第8話 僕の妹は夜更かしが苦手らしい。

 3人が風呂に入っている間に、僕はキッチンの戸棚に残されていたグラスを借りて、ポロリちゃんが冷蔵庫の中に用意しておいてくれた麦茶を一杯いただいた。


 風呂上りに飲む麦茶は冷たくておいしい。ポロリちゃんは、なんて気が利く子なのだろうか。こんないい子が僕の妹だなんて、僕は感動して涙が出そうになった。


 続いて、持参した荷物を整理する。


 勉強机の下に押し込んだままのバッグを開けて、残りの着替えをベッドの下の自分用の引き出しに移す。


 教科書は最初の授業の時に配られることになっている為、まだ一冊もない。持参した必要最小限の文具だけを勉強机の引き出しに入れれば整理完了だ。


 しばらくして、水色のパジャマを着たネネコさんが上機嫌で風呂から出てきた。椅子いすに座ってくつろいでいた僕と目が合うと、ニッコリ笑って僕の右隣に座る。


 自分の隣に風呂上がりの女の子がいるという状況は、僕にとっては初めての事なので、それを意識すると少し困惑してしまう。しかし、ネネコさんはそんなことお構いなしに、ダチとして当たり前のように、風呂場での出来事を報告してくれた。


「ボクあんまりお風呂好きじゃないんだけどさ、今日は楽しかったよ。見せてもらうだけじゃなくて触らせてもらっちゃった。うらやましいでしょう?」


「何を?」なんて聞かなくてもネネコさんの顔に書いてあった。


 お姉さまのおっぱいの事だろう。


物凄ものすごうらやましい。僕も触りたい」というのが本音だが、天ノ川さんやポロリちゃんに聞かれてしまったらドン引きされそうなので自重し、軽く同意する。


「それは良かったね。どうだった?」


「すごかったよ。おっぱいってお湯に浮くから。ホントにスイカみたいだった。たぶんボクの頭くらいかな? ちょっと触ってみて」


 そう言ってネネコさんは自分の頭をこちらに差し出す。


「えっ? それじゃ、遠慮なく」


 僕は少しれたネネコさんの頭をわしづかみにして、頭皮をマッサージする。


「う~ん、これはたしかに大きいけど……こんなに硬くて、もじゃもじゃなおっぱいはイヤだなあ」


「ミチノリ先輩、なんか手つきがエロいよ」


 こんな馬鹿なやりとりをしていると、パジャマ姿のポロリちゃんが風呂から出てきた。ツインテールを解いているので、少し大人っぽく見えるかとも思ったが、桜色のかわいいパジャマを着ているせいか、全くそうは見えなかった。


「ポロリちゃん、麦茶いただきました。どうもありがとう」


「えへへ。どういたしまして。――ネコちゃん! ちゃんと髪を乾かさないと寝ぐせになっちゃうよ」


 そう言いながら、ポロリちゃんは僕の左隣の席に座る。僕はネネコさんの方を向いていたのでポロリちゃんに背後を取られた形だ。僕はすぐに正面を向いて、2人が話しやすいように椅子を少し後方に下げる。


「このくらい、ほっとけばすぐ乾くよ~」


 ネネコさんは乾かすつもりはないらしい。


 脱衣所からはドライヤーの音がずっと続いている。天ノ川さんは髪が長いので乾かすのも大変そうだ。


 ポロリちゃんを見ると椅子に座ったまま、うつろな目をしている。


 どうやら僕の妹は夜更かしが苦手なようなので、ネネコさんとの会話は僕が代わりに引き継ぐことにした。


「いや、まだ結構濡れてたよ。もしかして、ドライヤー持って来てないとか?」

「あれ? なんで分かったの?」

「いや、なんとなく。僕のでよければ使ってよ」

「あの黒いヤツでしょ? ボクも使っていいの?」

「もちろん。自由に使っていいよ」

「じゃあ、あとで借りるね」


 ドライヤーの音が止まり、最後に天ノ川さんが脱衣所から戻ってきた。


 長い髪からは、シャンプーのにおいなのかトリートメントの匂いなのかは分からないが、いい香りが漂ってくる。


 パジャマ姿の天ノ川さんは制服の時よりずっと刺激的だった。


 パジャマ自体は男性が着ていてもおかしくないような地味なデザインなのだが、着ている人が天ノ川さんだと、まるで別のパジャマのようだ。


 真面目な性格だからか一番上まできっちりとボタンを留めており、ゆったりした大きめのパジャマの胸元だけが窮屈そうに見える。


「すみません、天ノ川さん。いろいろと気を遣っていただいて」


 僕は席を立って先ほどの気遣いに対して礼を言った。


「いいえ、全然そんなことはありませんよ。少なくともこの部屋には特に男性が苦手という人はいません。甘井さんと同じ部屋でも嫌がったり差別したりはしませんし、みんな兄妹のように思っていますから」


「そう言ってもらえると安心します」


「でも他の部屋には寮に男子がいることをあまりよく思っていない子もいますし、甘井さんを怖がってしまう子や、興味本位でからかってくる子もいると思います。ですから、甘井さんのほうが私たちよりも、ずっと大変なはずです」


 合わない人とは距離を置けばいいと思っていたが、同じ寮で生活している以上、そういうわけにもいかないのかもしれない。


「今日のところは、この部屋の中だけですけど、明日からは他の部屋の子たちとも上手くやっていく必要があります。私も出来る限りの協力はしますが、甘井さんも覚悟しておかないと、この部屋から出られなくなってしまうかもしれませんよ」


 一般常識では、男子は女子寮に入れない。今の僕が置かれているこの状況は異常ともいえるだろう。そう考えると、たしかに安全なのはこの部屋の中だけなのかもしれない。


「それはたしかに怖いですね。ご忠告ありがとうございます」


 ――と言ってはみたものの、具体的に何をどう覚悟すればいいのかは自分では全く分からなかった。


 その後すぐに、リビングの窓の外の明かりが消えて部屋の中が少し暗くなった。


「夜10時から翌朝5時までは消灯時間ですから、廊下は真っ暗になります。私たちもそろそろ休みましょうか。どうします室長さん?」


 実質的に天ノ川さんがリーダーだが、形式的に最終判断のみ僕に委ねられる。


「ボク、もう寝るよ。今日はなにもすることないんでしょ? おやすみっ」


 ネネコさんは、さっと手前の梯子はしごを上りそのままベッドに入る。


 4人の寝る場所は、手前の2段ベッドの上がネネコさんで下が天ノ川さん。奥の2段ベッドの上がポロリちゃんで下が僕だ。


「お兄ちゃん……ポロリも眠いの。あ~」


 眠気と戦っていたポロリちゃんは大きなアクビを小さな手で慌てて隠し、涙目になりながらもこちらを見上げて判断を仰いでいる。


「そうですね。僕たちも、もう寝ましょう。天ノ川さん、電気は僕が消します。ポロリちゃんも、おやすみなさい」


「それでは、おやすみなさい。朝は6時にチャイムが鳴りますからね」


「おやすみなさい」


 ポロリちゃんが梯子を上りきったのを確認してから隣のベッドを見る。


 天ノ川さんもゆっくりとベッドに入る。2段ベッドの下段だけについているカーテンは開けたままだ。


 天ノ川さんの上段のネネコさんは、すでに眠っているように見える。


 電気を消して自分のベッドに入ると、廊下側の窓には緑色の光が残っていた。

「非常口」と書かれた誘導灯だ。


 目をつぶると穏やかな寝息の音がかすかに聞こえ、まくらからはほんのり甘いフルーツのようないい匂いがする。


 ああそうか、夕方ポロリちゃんをこのベッドに寝かせていたんだった――そんなことを考えているうちに僕はすぐに眠くなり、そのまま眠りについたのであった。

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