5 真夜中の疾走


 扉を開け放って、屋外へ出た俺とコレティアは、再び騒音に包まれた。

 荷車の渋滞は、まだ続いている。


 プリムスもこの渋滞に巻き込まれて、立ち往生していればいいのだが、一体どれほど前にプリムスが邸宅を出たのかすら、わからない。


 とにかく、急いで近衛軍団の兵舎に向かわなくてはならない。

 だが、徒歩では、時間がかかり過ぎる。


 コレティアが、荷車の間を縫って、一台の荷馬車へ近づいた。俺達がプリムスの屋敷へ入る前に、荷車の持ち主と喧嘩を始めた荷馬車だ。

 喧嘩は取っ組み合いに発展して、まだ続いている。


「馬を借りるわよ」


 コレティアは一方的に荷馬車の配達人に告げると、懐から取り出した短剣で、荷台から伸びるながえと馬を繋いでいた革紐を切った。


 俺はすかさず馬の背にまたがると、コレティアに手を差し伸べて、俺の後ろへ引っ張り上げる。鞍のない馬だが、贅沢ぜいたくは言っていられない。


「何をするんだ⁉」


 馬を盗まれたと気づいた配達人が、血相を変え、取っ組み合いを中断して立ち上がる。


「借り賃よ」


 コレティアが、先程、奴隷に渡した指輪とは別の指輪を抜くと、配達人に投げる。

 両手で指輪を受け止めた配達人は、指輪が金細工だと知った途端、歓喜の声を上げた。


「道を開けなさい!」


 突然、往来の真ん中に現れた馬に跨がる美貌の少女に、街道を行く荷車の主達の注目が集まる。

 荷車の波が緩やかになった隙に、俺は馬を歩道へ上げた。火急の際だ、多少の法律違反は、許してもらおう。


 俺は手綱を引いて、馬首を巡らせると、馬を走らせた。

 近衛軍団の兵舎は、北東にある。ここからなら、ほぼ真東へ進めばいい。


 しばらくフラミニア街道を北へ戻った後、細い路地を見つけて、入る。荷車が通れない幅の路地なら、荷車に遠慮せずに走れる。


 路地は明かり一つなく、闇に閉ざされていた。

 淀んだ空気の中に、すえた臭いが混じっている。

 両側にインスラの壁がそそり立つ路地は、まるで陽の差さぬ谷底のようだ。


 倒壊の危険性を減らす為、インスラの高さは、法律で十四パッスス(約二十一メートル)以下と定められているが、守っている建物は少ない。

 上階の入居者が勝手に木造のバルコニーを付けて、居住空間を増やしているのだろう。

 路地を見上げても、夜空の星すら見えない。


 幾つかの路地を抜けると、やや広い通りへ出た。

 幸い、荷車の数は少ない。


 首都の北東部には、共和制時代の美食家で有名なルクルスの庭園や歴史家サルスティウスの庭園等、人々の憩いの場である庭園が多い。荷車が荷物を搬入するような商店や倉庫は少ないのだ。


 荷車が途絶えた隙に道を渡る。眼前に横たわる黒い丘は、クィリヌスの丘だ。


 クィリヌスの丘の上には、古い血筋を誇る名家の邸宅が居を構えているが、斜面にはインスラが建てられている。

 インスラとインスラの間の路地に再び入ろうとすると、馬に驚いたのか、暗がりからぼろ同然のテュニカを着た男が飛び出してきた。物乞いだろう。


 インスラの間の斜面を駆け上がり、丘の上へ出ると、別世界が広がっていた。

 インスラ暮らしの住人を嘲笑うかのような立派な邸宅が並び、幾つもの広々とした庭園の緑が夜の静けさの中、眠っている。荷車の喧騒も、ここまでは届かないようだ。


 曲がり角を見つけた俺は、馬首を巡らせる。

 クィリヌス丘の斜面を下りると、再びインスラや商店が立ち並ぶ中へ出た。荷車の車輪の騒音が戻ってくる。


「ちゃんと道は合っているんでしょうね!」


 幾つかの角を曲がり、路地を通り抜けていると、俺の背中でコレティアが声を上げた。

 苛立たしそうな声から察するに、俺を押し退けて、自分が手綱を握りたいようだ。


「俺は、ローマ生まれのローマ育ちだぜ。任せろ」


「プリムスに追いつけなかったら、承知しないわよ!」


 コレティアが厳しい声で叱咤する。

 プリムスがどのくらい前にどの道を通ったのかもわからないのに、無理を言うお嬢さんだ。


 だが、俺も、プリムスをむざむざ逃すつもりはない。


「ウィミナリス門だ。近衛軍団の兵舎までは、あと一息だぞ」


 俺はコレティアへ告げながら、セルウィウス城壁に設けられたウィミナリス門を馬で駆け抜けた。


 セルウィウス城壁は、まだローマが王政だった時代に建てられた城壁だ。

 カエサルは、首都に城壁は不要だと、セルウィウス城壁の取り壊しを命じた。だが、この辺りには城壁の一部が残っている。


 ウィミナリス門を過ぎ、左手に目を向ければ、建物のない広い区画が広がっている。

 近衛軍団の訓練場だ。訓練場の先には、近衛軍団の兵舎カストラ・プラエトリアニの高い壁が闇の中に威容を誇っていた。

 城壁の上には、夜警のための松明が、地上に降りた弱々しい星のように並んでいる。


 一体、近衛軍団の何人が、プリムスに買収され、ティトゥス帝の暗殺に加わるつもりだろうか。


 ティトゥス帝は、皇太子である時分、近衛軍団長官プラエフェクトゥス・プラエトリオの地位に就いていた。


 近衛軍団の長官は、普通は、第二階級である騎士階級エクィタスの者が就任する。

 元老院階級であるティトゥスの近衛軍団の長官就任は、降格人事に他ならなかったが、ウェスパシアヌス帝は、本国イタリア唯一の軍事力が自分を支持するよう、共同統治者ともいえる息子ティトゥスを近衛軍団長官に任命したのだ。


 かつての上司であるティトゥス帝に牙を剥く近衛兵が数少ないであろう事態を、俺は願っていた。

 ローマ人の心根が、金で忠誠を売るほど堕落していると思いたくない。


「ルパス! 訓練場に明かりがあるわ!」


 後ろに乗るコレティアが、鋭い声で俺の注意を促す。

 俺は、迷わず馬首を巡らせた。



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