入寮5日目

第33話 朝食の準備はとても大変らしい。

 5日目の朝。頭上で鳴る、控えめな音量のアラームで目が覚める。

 今日はポロリちゃんと一緒に朝食準備のお手伝いだ。


 僕が体を起こす前に目覚ましの音アラームは止まり、上段のベッドからパジャマ姿のポロリちゃんがゆっくりと梯子はしごを下りてきた。


 梯子から下りる途中で、梯子の隙間を見上げる僕と目が合うと、ポロリちゃんは隣のベッドで眠る姉妹を起こさないように「おはよう、お兄ちゃん」と僕だけに聞こえる小さな声で挨拶あいさつしてくれた。


「おはよう、ポロリちゃん。今日はよろしくね」


 僕も小さな声で挨拶を返す。


 時刻は4時45分。かなり早い起床だが、昨晩は10時前に寝たので睡眠は充分にとれている。まだ日も出ておらず部屋の中は薄暗く、廊下側の窓から緑色の誘導灯の光が差し込んでいる。


 体を起こす際に自分の下半身に違和感を覚えた僕は、ベッドから出ると声を立てずに口の動きと指でポロリちゃんに合図してから、まずはトイレに入る。


 今まで気にしていなかったが、これは自分で気づけてよかったと思う。


 昨日まではどうだっただろう。実は誰かに気づかれていて、見て見ぬふりをしてくれていただけという事もあり得る。そう思うと急に恥ずかしくなる。


 女の子と一緒に生活する以上は毎朝「これ」には気を付けないといけない。

 多少の困難はあったが、小用を足すと「男の朝の生理現象」は無事に静まった。


 トイレから出て洗面所に入ると、ポロリちゃんが鏡を見ながらヘアゴムで髪を結んでいた。僕は隣に並んで手と顔を洗い、続いて歯も磨く。


 いつもと同じ、かわいいツインテールを完成させた鏡の中のポロリちゃんと目が合うと「えへへ」と嬉しそうに笑ってくれた。


 僕が歯を磨き終えると、ポロリちゃんは「行ご!」と言って、笑顔のまま僕の手を引く。


 前にネネコさんが同じことをされて恥ずかしそうな顔をしていたが、今の僕にはその気持ちがよく分かる。手をつながれること自体は嬉しいのだが、その嬉しがる自分の緩んだ顔を誰かに見られるのが恥ずかしいのだ。


 幸いなことに、この薄暗い廊下には僕たち以外は誰も歩いていない。そして、ポロリちゃんの手はネネコさんの小さな手よりさらに小さかった。


「こっちから入るの」


 食堂に着くと、手をつながれたまま、カウンターの奥にある料理部の部室の前まで案内される。ポロリちゃんは、そこで僕の手を放すと部室の扉を開けた。


「おはようございまーす!」

「おはようございます」


 ポロリちゃんが元気よく挨拶をしながら中に入る。僕も後に続いて挨拶をする。


 部屋に入るとセーラー服の上に割烹着かっぽうぎを着た女の子が迎えてくれた。どこかで見たことがあるような、ないような……少なくとも会話をしたことはないし、名前もまだ覚えていない。


 背筋が伸びて姿勢が良く整った顔立ちだが、自己主張は弱く地味で目立たない。この学園の上級生は、こういう落ち着いた雰囲気のお嬢様がほとんどだ。


「おはよう、ポロリちゃん。ありがとう、今日も来てくれて。しかも彼氏連れ!」


「えへへ、そうじゃなくて、お兄ちゃんなの」


 僕と一緒に来たというだけで、こんな会話になってしまうのだから、ポロリちゃんも大変だ。


 でも昨日の宇佐院さんの話によると、僕がイケメンだったらポロリちゃんが嫉妬の対象になってしまうらしいが、僕はイケメンではないので、そうはならない。


 その一点に関してだけは、かなりの自信があった。


「ふふっ、それは知っています。お兄様じゃなくて、お兄ちゃんなのね」


 ネネコさんは天ノ川あまのがわさんを「お姉さま」と呼んでいる。柔肌やわはださんも美術部の部長さんをそう呼んでいたし、有馬城ありまじょうさんも宇佐院うさいんさんをそう呼んでいた。


 お嬢様の姉妹の場合は、様をつけるのが慣例なのだろうか? 僕はポロリちゃんが「礼儀知らず」だと思われてしまうのは嫌だったので弁明しておくことにした。


「それは、僕がポロリちゃんにお願いしたんです。僕も今年からの新入生なので」


「ふふっ、お互い『ちゃん』づけなのね。今日はよろしくお願いします、甘井さん」


 僕が相手の名前を覚えていないのに、すでに僕の名前は知られている。


 名前を覚えてくれている相手に、僕から名前を聞くのは失礼な気がするし「甘井さん」と呼ばれてしまうと相手が何年生なのかも分からない。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


「まず、これを着てから厨房に入って下さい。ツクネは、お先に入ります」


 僕に白衣と白い帽子を手渡すと割烹着のお嬢様は、先に厨房に入っていった。


「お兄ちゃん、一緒に着替えよ」


 部室は更衣室を兼ねており、ここで着替えればいいらしい。着替えるといっても部屋着の上に白衣を羽織って、白い帽子を被るだけだ。隣ではポロリちゃんが桜色のパジャマの上から自前の割烹着を羽織っている。一昨日見たのと同じ格好だ。頭には帽子ではなく三角巾さんかくきんを巻いており、普通の白衣よりプロっぽく見える。


「今の人が部長さんなの?」


「ううん、よく似ているけど違うの。今の人はツクネ先輩。あれ? お兄ちゃんとおんなじ4年生じゃなかったかなぁ?」


 僕はみんなの前で自己紹介したが、みんなから自己紹介されたわけではないので顔と名前が一致しない。しかし「ツクネ」という名前には聞き覚えがあった。


 ――百川捏ももかわつくねさんだ。失礼ながら、フルネームで焼き鳥みたいな名前だったので、覚えていた。


「あっ……百川ツクネさん……で、合ってる?」

「うんっ、百川ツクネさん。料理部の先輩なの」


 話しながら寮のスリッパから厨房ちゅうぼう用の靴に履き替える。スリッパのままでは危険なのだそうだ。僕は25センチなのでサイズの合う靴を貸して貰えたが、20センチしかないポロリちゃんは一番小さな靴を借りてもまだ少し大きいらしい。


 この靴を履くために、あらかじめ厚い毛糸の靴下で足のサイズを合わせている。

 さすがポロリちゃん、用意周到だ。


 2人で一緒に厨房に入ると、百川さんの他にもう1人、スプレーを持った割烹着姿の女の子がいて、あちこちにシュッ、シュッと液体を吹き付けていた。


「消毒おっけーっス!」


 どうやら消毒液らしい。2人がこちらに気づいたので軽く頭を下げる。


「準備できたみたいね。では、ポロリちゃんはツクネと一緒に下ごしらえから。

 甘井さんは、ソーコちゃんの指示に従って下さい」


 百川さんは自分の事を「ツクネ」と名前で呼んでいる。ポロリちゃんと一緒だ。


 僕は「ソーコちゃん」と呼ばれた子に挨拶する。全く見覚えがないので少なくとも4年生ではないだろう。僕を含めて人員は4人だけのようだ。


「よろしくお願いします。4年生に編入した甘井道程あまいみちのりです」


「そんな、かしこまらなくていいっスよ先輩。私は2年の上田宗子うえだそうこっス」


 2年生の上田さんか。とても短い髪の子だ。僕の髪よりも短いくらいで、髪は三角巾でほぼ見えない。非常に早口で、「です」の「で」がほとんど聞こえない特徴的な話し方だ。先に来て働いていたのだから、きっと真面目な子なのだろう。


「いえいえ、ここでは僕のほうが後輩ですし、教えてもらう立場ですから」


「お噂通りの方っスね。こっちは『お手伝い班』なので、簡単スよ。まずはお米の準備からっス。2人なら楽勝っス」


 上田さんの後について、厨房の隣にある食料倉庫に入る。

「お噂」って何だろう。ちょっと怖い。


「朝食1回でお米は10キロっス。1袋持ってもらってもいいっスか?」


 米は5キロパックで、袋には「なすひかり」と書かれている。初めて聞く品種だが、そもそも僕が知っている米の銘柄は「コシヒカリ」と「あきたこまち」、あとは「ひとめぼれ」くらいしかない。


「いえ、僕が2袋とも持ちますよ。その為に来たんですから」


 天ノ川さんから聞いていた通りだ。お嬢様が1人で10キロは大変だ。


「1袋は持たせてください。私だけ手ぶらじゃ悪いっスから」


「すみません、では1袋、お願いします」


 上田さんと1袋ずつ持って厨房に戻る。5キロでも結構重かった。


「無洗米なので研がなくていいから簡単スよ」


 ムセンマイ? トがなくていい? 困った。お米を炊くのは初めてなので、何のことやら僕にはさっぱり分からない。


「もしかして、お米を炊くのは初めてっスか? 『研ぐ』っていうのは、お米を洗うことっス。『無洗米』は、洗わないで、そのまま炊いていいってことっスよ」


「ああ、そういう事ですか。分かりました」


「袋を破って、1袋分を一気に入れちゃってください」


 僕は上田さんの指示通りに袋を破いて、大きな炊飯器の中に米を入れる。

 シャーっという涼しげな音とともに米粒が流れていき、なかなか爽快だ。

 失敗したら大惨事なので、最後の1粒まで気を抜かず慎重にお米を流し込んだ。


「次に、そこのやかんで水をこのラインまで入れます。お任せしますので、入れてみてください」


 まず大きなやかんに水を入れる。10リットルくらい入るのだろうか。水が溜まるまで結構時間がかかる。


 続いて、その大きなやかんの水を米の上に注ぐ。水がたくさん入っているので、当然やかんも重い。これも重労働だ。半分くらい注ぐとラインに近づいたのでやかんの角度を調節して慎重にラインぴったりで止める。


 水はだいぶ余ってしまったが、上手くいったようだ。


「バッチリっス。これでOKっス。ツクネせんぱーい! 確認おなしゃーっス!」


 お米を炊く直前に責任者である百川さんに確認を取るらしい。すぐに百川さんが来て炊飯器の中を確認する。


「ここをひねって、ここを押すだけっス。30分待てば出来上がりっス」


 上田さんは百川さんが見ているうちに炊飯器のふたを閉じ、僕に説明しながらガス栓をひねり、炊飯器のスイッチを入れた。


「はい。ご苦労様。確認完了です」


 百川さんが調理に戻ると、トントントントンと軽快な包丁の音が鳴り始める。どうやら大根を切っているようだ。ポロリちゃんは百川さんの隣で器用に卵を割り続けている。


「次は何をすればいいんですか?」


「おはしとお醤油しょうゆの準備っス。お箸は一度全部出して箸立てを綺麗に洗います。よく拭いて乾かして、消毒用アルコールをスプレーしてからお箸を補充します」


 箸立てには結構ほこりが入るようで、毎日補充のたびに洗うそうだ。お箸は割りばしではなく再使用できるプラスチック製のものを使用している。


「お醤油は半分以下になっていたら、洗浄済みの醤油差しに半分補充して、そのうえに残った醤油を入れて、空になった方を洗浄します。今日は、2本とも半分以上残っていますので、このままでいいっス」


 醤油差しはカウンターの上にのみ2本あり、各テーブルにあるわけではない。他の調味料もあるが、ご飯の日の朝食時に使われる調味料は、ほぼ醤油だけらしい。


「ソーコちゃん、そろそろいいかしら?」


 百川さんから上田さんに確認が入る。


「おっけーっスよ。――では甘井先輩、ここで石鹸を付けて手を綺麗に洗ってください。爪と指の間は、この爪ブラシを使って洗います。洗ったらペーパータオルでよく拭いて完全に乾かしてからアルコールを手にスプレーします」


 僕は上田さんに教わった通り、きれいに手を洗い、よく乾かした後、消毒する。


「甘井さん、こちらをお願いします。ゆっくりでいいですから」


 百川さんからおろし金とボウルを受け取り、続いて大根の上半分を受け取る。

 天ノ川さんが言っていた「大根をすりおろす」作業だ。


「こうやって垂直に当てて、ゆっくり回すようにおろして下さい。力を入れすぎるとからくなってしまいますから。あと、指をおろさないよう注意してくださいね。危ないですから、全部おろそうとしないで持てなくなったらやめてください」


 作業自体は簡単そうだ。あとは指をおろさないように気を付けるだけだ。


「分かりました。やってみます」


 教わった通り大根を持ってゆっくりとおろしていく。出来上がった大根おろしが少しずつボウルに落ちる。大変だと聞いていたが意外と楽しい。続けていれば握力が鍛えられそうだ。


 上田さんは、僕のすぐ隣で大きなフライパンの上に魚の切り身を並べている。

 ポロリちゃんは、向かいにあるガスコンロを使って玉子を焼いているようだ。

 百川さんは、ポロリちゃんの隣で丸いフライパンを使って何かを炒めている。


 百川さんとポロリちゃんの背が同じ高さだったことには驚いたが、よく見るとポロリちゃんは高さ20センチくらいの踏み台の上に立っていた。


 大根が小さくなり持てなくなったので、もう1つの大根に持ちかえる。何人分なのかよくわからないが、大根半分で15人分くらいだろうか。上半分が2つなので30人分くらいではなかろうか。かなり大雑把な見積もりだが。


 朝食時の開店前の準備では、このくらいの量でちょうどいいらしい。100人が一斉に来るわけではないので、切らさない程度に徐々に補充すればいいようだ。作り立てが一番なので、あまり作りすぎるのもよくないということなのだろう。


「大根おろしは出来たみたいっスね。ありがとうございます」


 魚を焼き終えた上田さんが僕のおろした大根を確認し、回収してくれた。後ほど一緒に盛り付けるらしい。


 ポロリちゃんは百川さんに教わりながら玉子焼きを完成させて、みそ汁の準備に取り掛かっている。炊飯器からはご飯のいい匂いが漂ってきた。


「ご飯が炊けましたので、ジャーに移します。力仕事っスよ」


「はい。よろしくお願いします」


 上田さんの指示に従って、作業を開始する。厨房内のガス炊飯器には保温機能が無いため、カウンターの保温ジャーに移す必要があるようだ。


 大きなしゃもじとボウルを使ってご飯を運ぶのだが、これはたしかに力仕事だ。お米が炊きあがると水を吸って重くなる。重さは約倍になるそうで、ご飯は10キロくらいだ。これで50人から60人分くらいらしい。


「ご飯の移動、完了しました」


 ご飯を移し終えてジャーのふたを閉める。


「お疲れさまっス。今日の仕事は、これでほぼおしまいっスよ」 


 炊き立てのご飯の匂いに加え、ポロリちゃんが作ったみそ汁のいい匂いがする。

 開店のチャイムまで、あと15分ほどだ。


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