんの言っていた通り、僕より背が高い人はクラスには1人もいないようだった。みな150センチから160センチの間に収まっており、特に高い人もいなければ、特に低い人もいない。
僕はずっと自分の背が低いことに劣等感を持っていたのだが、この環境では、なんでそんなことに悩んでいたのかと不思議に思えてくる。
「去年と比べて背が伸びている子もいないからね」
「ふふふ、私たちはもう背は伸びませんけど、甘井さんはきっとまだ伸びますよ」
天ノ川さんの言う通りかもしれない。悲観する必要など全くないのだ。
寮の玄関でスリッパに履き替え、101号室の前の廊下を通って突き当りを左に曲がり、ずっと奥にある111号室が育児室。
「きゃー、かわいい!」
「わー、新妻先生にそっくりだね~」
先に部屋に入った子たちが、赤ちゃんを取り囲んで騒いでいる。
101号室と同じ広さの部屋なので、4年生全員が入るとさすがに少し狭い。
「この子が新妻先生のご長男で、マサルちゃんです」
「こちらが、ご長女のミヤビちゃん」
ミヤビちゃんも同じように取り囲まれているが、あまり嬉しそうには見えず、何で今日はこんなに人がいっぱいいるんだ? というような驚いた顔をしていた。
「2人とも来月で1歳になります。まだほとんどお話できませんが、簡単なことならある程度は分かりますから、どんどん話しかけて言葉を教えてあげてください」
――そうか、こうやって周りの人が話しかけてくれるから言葉を覚えるのか。
当たり前の事だが、もし誰も話しかけてくれなかったら言葉を覚える必要すら無くなってしまう。自分もこうして言葉を教わったのだろうけど、その頃の事は全く覚えていなかったし、今までそんなことを考えたことすらなかった。
「大切なのは愛情です。言葉を返してくれたら、きちんと褒めてあげてください」
褒められたら繰り返し、
そうやって社会に適合していくのだ。
親の責任は重大だが、僕も親にそうやって育てられたはずだ。この授業が無ければそんな当たり前の事にすら気づけなかったかもしれない。僕は心の中で改めて両親に感謝した。
「マサルちゃん、こんにちわー」
「きゃー、笑った。かわいい! エライ!」
「ミヤビちゃん、こわくないよー」
「私はユメだよー。よろしくねー」
2人の赤ちゃんを取り囲んで、しゃがんで話しかけているクラスメイトを少し離れたところから見学する。
これが母性というものなのだろうか。みな楽しそうで生き生きとしている。
僕は赤ちゃんに興味が全くないというわけではないが、積極的に話しかけてみたいとまでは思わなかった。
「その後、お体の調子はどうですか?」
皆が赤ちゃんを取り囲んでいるところで、子守先生が僕に声をかけてくれた。
僕が精神疲労で倒れた一昨日の夜、消灯前に直接お礼を言いに行ったのだが、そのときはまだ脱皮したばかりの先端が少しヒリヒリしていたのを思い出した。
「先日は、どうもありがとうございます。お陰様でだいぶ良くなりました。ご心配お掛けしました」
「そうですか。それは良かった。いろいろと大変でしょうけれど、私でよければいつでも頼って下さい」
「そうおっしゃって頂けると、とても安心です。今後もお世話になります。どうぞよろしくお願いします」
僕は心から感謝して頭を下げた。同室の3人に加えて子守先生もいてくれれば、ここでの生活も安心だ。
「おぎゃー、おぎゃー!」
「マサルちゃん、どうしたの?」
赤ちゃんの泣く声が聞こえ、部屋の空気が変わった。さっきまでニコニコしていたマサルちゃんがいきなり泣きだしたようだ。
「みんなで触ったから怖がっているのかな?」
「ごめんね、マサルちゃん」
「どうしよう。泣きやんでくれないよ~」
「お腹がすいちゃったんじゃないのかな?」
「ミルキー! おっぱい出して、早く!」
「ちょっと、ヨシノさん! いくら私の胸が大きくても、母乳は出せませんよ!」
「あははは、たしかにミユキさんなら出せそうだよね。ヨシノは無理っぽいけど」
「ひどいよ、チハヤ!」
おっぱいを見れば泣き
「オムツが
「はい! 私、替えてみたいです」
泣き出した理由はオムツが濡れてしまったからか。子守先生がそうおっしゃるのなら間違いないのだろう。そして、オムツ替え係には
「では脇谷さんにお願いします。まず新しいオムツとオムツを捨てるビニール袋、そしてお尻
脇谷さんが先生の指示通りにオムツを広げて、その上にマサルちゃんを寝かせ、ビニール袋とお尻拭きを準備する。僕を含めた残りの17名は取り囲むようにじっと見守っている。マサルちゃんは泣いたままだが、脇谷さんは平然としている。
「準備が出来たらオムツを開けてください」
「はい。――マサルちゃん、オムツを取り替えますよー」
脇谷さんが声を掛けながらオムツを開ける――
「きゃー!」
「かわいい!」
「えっ? 意外と大きくない?」
室内に黄色い歓声が上がる。一昨日の美術室での僕と同じ状況だ。
みな思ったことを口に出している。体が小さいと頭が大きく見えるのと同じで、ぞうさんも相対的に大きく見える。
なぜか僕の方が恥ずかしくなってきた。とても気まずい。
「お尻拭きで拭いてあげてください。特にぞうさんの鼻の先と袋のしわ、足の付け根の辺りは清潔にしてあげてください」
脇谷さんは何のためらいもなくマサルちゃんの
「わあっ、ちょっと大きくなってない?」
「ホントだ。ぞうさんの鼻が上を向いたままだよ」
拭かれた刺激で元気になってしまったのだろうか。ますます気まずい。
「物理的な刺激を受けると、健康な男の子なら赤ちゃんでも
なるほど。たしかに当人の意思で自在に大きさを変えるなんてオトナでも無理だろう。それに乳首も立つという話は本当だったのか。
脇谷さんは左手でつまみながら先の方を優しくなでるように拭いてあげていた。
「お尻を
子守先生の説明通りに、脇谷さんが手際よく新しいオムツに取り替える。
「はい、できましたよー」
脇谷さんがマサルちゃんの頭を
「すごーい! さすがモエ!」
「はい、よくできました。脇谷さん、ありがとうございます。続いてミヤビちゃんのオムツを……甘井さん、よろしくお願いします」
「僕ですか? ミヤビちゃんは泣いてませんけど、替えたほうがいいんですか?」
「この子はマサルちゃんと違ってあまり泣きませんが、オムツが重たそうです。そろそろ替えてあげたほうがいいでしょう」
まわりの反応を見ると、オムツ替えをやりたがる人はあまりいないのだろう。それに、子守先生からのご指名なら断れない。
「分かりました。やってみます」
「オムツのメーカーによっては男の子用と女の子用に分けられている場合もありますが、ここで使っているものは男女兼用ですから、脇谷さんと同じようにやってみてください」
先ほどの脇谷さんにならって、新しいオムツを広げる。ミヤビちゃんのお尻を持ち上げてオムツの上に下ろして、ビニール袋とお尻拭きを用意する。
泣いていたマサルちゃんと違い、ミヤビちゃんはとても大人しく、こちらをじっと見ている。朝食後に新妻先生の部屋で会ったときと同じだ。もしかして僕の顔を覚えてくれているのだろうか。
昨日、コウクチ先生からポロリちゃんのオムツを替えていたという話を聞いたばかりだったが、まさか次の日に自分が体験する事になるとは思ってもみなかった。
「では、オムツを替えますよ」
無言だと気まずい雰囲気だったので一応声を掛ける。当人も何をされるのか理解はしているようで、「きゃはは」と嬉しそうに笑っている。無邪気でかわいい笑顔だ。まだ、物心というものはついていないのだろう。
ペリッとマジックテープを
マサルちゃんがみんなに囲まれてオムツを替えられていたとき、僕は自分の股間を見られているような気まずさを覚えた。今度は逆の立場だ。
「女の子のおまたを拭くときは、必ず前から後ろに、体の上から下に向けて優しく拭いてあげてください」
子守先生の言葉に一瞬ドキッとする。赤ちゃんに対して興奮するような趣味はないが、この子が女の子であるという意識は持たなければならない。
僕は教わった通りに、ミヤビちゃんのおへその下のほうにある溝に沿って上から下へと優しく拭いてあげた。お尻も綺麗に拭いてあげてから使用済みのオムツを外し、丸めてビニール袋に捨てる。最後に新しいオムツの漏れ防止ギャザーを立ててから、背中とおなかの高さを合わせてマジックテープで止めれば任務完了だ。
「はい、お疲れ様」
ミヤビちゃんに対してなのか、自分自身に対してなのか、自然に僕の口から出た言葉がこれだった。
「はい、よくできました。甘井さん、ありがとうございます」
子守先生からお褒めの言葉をいただき、僕は頭を下げて後ろに1歩下がる。
なんとか上手く出来たが、それは多分「小さいほう」だったからだろう。
これが「大きいほう」だったら手間も
ついさっき「食事の準備は大変だ」と思ったばかりなのに、今度は「赤ちゃんの世話も大変だ」と思う。専業主夫になるというのは、もしかしたら社会に出るよりも、ずっと大変な事なのかもしれない。はたして、僕に務まる仕事なのだろうか。
「ミチノリさん、どうしたんですか? ずっと見つめ合っちゃって」
ヨシノさんから声を掛けられるまで気づかなかったが、僕はそんなことを考えながら、じっとこちらを見続けているミヤビちゃんのほうを見ていたらしい。
「えっ? あー、いや、この子が目を
「はーい、ミヤビちゃん、このお兄さんはダビデ君ですよー」
ニヤニヤしているヨシノさんに言い訳している隙に脇谷さんに入り込まれた。
どうやらミヤビちゃんを洗脳しようと
「脇谷さん、それはちょっと、勘弁してください!」
「あははは、何それ? 何で甘井さんがダビデ君なの?」
「それは企業秘密です! 詳しくは本日発行の
宇佐院さんの質問に対し、ヨシノさんがドヤ顔で校内新聞の宣伝をしている。その新聞が今後の学園生活にどう影響するのか……今の僕にはまだ分からなかった。
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