24.幕間


 家に帰ると書斎に明かりが灯っていました。


「ただいま、お父さん」


 ちょうどくたびれたワイシャツ姿で出てきた痩身がぎくりと肩をこわばらせます。


「お、おかえり四夏。遅かったね。いや、色々忙しいんだろうね」


 気遣いがましいその態度にまゆをよせるのを長めのまばたきでこらえました。


「まあね。…………ねえお父さん」

「んっ、な、何かな?」

「今でもあの人のこと、愛してる?」


 そそくさと書斎に引き返そうとドアノブへかけた手をすべらせてお父さんは尻もちをつきました。


「な、何を」

「答えて」


 じぃっと圧力。いま言い切らなければこの先ずっと言えなくなりそうで。


「そりゃ……もちろん。愛してる。大切な人だよ」

「じゃあ、結婚して」

「………………四夏」


 最近また少しぶ厚くなった眼鏡から、ズレてはみだした目が四夏を見上げます。


「お願い」


 何年ぶりかもわからないその言葉を使う気まずさにカバンを下げたままの手を何度も組みかえます。これまでずっと有言無言にブレーキをかけていた後ろめたさが自然とおとなしやかな態度をとらせていました。


「……いや、でもね。そういうことは向こうの気持ちもあることだから」

「馬鹿っ! 今まで待ってくれてるんだよ、お父さんがその気にさせるの!」

「わあっ、わかった、そうだね、うん、その通りだ!」


 ぶんぶんと頷くとお父さんは背中でドアをはうように立ちあがります。


「でもまさか、四夏からそんなふうに言われるなんて」


 ヘタレぶりについ噴きだした怒りの名残りのままにらむと、お父さんは怯みながらも言葉を継ぎました。


「何かあったのか聞いてもいいかい?」

「……あの人と試合して、それで」


 四夏はあとの言葉を飲みこみます。それが全部ではないし、それをお父さんに言えばきっとお姉さんは許してくれないでしょう。


「やっぱり、秘密」

「そうか。……うん、今の四夏がそう言うなら良いんだろうね」


 肩の力のぬけたお父さんはうなずいたあと、


「約束しよう。できる限り早く彼女を連れてくる。上手くいったらその時は三人で話す時間をとってくれるね?」


少しだけ改まった声音でたずねてきます。


「……うん」

「よし、じゃあまずは手を洗って。夕飯は、」


 そこが良い子モードの限界でした。四夏はぷいと顔をそむけると。


「自分でするからいい。あとこれ、お城のレッスンの同意書。サインもらってきてって」


 カバンから取り出したプリントをぴっと突きつけます。お父さんは直した眼鏡のむこうでパチパチとまばたきしました。


「了解。…………四夏」

「なに」

「誰かの気持ちになれる素直さと、自分を誰かだと思い込む危うさは裏表うらおもてだ」


 肩へ置かれた大きな手にぴくっと眉根が寄ります。それ系のわからないお説教はここ数年ですっかり聞き流し対象になりつつあり。


「だけど。思った道を進めばいい。君はもうきちんと根を張った。今の心にあるものを宝物にして、迷ったときの地図にしなさい」


 払いのけかけた手のひらを思わずとらえました。言われたことをのみこむにしたがって突然にそれが名残り惜しいものに感じて。


(なんだろ、今日はこんなことばっかり)


 響かないと決めてかかっていた言葉が胸にひびいたり。わずらわしいと思っていたものを離れがたく感じたり。でも。


「うん」


 きっとそれは幼い自分の思い残しで。よりかかったままではこれからなりたい自分に追いつくことはできなくて。

 四夏はどうするでもなく手を下ろしました。

 昔より柔らかな手のひらは最後に力付けるように四夏をさすると離れます。


 この日から、お父さんとの会話はそれまで以上に簡素になりました。けれど何となく家にいる間は気にかけていて。ときどきはお父さんのご飯を準備してあげたり、出勤前には忘れ物や身だしなみをぼんやりチェックしたり。最近ではほとんど仕事用ローテーションから抜けないネクタイの柄にやきもきしたり。休みの日のだらしなさやニオイに時おり心がささくれることはあっても、前ほど毛嫌いすることはありません。

 やがて一つだった気配が二つになってもその距離感は変わらず。


 そんなふうに過ごすうち、四夏は16歳になっていました。



――鋼鉄の章・おわり



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